高度経済成長時代に入る前、家庭の燃料は主に木炭・薪(まき)だった。松山では焚(た)きつけにするため、絶えず「落ち葉かき」が行われた。エネルギー革命で燃料が石炭から石油に代わると、液化石油ガス(プロパンガス)が普及し、落ち葉かきの必要がなくなった。
その結果、落ち葉や枯れ枝が堆積して松山が富栄養化し、ほかのキノコやカビが生えて、松の根と共生する菌根菌のマツタケがすみかを奪われ、数が減って値段が高騰した、とチコちゃんはいう。マツタケの生産量は、昭和40(1965)年1291トンが、平成28(2016)年69トンと、およそ20分の1に激減した。
朝日によると、不作だった去年(2019年)の国産マツタケはわずか14トン。激減がレッドリスト入りした理由で、専門家は「採り過ぎではない。食べるのをやめたら増えるものでもなく、松林の減少を食い止めることが必要だ」とコメントしている。
マツタケは、今はキノコの横綱だが、大昔はどうだったのか――。岡村稔久『日本人ときのこ』(ヤマケイ新書、2017年)によると、マツタケが文献に現れるのは平安時代になってから。平安後期には、都の周辺に松林が広がり、公家たちがマツタケ狩りに出かけるようになった。
それまでは神社の森や洛外の広葉樹林でヒラタケを採る人が多かった。ツキヨタケをヒラタケと誤認して食中毒をおこすこともあった。そんなことが文献的に確認できるという。
鎌倉時代に入ると、マツタケは、コイやキジとともに貴人の食べ物として大切に扱われるようになる(徒然草)。しかし、京都周辺の山地からは広葉樹の原生林がしだいに姿を消してゆく。要は、奈良や京都周辺の山々が都の造営などで伐採された結果、二次林の赤松林が増えてマツタケが発生するようになった、ということだろう。
上に掲載のマツタケの写真は2009年8月中旬に撮った。カミサンの幼友達がお土産に持って来た。「匂わないマツタケ」だった。梅雨期に採れるものはサマツタケという。サマツタケはマツタケより匂いが弱い。長梅雨だったので、これが採れたらしい。
1本は近くの息子の家に届けた。残る2本のうち1本は網焼きにした。手で裂いて焼き、醤油(しょうゆ)につけて食べた。残る1本はマツタケご飯にした。ご飯が炊きあがったところに細かく裂いたマツタケを混ぜ込み、しばらく余熱で蒸らしてから食べた――と、拙ブログで確かめても、匂いも味も舌ざわりも思い出せない。
それよりなにより、いわきではまだ天然キノコを食べることも出荷することもできない。キノコの話になるたびに原発の罪深さが頭をよぎる。
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