2024年1月18日木曜日

丸ごと避難

                     
 やはり能登半島地震のニュースから目が離せない。発災からすでに半月余り。いまだに地震が収まる気配はない。避難生活を強いられる被災者の心情を思うと胸が痛む。

 水道と電気が止まり、トイレも風呂も使えない。道路が波打ち、崩れ、亀裂が入ったために、車での移動も、支援物資の輸送もままならない。食糧が、灯油が、ガソリンが不足している。自宅であれ、学校であれ、避難生活は足りないものだらけだ。

 3・11のときには、地震・津波のほかに原発事故が加わった。わが家は、海岸から5キロほど内陸なので、津波被害は免れた。が、10日近く原発避難を経験した。

 川を軸に、ヤマ・マチ・ハマで分けると、私は平地のマチ、そして隠居のあるヤマ(夏井川渓谷)の3・11しか知らない。でも、そこから輪島の被災者と避難生活の「今」を想像する。

 ヤマ・マチ・ハマでは被災の中身が異なる。ハマはあのとき、多くのいのちと家屋が失われた。マチは半壊の家が多かった。全壊判定の建物はあったものの、ぺしゃんこの家を見たのは数えるほどだった。ヤマは落石や土砂崩れが相次いだ。夏井川渓谷を縫う道路はそれで通行止めになった。

 V字谷が続き、ちょっと開けたところに小集落が点在する=写真。今の時期は朝9時ごろ、向かい山から太陽が顔を出し、午後3時にはもう尾根の陰に姿を消す。そういう場所だからこそ、住民は助け合って暮らしている。

 渓谷の小集落、例えば私ら夫婦が日曜日に通う牛小川は、わが隠居を含めて戸数は10戸ほどだ。常住しているのは7世帯で10人ちょっとだろうか。

 私らが隠居へ通い始めた29年前(阪神・淡路大震災の年の初夏)は、確か9世帯合わせて30人近くが住んでいた。

この四半世紀で住民自身が「限界集落」と口にするほど 子どもの姿が消え、老夫婦あるいは独り暮らし世帯に変わった。

能登半島のヤマも事情は変わらないだろう。道路が寸断されて孤立状態になっている集落が少なくないという。

石川県はそこで、当面の間(道路や生活インフラが復旧するまでの間)、集落ごとの「丸ごと避難」を進めることになった。

3・11はでは津波被災者のほかに、16万5千人弱の原発避難者が出た。住民は突然、家を、ふるさとを追われ、家族や友人・知人たちとも離れ離れになった。

拠って立つコミュニティなしには、人は生きられない――。過去の避難例を教訓に、今回はコミュニティごとの避難を進めることになったのだろう。

それはわかる。そして、「ばらばら」だろうと、「丸ごと」だろうと、避難生活が長引けば長引くほど、その土地の暮らしに染まっていく。

隣人と茶飲み話ができる。これは大事なことだが、やがて土いじりができない、森に入れない……といった心の空洞も広がる。やはり、早い帰還を前提にした丸ごと避難であってほしい。

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