今春閉校した大野一小は、八茎鉱山の最盛期、大半が「日鉄区」の児童で占められた。その社宅跡は、今はコンクリート資材置き場になっていると、映画はいう。四倉・玉山を起点、小川・高崎を終点とする「福島県広域農道」約10キロ区間が思い浮かんだ。
県道八茎四倉線と接続する字炭釜地内の起点部=写真=に、確かにコンクリート資材置場がある。グーグルアースでそのへんの台地を巡ったら、「新八茎鉱山玉山社宅配置図」の看板に出合った。そこから大野一小までは2キロ強。子どもたちには道草も含めていい通学路だったろう。
さらに別の日、八茎に「鉱山野郎」というヤマの歌があることを知った。ネットで日鉄鉱業の採用サイトにたどり着いたら、歌詞の字幕とともに歌が流れた。
同じいわき市内ながら、石炭の「常磐炭坑節」はよく知られている。銅・鉄・石灰石などの八茎に「鉱山野郎」があるのは初耳だった。
歌詞の1番。「親の代から 鉱山暮らし/北はサハリン 南はホンコン/流れ歩いたこともある/一目見たときゃ 威勢はいいが/本当は淋しい 本当は淋しい/鉱山野郎」
採用サイトには、「2番、3番は新しく作詞した」とある。2、3番どころか4番までの原詞が日鉄鉱業の『四十年史』(1979年発行)に載っている。
4番。「流れ流れて 東北いわき/どこに住もうと 短かい命/かける発破が 心意気/遠く遥かな あの山峡(やまあい)に/今日も生きてる 今日も生きてる/鉱山野郎」
『四十年史』によると、八茎鉱山の操業がようやく軌道に乗った昭和30年代後半ごろから、「従業員の間で“鉱山野郎”が歌われるようになった。この歌詞はやがて全社的に共感を呼び、ひろく愛唱されるようになったが、この歌は同鉱山が発祥の地である」。作詞・佐藤忠雄、作曲・関みのる、とあった。
「常磐炭坑節」が元気な歌なら、「鉱山野郎」は哀切な歌だ。歌詞もメロディーも演歌調。似たような歌詞があったな……。思いめぐらしていたら、「カスバの女」の歌詞とメロディーが浮かんだ。嫌いではない。むしろ、思い屈しているときなどに、自然と口ずさんでいる、そんな歌だ。
しかし、この曲調もまたアレンジされたものだった。昨夜(7月25日)、原歌を聴いた。採用サイトの「鉱山野郎」よりずいぶんテンポが速い。「カスバの女」から、「バタやん」こと田端義夫の「島育ち」のような雰囲気の歌に変わった。
広域農道は、終点部の高崎で県道小野四倉線とJR磐越東線をまたぐ。その架橋工事が進められている。完全に開通するのはまだ先だが、広域農道を利用すれば、わが家から夏井川渓谷の隠居まで、どころか、隠居から草野の魚屋さんまでは時間距離がぐんと短縮される。
特に起点部は土地の歴史に無知だったこともあって、単に通過するだけだった。が、往時は「玉山社宅」があって人が住んでいた、と知れば、違った感慨もよぎる。社宅の宴会ではバタやん風の「鉱山野郎」が歌われていたに違いない。
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