日曜日以外はあらかた家にこもっている。それで頭の寒さはほとんど気にならない。が、師走から春先までは家にいてもニット帽が離せない。
去年(2022年)、しばらく愛用していたニット帽に穴が開いた。代わりのニット帽をかぶるときもあったが、どうもしっくりこない。
先日、カミサンが新しいニット帽を三つ持ってきて、どれかを選べという。どこかの家のダンシャリで出たものがわが家に届く。その中にニット帽があったのだろう。
正面にニューヨークヤンキースのロゴマークがあるもの=写真=をかぶると、すっぽり入った。
ほかのニット帽は小さくてきつい。というわけで、一日、ヤンキースのロゴ入りニット帽を“試着”し、外出もしてみた。
人が行き交うなかで休んでいると、どういうわけか、このニット帽をかぶった若者の映像が脳内を巡り始めた。
音楽とかダンスといった路上のパフォーマンスに励んでいる若者が、これをかぶっていたような……。
外出から戻ると、カミサンが、やっぱり穴をかがることにした、という。古いニット帽の穴をふさげば、また使える。それに越したことはない。
ヤンキースのニット帽は、夏井川渓谷の隠居で土いじりをするときに使おう。そのために、隠居に置いておけばいい。
冬場、ニット帽が欠かせなくなったのは、もちろん頭髪が寂しくなったからだ。
いわき市三和町に住んでいた作家の草野比佐男さん(1927~2005年)は59歳のとき、ワープロを駆使して限定5部の詩集『老年詩片』をつくった。そのなかにこんな作品があった。
「老眼を<花眼>というそうな/視力が衰えた老年の眼には/ものみな黄昏の薄明に咲く花のように/おぼろに見えるという意味だろうか」
草野さんはさらに<花眼>の意味を考える。「あるいは円(まど)かな老境に在る/あけくれの自足がおのずから/見るもののすべてを万朶(ばんだ)の花のように/美しくその眼に映すという意味だろうか」
そのあとの展開がいかにも草野さんらしい。「しかしだれがどう言いつくろおうと/老眼は老眼 なにをするにも/不便であることに変わりはない」「爪一つ切るにも眼鏡の助けを借り/今朝は新聞の<幸い>という字を/いみじくも<辛い>と読みちがえた」
それと前後して、というより、もっと若かったかもしれない。草野さんがなにかに自分の頭髪が薄くなったことを書いていた。冬は頭が寒くて、夏は暑い――と。
私はまだ30代だったが、少し頭頂部が気になりだしていた。それで草野さんの文章が忘れられなかったのだろう。
頭髪がそろっていれば、常緑の森と同じで、頭皮も直射日光や寒気から守られる。その密林が疎林になってしまった今は、夏はハンチング帽、冬はニット帽が欠かせない。
たまにはファッションも、などと思ったものだから、つい「N」と「Y」を組み合わせたニット帽に手が伸びた。
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