2020年7月11日土曜日

真尾さんの古裂㊤沖縄の根付け

東日本大震災の前、真尾悦子さん(1919~2013年)から、カミサンに古裂(こぎれ)が届いた。それが先日、出てきた=写真下。添え書きが真尾さんらしい。
「端ぎれを差しあげるつもりでさがしましたが、年寄りの手元には華やかなものが見当たらず、このごろ縫ってるエプロンの残りなどばかり出てきて、われながらがっかりです。/これではパッチワークをなさるのにお役に立ちませんよねぇ。紫の布は、使い道がないまま古くなったものですけれど、何かの裏にでもなれば、と入れてみます。/ゴミをお送りするようなもので、ご迷惑かとおもいますけれど、お笑いにならないで……」

 このあと、さりげなくこう締めくくっている。「沖縄の根付けをひとつ忍ばせます(あちらでは、こんなふうに粗末な包装をします。それがちょっとおもしろい、と思って)」

 真尾さんはいわきとの縁が深い作家だ夫で詩人の倍弘(ますひろ)さん(1918~2001年)、そして2歳に満たない長女とともに、昭和24(1949)年、縁もゆかりもない平へやって来る。同37(1962)年には帰京するが、それまでの13年間、夫妻が平で実践した文化活動は、大正時代の山村暮鳥のそれに匹敵する質量をもっていた、と私は思っている。

 倍弘さんは一時、いわき民報社で記者として働いた。ぜんそくが悪化して退職し、肺結核を併発して双葉郡の大野病院に入院する。真尾さんはその間も呉服店が発注してくれる針仕事で家計を支えた。倍弘さんが退院したあとは、知り合いの実家の物置に落ち着き、「氾濫社」の看板を掲げて、郷土雑誌や詩集・句集などの印刷・出版を手がけた。

 真尾さんは平時代の昭和34(1959)年、最初の本『たった二人の工場から』(未来社)を出す。帰京後は作家として立ち、『土と女』『地底の青春』『まぼろしの花』『いくさ世(ゆう)を生きて』『海恋い』などの記録文学を世に送り続けた。

 いわきとの縁はずっと続いた。私が30代後半のとき、民俗研究家の故和田文夫さん(四倉)を介して初めて会った。「あなた、私の息子によく似てるわよ。笑ったところなんか、そっくり」(長男は昭和25年、平で生まれた)。「それじゃ、いわきの息子になりますか」。以来、真尾さんが平へ来るたびに、「いわきの息子」として声がかかり、会うようになった。わが家へ顔を見せたこともある。

 平成16(2004)年夏、いわき市立草野心平記念文学館で企画展「真尾倍弘・悦子展 たった二人の工場から」が開かれた。文学館から頼まれて図録に文章を書いた。真尾さんから聞いたいわき民報「くらし随筆」にまつわるエピソードを紹介した。
きのう(7月10日)、沖縄の根付けがどこにあるか聞くと、小物入れのストラップになっていた=写真上。ついでに、図書館のホームページにある「郷土資料のページ」で、「くらし随筆」がいつ始まったのか、確かめる。「くらしの随筆」が「くらし随筆」になり、最初の執筆者が倍弘さんだった、ということについては、あした――。

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