2023年11月8日水曜日

33年前の「日本の詩101年」

                                  
 岩波文庫の『左川ちか詩集』を読んだのをきっかけに、同時代の詩やエッセーを読み返している。

 なんといっても気になるのは、左川ちかの実兄川崎昇の文学上の親友、伊藤整の存在だ。北海道時代、つまり左川ちかが少女のころからつながりがあった。

 図書館から『伊藤整全集』の第1、6、23巻を借りて読んだ。第1巻は主に詩作品、第6巻には「若い詩人の肖像」など、第23巻には随筆(昭和3~31年)が収められている。

 第1巻の付録は、トップが川崎昇の「ひとし君のころ」という随筆だった。北海道から上京した川崎昇が、小樽市で新しい市立中学校の先生になったころの伊藤整から受け取った手紙を紹介している。

「若い詩人の肖像」は自伝的小説で、左川ちかは川崎昇の妹「川崎愛子」として登場する。

「私が就職した直後に汽車で通っていた頃。女学校の二年生になった川崎愛子に逢うと、私は彼女の兄の消息を話し合った」

それだけではない。「この少女は、ちょっとませた所があって、私が彼女の友達の留見子の姉の消息を聞きたがっているのを知っているように、何かにつけて、留見ちゃんのお姉さんが、ということを私に言った」

そのあと、伊藤整は上京し、左川ちかも兄を頼って故郷を飛び出す。結婚した伊藤整の家に押しかけることもあった。

全集とは別に、わが家に日本の近・現代詩史をつづった本があったはず――。あちこち探したら、2冊出てきた。

1冊は『大岡信全集』第7巻。日本の大正以後の詩を概観した「蕩児の家系」が入っている。

もう1冊は33年前、平成2(1990)年の雑誌「新潮」11月臨時増刊=写真=だ。1890年から1990年まで、1年に1人、計101人の詩人と作品を取り上げている。

「蕩児の家系」からは発見はなかったが、「新潮」には、1936(昭和11)年の作品として、左川ちかの「雲のやうに」が載っている。

左川ちかについては、詩人で作家の富岡多恵子の詩人論を引用している。「詩を書く男たちに珍重された」が、「それはあくまで珍重されただけで、その詩の新しさを詩の歴史の中の出来事のひとつとして受けとめ得る男の詩人はいなかった」。それほど左川ちかは新しい詩を書き得た、ということなのだろう。

『伊藤整全集』に戻る。第6巻の付録には、北海道の詩人更科源蔵が、伊藤整の晩年、「久我山のお宅」を訪ねたことを書いている。

私が学校をやめて東京へ飛び出したとき、久我山の新聞販売店にアルバイトとして住み込んだ。九州出身の大学生が何人かいた。

そのなかの一人が伊藤整の家に新聞を配達していた。それを知ったとき、東京には作家が住んでいる、その作家と同じ空間で生きていると、ひそかに胸が熱くなった。

伊藤邸は、京王井の頭線久我山駅からちょっと東へ歩いた住宅街にあった。ネットで確かめると、今は登録有形文化財(2020年8月)になっている。

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