2024年3月15日金曜日

僧侶は元鑑識官

                               
 毎年、東日本大震災が起きた3月11日に、犠牲者を追悼する式典や復興祈念の行事が行われる。

 今年(2024年)はその一つとして、いわき市泉町の「密厳堂」で、津波で亡くなった人々の慰霊法要が行われた。3月13日付のいわき民報=写真=で知った。

 密厳堂は元県警鑑識官の松井弘観(本名・利弘)さんが、平成30(2018)年、自宅に開いた高野山真言宗易行(いぎょう)派のお堂だ。

 松井さんの先祖に幕末の動乱期、泉藩の郡奉行だった松井秀簡(1826~68年)がいる。

奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦い、いわゆる「戊辰戦争」が起きると、藩論は二分され、秀簡は非戦論を唱えて自刃する。

 明治の世に変わり、新政府は「神仏分離令」を出す。その結果、泉藩内ではおよそ60あった寺院が「廃仏毀釈」によって姿を消した。

 それから150年。若い美術家たちが泉をフィールドに新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」を開いた。密厳堂が第二の会場になった。

 そのときの様子がブログに残っている。――入り口は竹林を思わせるデザイン。間にしめ縄を飾った竹の鳥居、出入り口付きの土壁がつくられた。これらも作品だ。奥の密嚴堂は軒が竹の笹で飾られている。竹林もそうだが、建物もいい雰囲気だ。

密嚴堂の内部は、居間が二つ。東側の部屋には「地獄」が描かれ、西の部屋には床の間に大日如来の掛け軸、つまり「密嚴」(浄土)が表現されている――。

 さて、その松井さんだが、震災では鑑識官として壮絶な体験をした。13日の新聞記事からそれをたどる。

長期休暇を取って四国の八十八カ所巡礼を続けていた最終日、故郷が災禍に見舞われた。なんとかいわきへ戻り、災害現場に入ると、毎日、津波の犠牲者の検死に当たった。

「津波犠牲者の多くは手がかりになる免許証や、携帯などもなく、身元特定は困難だった」。変わり果てた姿で見つかる犠牲者を「苦しかったろう、無念だったろう」と悼みつつ、警察官としての職務を全うした、という。

先祖の松井秀簡の生きざま、泉藩内の廃仏毀釈、そして津波犠牲者の検死……。仏教への思いは募り、定年退職後に高野山で修行し、戊辰戦争150年の節目の年に密厳堂を開いた。

 記事の中に、松井秀簡について触れた拙コラム(令和4年10月4日付「夕刊発・磐城蘭土紀行)が紹介されている。付け足しだろうが、それがあることで記事が急に身近なものになった。

 このコラムは、いわき地域学會の市民講座で会員の中山雅弘さんが「松井秀簡~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話したのを紹介したものだった。

 会場で初めて、中山さんに紹介されて松井さんにあいさつをした。松井さんの生き方には、あらためて頭の下がる思いがする。

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