2024年3月14日木曜日

カフェーと林芙美子

           
   いわきの大正時代と昭和初期の文学を振り返るたびに、当時の新風俗としての「カフェー」が気になる。

大正時代、磐城平にやって来た山村暮鳥が詩の種をまき、それが芽生えて花が咲いた。暮鳥の盟友である好間・菊竹山の三野混沌が、北海道へ移住した猪狩満直にあててはがきを書いている(昭和2年1月9日推定)。

「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。

地元紙には、「平二丁目のカフェータヒラ」で詩の会が開かれた(大正14年)、「平カフェー本店」で詩集の出版記念会が開かれた(昭和4年)、という記事も載る。

当時の文学青年、あるいは一般市民は「カフェー」をどう受け止めていたのか、何か新しい資料が出るとすぐ読む癖がついた。

いわき総合図書館の新着図書コーナーに篠原昌人『女給の社会史』(芙蓉書房出版、2023年)があった=写真。「女給」と「カフェー」は切っても切れない関係にある。すぐ借りて読んだ。

私が客として飲み屋へ行くようになったのは、むろん就職してからだ。それでも「ママ」ひとりのスナックがほとんどで、「ホステス」がたくさんいるキャバレーやクラブとは縁がなかった。

『女給の社会史』によると、「女給」が「ホステス」と呼ばれるようになるのは、昭和30年代後半。東京オリンピックが節目になったようだ。その前後に高級クラブや大きなキャバレーが開業する。

で、まだ「女給」時代の大正・昭和の話だ。『放浪記』で知られる作家の林芙美子(1903~51年)は上京したあと、食べていくためにカフェーに勤める。

作家仲間の平林たい子や佐多稲子も、同じように女給をやりながら、文学修業を続けた。

芙美子は詩を書いていた。「大正十三年の春、芙美子は本郷にある南天堂という書店兼レストランを度々訪ねた。そこはアナキスト詩人の溜り場であった」

南天堂については、寺島珠雄『南天堂――松岡虎王麿の大正・昭和』(皓星社、1999年)が詳しい。ここに芙美子に関する記述が少なからずある。それも合わせ鏡のようにして読んだ。

南天堂は2階がレストランだった。そこに出入りしていた詩人は岡本潤・壷井繁治・萩原恭次郎・宮崎資夫・辻潤・小野十三郎・野村吉哉・五十里(いそり)幸太郎らで、大杉栄が殺されたことに怒りと興奮を抱く人間もいたという。

芙美子は最初、俳優で詩人の田辺君男に連れられて南天堂を訪れる。その後は田辺と別れ、ひとりで南天堂に現れ、詩人の間を遊弋(ゆうよく)した。

一方は東京、一方は磐城平。レストラン、あるいはカフェー、バー。女給がいた時代の空気を想像する。

平林たい子や佐多稲子の作品はまだ読んでいない。100年前の夜の世界を知るためにものぞいてみようか。そんな思いがわいてきた。

ついでながら、アナキスト詩人草野心平は、南天堂にはほとんど縁がなかったようである。

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