2024年1月25日木曜日

「旅の終りに」

                      
   「孫」が中1の夏休みのときだったから、もう10年近く前になる。読書感想文のことで悩んでいた。課題図書は『星空ロック』といって、少年が旅をする話だ。

具体的な本の内容は知らない。ただ「旅」という言葉に刺激されて、こんなことを語った。「空間的な旅のほかに時間的な旅もある、人生は旅なんだよ、人間は死ぬまで旅をしてるんだよ」

ほろ酔い機嫌で言葉が走ったら、「孫」がたちまち4コマ漫画に仕上げた。ちゃんと起承転結を踏まえている。内心、舌を巻いた。

「孫」は小さいときから絵を描くのが得意だった。このとき、文章も書く「イラストライター」になったらいいのに、と思った。

歌手の冠二郎の訃報に接したとき、彼の代表曲「旅の終りに」が脳内に流れた。同時に、それを劇中歌にしたテレビドラマと、この「孫」とのやりとりが思い浮かんだ。

結婚して、古い木造平屋の市営住宅に住んで、子どもが生まれた。まだ20代だった。

白黒のポータブルテレビでドラマ「海峡物語」を見た。主人公は音楽プロデューサーの「艶歌の竜」(芦田伸介)。その劇中歌「旅の終りに」が心に沁みた。ドラマの原作も、作詞も五木寛之だった。

 「流れ流れて/さすらう旅は/きょうは函館/あしたは釧路……」。のちのち自分の転勤になぞらえて、「きょうは平/あしたは勿来」などと、地名を替えて「旅の終りに」を歌ったこともある。

 「艶歌」は「怨歌」でもあった。「新宿の女」でデビューし、「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」などで一世を風靡した藤圭子について、五木寛之は「怨歌」という言葉を使った。なるほど、「演歌」には「艶歌」も「怨歌」もあるのだと知った。

 その藤圭子が平市民会館(現・アリオス)でリサイタルを開いたとき、取材をした。短い黒髪、黒い衣装、端正な顔立ちはそのままだったが……。

テレビで見るのと違って、きゃしゃで小さいのには驚いた。20歳前後なのに、印象は「針金のような少女……」だった。

 それはともかく、最近は「時間の旅」を振り返ることが多くなった。同時に、日曜日には短いながらも「空間の旅」を楽しむ。

夏井川渓谷の隠居へ移動する途中、神谷耕土の上に広がる雲=写真=に圧倒され、小川町三島の夏井川で休むハクチョウに心を癒される。

日常(自宅)から非日常(夏井川渓谷の隠居)へ、そこへの往来も含めて「空間の旅」を楽しむだけではない。

なんとか馬齢を重ねてきた、という思いも胸の奥にはある。「時間の旅」は一日一日の積み重ねでもある。

日々の旅の繰り返しが人生になる。人生には交差する「生」があり、「病」や「災害」があり、「老」があって、最後に自分の「死」が待っている。

冠二郎、いや八代亜紀、遠くは藤圭子も含めて、「あのときはどこで何をしていた」などと、しばし「旅の途中」に思いが巡った。

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