2024年3月8日金曜日

ウクライナの俳句

                                
   日曜日(3月3日)の全国紙で、ウクライナに俳句を詠む若い女性がいることを知った。ウラジスラバ・シモノバさん、24歳。

日本の俳人黛まどかさんらの協力で、14歳から詠んできたロシア語の作品が、日本語の俳句として「翻訳」され、本になった。

 『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』(集英社インターナショナル、2023年)=写真=で、記事を読んだあと、いわき中央図書館にあるのを確かめて借りた。

翻訳された俳句は、いかにも「らしい作品」になっている。記事が紹介していたのは、ロシア侵攻前の作品2句と、侵攻後の1句だ。

最初の2句は「届かざる窓いっぱいの桜かな」「犬小屋のボウルも春の雨溜めて」。戦争になってからの句は「引き裂かれしカーテン夏の蝶よぎる」。

小説や詩とちがって、俳句は文語が基本、しかも五・七・五の17音節で構成される。テレビの「プレバト」でもわかるように、言葉を刈りこむことで世界が深く、広く、より明瞭になる。

「翻訳句集」に載る本人の文章によると、原作品は本人の「第一言語」であるロシア語で書かれている。

ロシア語で「俳句を詠むときは、1行目は5音節、2行目は7音節、というように、必ず五・七・五の音節を重視」する。とはいえ、それを日本流の「俳句」に翻訳するのは容易なワザではない。

その過程を知りたかったのが、「翻訳句集」を借りて読んだ大きな理由だ。それをまず、紹介する。

日本の中日新聞で彼女の存在を知った黛さんは、新聞社を介して彼女と連絡を取り、交流を重ねて句集刊行を思い立つ。

そして、「独りよがりの解釈に陥らないよう十数名の女性俳人と翻訳チームを結成した。さらに、句の背景を知るウクライナ人、ロシア語を母語とするロシア人にも参加してもらった」。

そのうえで、メールやオンラインで何度も打ち合わせをし、7カ月をかけて選句と翻訳、推敲を重ねた。

その結果、ウクライナ戦争を境に、それ以前の作品29句、以後の作品21句の計50句が本に収められた。

句集が成るまでには水面下での地道なやりとり、多くの人たちの協力、膨大な作業と時間を要したことがわかる。

彼女が俳句に出合ったのは、心臓病で入院した14歳のとき。病院にだれかが置いていった詩の本があった。この中で紹介されていた日本の俳句に目が留まり、それに感動したのがきっかけで俳句を始めたという。

冒頭の全国紙には、ロシア語で作った句をウクライナ語に翻訳する作業を進めている、とあった。「私の同胞の殺害を命じるときに使われる言語で、俳句は作れない」。重い覚悟だ。

今は生まれ育ったハルキウから避難先で暮らすウラジスラバさんの戦争以後の作品から2句。「地下壕に開く日本の句集かな」「警報の空を旋回つばくらめ」

ツバメは東日本大震災と原発事故のあった年にも日本へ飛来した。人のいなくなったエリアは、ツバメにどう映っただろう。

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