2024年5月18日土曜日

経過観察

                      
 大腸のポリープを切除してから2年がたつ。その後の状態を確かめるために、かかりつけ医を介して基幹病院で消化器の内視鏡検査を受けた。

 まずはドクターに会って、検査日を決める。そのための相談日が決まった。2年前と違って付き添いが必要だという。

 なぜ? たぶん後期高齢者になったからだ。一人で大丈夫、といってもしかたがない。カミサンが付き添うことになった。

 担当のドクターは前回と同じだった。初日はこちらの予定と照らし合わせながら、何日に胃カメラ、何日に大腸内視鏡と、検査日を決めるだけで終わった。

検査には一人で出かけた。カミサンは店をやっている。胃カメラはすぐ終わるが、大腸は下剤の投与から病院ですることにしたので、長丁場だ。帰りは夕方になる。家を留守にするわけにはいかない。

で、結論からいうとどちらにも変化はなかった。結果はかかりつけ医に伝えておきます――つまり、「今回はこれで終わり」になった。

ただ、食事には制限がかかった。特に大腸の場合は、検査前日の朝から注意が必要だった。

病院からもらったチラシ(「おすすめメニュー」)は、前回のものと同じだ。朝食=食パン(具なし)・ポタージュスープ(具なし)・バナナ・ヨーグルト(プルーン)。昼食=素うどん・卵焼き(具なし)。夕食=雑炊(卵・ささみ入り)・みそ汁(具なし)・焼き魚(皮なし)・豆腐(薬味なし)。

今回もこのどれかを組み合わせて、朝・昼・夕と食事をとった。みそ汁にはナメコもワカメもない。汁をすするだけ。うどんは薬味も具もない。

今回も、胃腸にはやさしいが、食べる楽しみからするときわめて味気ないものになった。

検査当日の朝もチラシに従って食事を控えた=写真。下剤は、今回は病院で飲んだ。

午前中に検査をするとなると、自宅で、未明から下剤を飲んで大腸をきれいにしないといけない。

下剤の量は1・5リットル、それに水をその半分の750ミリリットル。コップに何回も分けてゆっくり飲む。

そのうち洗浄液のまじった排便が始まる。落ち着くまで2時間前後は飲む・トイレへ行く、を繰り返す。

 カミサンがこれを嫌って、病院でやってくれという。そのために、下剤は午前中、病院で飲み、検査は午後からというスケジュールになった。つまり、昼食もとるわけにはいかない。

というわけで、都合3日、病院へ通った。窓口で支払いをすませるために精算を待つ間、いすに座っていると、次々に患者が通り過ぎていく。

 その数の多さに、久しぶりに目を見張った。JR上野駅ほどではないにしても、それに近い込みようだ。

不特定多数の人が行き交う建物としては、やはり浜通りで一番ではないか、と思った。

2024年5月17日金曜日

『木村孝夫詩集 持ち物』

           
 13年前の東日本大震災と原発事故以来、一貫して被災者と避難者に寄り添って詩を書き続けている。

 いわきの詩人木村孝夫さん(平)。若いころからお名前は知っていた。が、実際にお会いしたのは震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわき市で交流スペース「ぶらっと」を開設・運営していたときだ。

 カミサンがシャプラの会員、私がマンスリーサポーターだったので、半分は運営側の人間として「ぶらっと」にかかわった。

 木村さんはそこにできた将棋クラブの一員だった。以来、シャプラが5年に及ぶ活動を終えてからも、夫婦ぐるみで付き合いを続けている。

 木村さんは震災後、『ふくしまという名の舟にのって』(2013年)、『桜蛍』(2015年)、『夢の壺』(2016年)と、精力的に詩集を出した。

 その後も、ポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』(2018年)、同『六号線――140文字と+&の世界――』(2019年)、モノクローム・プロジェクト(兵庫県)のブックレット詩集20『福島の涙』(2020年)と刊行を続けた。

 さらに、2021年春には詩集『言霊(ことだま)』(純和屋)を、翌2022年もモノクローム・プロジェクトのブックレット詩集27『十年鍋』を出している。

『ふくしま――』は福島県文学賞・詩の部門正賞、『福島の涙』はいわき民報社のふるさと出版文化賞優秀賞を受賞した。

と、ここまで書いてきて、木村さんの詩魂の強靭さにあらためて驚く。その思いの強さ、深さは『桜蛍』のあとがきからもうかがえる。

「できるだけ避難者の内面的なものを描くという目的を持って書いています。どこまで避難者に寄り添い、その思いに触れ、描き切れたのかは分かりませんが、書きながら、何回も被災場所に行ったり来たりしながら、また奉仕活動を通して多くの避難者の声を聴きました」

その木村さんからまた詩集をちょうだいした。シリーズ100人の詩㉝『木村孝夫詩集 持ち物』(詩人会議出版、2024年)で、「あとがき」に詩集の意図がつづられている。

  ロシアのウクライナ侵攻などを機に戦争反対の詩も書き始めた。震災詩についても、書くことに蓋を閉じることはしない。

「平和の喫水線が沈みかけている/疑似平和に惑わされてはならない/軍靴の音に高揚してはならない//戦争に蓋を被せる国はないのか?/と 問いたい」(「喫水線」)

この問いには強く同意する。そして、詩集のタイトルになった震災詩「持ち物」。行方不明の魂がある。生き残った者も津波の夢を見る。寝室が、記憶が海になる。

「明け方近くなのだろう/風邪を引かないようにと/叔母さんは/眠ろうとしても眠れないのだ//持ち物を探している/一つ見つかれば仏間に戻れるはずだ/長く深く眠る為に」

 根底にあるのは、人間の尊厳を踏みにじる人災や戦争への怒り、自然災害に対する悲しみだろうか。

2024年5月16日木曜日

シャガは帰化植物

                   
 夏井川渓谷にある隠居までの道路沿いに、1カ所(正確にはガードレールをはさんで2カ所)、シャガが群生しているところがある。

 今年(2014年)の開花に気づいたのは4月下旬の日曜日だった=写真。5月に入ってからも咲き続け、12日の日曜日も白い花をびっしりつけていた。

 シャガを知ったのはざっと40年前の昭和57(1982)年春。前年秋、平の本社から勿来支局へ移り、鮫川流域の勿来・遠野・田人地区が取材範囲になった。そのなかで高倉町の高蔵寺境内がシャガの群生地であることを教えられた。

春になると、三重の塔(福島県重要文化財)をバックに、シャガの写真がメディアを飾る。私も取材をして、大型連休のお出かけスポットの一つとして紹介した記憶がある。

 それから十数年。夏井川渓谷の集落の一角、しかも道路沿いにシャガの群落があることは、隠居へ通うようになってすぐわかった。

 が、既知の花でもあり、車で通り過ぎるだけにして、写真に収めるようなことはしなかった。

 車の通行量が少ないといっても、ゼロではない。車道に車を止めて撮影を――となると、後続の車両に迷惑がかかる。

 それが今回、初めて車を止めて写真を撮ったのは、思ったより花期が長いことを実感したからだ。むろん、後続車両がないことを確かめて車を止めた。

 高蔵寺境内の大群落に触れて以来、シャガはてっきり日本の野草だと思いこんでいたが、そうではなかった。中国東部~ミャンマーが原産地で、日本へは早いうちに渡来した。つまりは帰化植物だ。

 分布の広がりは人為による。初めは誰かが移植した。日本のシャガは種ができない。地下茎で増えるという。群生しているのは、この地下茎のネットワークゆえだった。

 さて、話は変わる。日曜日は隠居で土いじりをする。このごろはしかし、「年寄り半日仕事」で、午前中2時間もすると仕事を切り上げる。

 以前は昼食を持参したが、このごろは街へ下りて、コンビニなどでサンドイッチを買って、家で食べる。

 カミサンは日曜日だけでも家事から開放されたいと思っている。日曜の夜はそれで刺し身を買いに行く。

 昼も、できれば家ではなく、外で済ませたい。というので、12日はラトブにある喫茶店で昼食をとった。

 ドリンク付きのサンドイッチが、なんと千円を超えていた。コロナ禍前は確か千円以内だったはずだ。

 私は、コンビニのサンドイッチと紙パックの牛乳で済ますのが多い。それもあって。街の店で食事をするのは、できれば控えたい。

 とはいうものの、シャガの命の長さに感心しながら下界へ下りてきたら、値段の高さに頭をなぐられた感じがした。

やはり、コロナ禍、ウクライナ戦争、円安といった経済情勢が影響しているのだろう。

2024年5月15日水曜日

シオカラトンボの仲間

                     
 これはたぶん、興味と関心の濃淡による。身近な野鳥はウオッチングをしてきたので、ある程度はわかる。

 野草もそのつど調べて名前を覚えたので、わが家の庭をはじめとする生活圏、あるいは夏井川渓谷にある隠居の周辺の花なら、なんとかわかる。

 地元の人間に聞く。ネットで調べる。アナログであれ、デジタルであれ、知らないことを知るには最大限利用する。ネットには答えが埋まっている。

 ネットの情報は玉石混交だとよく言われる。その通りで、専門家の「玉」の情報も、ネットにはあふれている。そこへたどり着くまでの我慢が大切だ。

そのためには「違う」感覚をあいまいにしないことだ。5月12日の日曜日にこんなことがあった。

渓谷の隠居で休んでいると、庭でカミサンがトンボに出合った。「シオカラトンボがいる!」

声に誘われて、カメラを持って庭に出る。庭には木製のテーブルがある。腐朽が始まってだいぶたつ。そこにシオカラトンボが止まっては飛び、飛んでは止まり――を繰り返していた。

たまたま近い距離でパチリとやった=写真。撮影データを拡大しながら、ネットでシオカラトンボかどうかを確かめた。

トンボもそうだが、昆虫はよくわからない。いわき地域学會に昆虫が専門の仲間がいる。彼の講演や文章から、種の同定は簡単ではないことを承知している。

シオカラトンボを見た瞬間、シオカラにしては小さい、尾が平べったくて先端まで灰色っぽい――この2点で、シオカラとは言い切れない、という感覚がわいた。

そのためにネットを利用し、あれこれ検索していると、シオカラトンボの仲間のシオヤトンボらしいことがわかった。

シオヤは小柄で、腹部が扁平で短い。翅の先の縁紋は、シオヤは橙褐色、シオカラは黒色。尾の先端の黒みは、シオカラが長く、シオヤは小さい。翅の付け根は、シオヤが赤褐色なのに対して、シオカラは透明だという。

以上の特徴を当てはめると、シオヤにほぼ間違いない。そんな確信を抱いたが、シオヤには全くなじみがなかった。

シオヤは平地から低山地にかけての水田、休耕田、池などで見られるという。時期的には春から初夏で、大きさはアカトンボとほぼ同じだとか。

「春一番のトンボ」という形容にも出合った。その延長でいうと、私たちが目撃したのは、やはり成熟した、若いシオヤの雄のようだ。

隠居の周辺の生息地といえば、川べりの平地に沿ってできた小流れがまず思い浮かぶ。あるいは山側にある水田、その他の湿地だろうか。

いずれにしても、初夏が始まったばかりのこの時期、想定外の早さでトンボが出現した。

2024年5月14日火曜日

図案家鈴木百世

                      
 5月7日付のいわき民報1面記事=写真=には驚いた。昭和17(1942)年、42歳の若さで亡くなった図案家がいわきにいた。その孫が遺作を市立図書館と暮らしの伝承郷に寄贈したという。

 「常磐炭田鳥観図(ちょうかんず)」や平七夕祭りのポスター、地酒のパッケージなどの原画が、ほぼ当時のままの状態で残っていたというから、よほど保管状態がよかったのだ。

 鈴木百世(ももよ=1901~42年)。今風にいえば、商業美術を手がけるグラフィックデザイナーだ。

 記事によると、鈴木百世は平で生まれ、豊島師範学校(現東京学芸大)で美術を学び、東京の小学校で教鞭をとった。

 体調を崩して帰郷し、昭和10(1935)年、商業広告などを手がける「図案社」を設立した。同15年には再び教壇に立ち、2年後に倒れて、暮れには亡くなったという。

 図案家としての仕事はわずか4年ほどだったが、手がけた作品はかなりの数に上る。それを遺族(妻と長男)が大切に保管してきた。

 その長男の娘が、父と祖母の死後、実家の片付けをしているうちに、祖父の遺作を見つけた。

 「常磐炭田鳥観図」は、たとえば『いわき市史別巻 常磐炭田史』(1989年)の口絵に、二つに分割・拡大されて掲載されている。

が、原図の作者が鈴木百世だとはどこにも書いてない。この鳥瞰図から原作者を思い浮かべる読者はいないだろう。

もうひとつ。いわき駅前の総合図書館で、平成29(2017)年12月15日から同30年5月27日まで、常設展「鳥観図と地図に見る『平市』――平市誕生80周年・いわき市誕生前夜譚」が開かれた。その鳥観図「平市と附近景勝案内」(1937年)は、原作者が鈴木百世だった。

いわき市立図書館のホームページから「郷土資料のページ」を開き、「企画展示」をクリックすると、この作品が見られる。

鈴木百世は、『いわき市史第6巻 文化』などでも触れられていない、という意味では「忘れられた図案家」だ。

素焼きの人形に着色した「じゃんがら人形」の売り出しにも力を入れたそうだが、これが成功していれば、今も郷土の工芸品としていわきのお土産の一つになっていたのではないだろうか。

昭和12(1937)年6月1日、平町が平窪村と合併して「平市」が誕生したときには、東京日日新聞が市章を募集し、1等のほかに佳作10人が入賞した。

結果を報じた地元の磐城時報(昭和12年5月24日付=23日夕刊)によると、鈴木百世は佳作の筆頭、そして佳作の3番目には長男・哲夫の名がある。

いわき民報の記事には、図書館が「遺作集の調査分析などを進め、今後の展示に役立てていく」とあった。

「じゃんがら人形」や平市章応募のエピソードなども含めて、「図案家鈴木百世の仕事と思想」を紹介する企画展を、ぜひ早く。

2024年5月13日月曜日

カラスが襲った?

                      
 用事があって朝7時前、街へ出かけた。帰りに旧大黒屋デパート角の交差点で信号が赤になった。

 左手に歩道橋がある。たもとの歩道にカラスがいて、何かをつついている=写真。よく見ると、ドバトだった。ドバトが死んでひっくり返っていた。

 カラスがハトを襲った? ありえないことではない。が、ハトの交通事故ということも考えられる。

事故だとしたら、車道の死骸を目ざとく見つけたカラスが安全な歩道まで引きずり寄せて、食事を始めたところだったのかもしれない。

というのは、これまで何度か、カラスが路上に横たわっている動物の死骸に群がり、あるいは道端に引き寄せて、盛んにつついているのを目撃したことがあるからだ。

自分のブログで確かめると、15年前の6月中旬に「路上の死物学」というタイトルで、生きものの交通事故が多いことを書いていた。それを要約・再掲する。事情は今も変わらない。

――時々、動物が路上で死んでいる。街の幹線道路では犬や猫、特に猫の死骸が多い。

郊外ではタヌキが目立つ。堤防の上では毛虫。夏井川渓谷でも、タヌキ、テン、ヤマカガシなどの死骸を目にしてきた。いずれも車にはねられたり、ひかれたりしたのだ。

鳥も無事ではいられない。スズメ、コジュケイ、フクロウ、ムクドリ……。翼を持っているからさっとよけられるはずなのに、と思っても、車のフロントガラスなどにぶつかって昇天する。

昔に比べて車のスピードが上がっているのだろう。それだけ現代人はせわしなくなっているのだろう。

先日は、夏井川下流の堤防上でツバメの死骸に遭遇した。堤防の上を行き来する車はそう多くない。スピードもそんなに出せない。果敢に、スピーディーに「ツバメ返し」をする空の特急便も、ときには目測を誤って車にぶつかり、命を落とすのか――。

ほかにも、こんなことを書いていた。――路上に横たわっている犬や猫、タヌキのところへ真っ先にやって来るのはカラスだ。

交通量の多い場所では、車が赤信号で止まるのを待って“死物”を道端に寄せようとする。理由は、いわずもがなだろう――。

カラスは、それだけではない。普通の家庭や繁華街の飲食店などから出される生ごみにも敏感だ。

少しでもマナー違反があると目ざとくそこを突いてくる。コミュニティ=ゴミュニティには、ごみと人間のほかにカラスが加わる。

カラスとの知恵比べに負けるわけにはいかない、ということで、こちらはカラス研究の最新成果を絶えず吸収するようにしている。

 ま、それはともかく、カラスがドバトを襲った可能性についても考えておかないといけない。

 コロナ禍でレストランなどが営業を休んだとき、カラスのエサになる生ごみが減った。すると、それを補うためにカラスがハトを襲って食べた、という事例があったらしい。そんな情報がネットの海には漂っている。

2024年5月11日土曜日

仙台の焼物

                                
 江戸時代の仙台藩から続く話。仙台城下の北方を警備するため、奥州街道沿いに足軽衆が配置された。川のそばに堤があった。それで堤町といったのだろう。

現在は町の南をJR仙山線が走り、それと交差するように地下鉄が伸びる。両者が交わるあたりにそれぞれの駅がある。どちらも北仙台駅という。

 堤町について、市民が聞き書きをした冊子がある。『堤町まちがたり』(1992年刊)=写真。短大時代、仙台で暮らしたカミサンが何かの縁で手に入れたらしい。

 簡単にいうと、同市三本松市民センターが講座を主催し、受講生が「堤町」の住人を対象に聞き取り調査をした。それを、「奥州街道」「登り窯」「自然と暮らし」の3章にまとめた。

3人の講師のなかに民俗研究家の結城登美雄さん(仙台)がいた。結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。

震災後、いわきで結城さんの話を聞いたことがある。市主催の講演会で、タイトルは「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」。やはり「地元学」が入っていた。

地元学のポイントは「ないものねだり」ではなく、「あるもの探し」。講演では、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す、ということを強調していた。『堤町まちがたり』も「地元学」の文脈で読み解くことができる。

 冊子の中核は、大小さまざまな生活雑器をつくった「堤焼」と、同じ粘土を使った「堤人形」だろう。地元の土が粘土質だったこともあって、足軽の内職として焼き物が始まった。

 仙台市の中心地の一部となった今では、かつて盛んに登り窯から煙が上がっていたことを知る人も少ない。

 その焼物の町の歴史と自然を学ぶ過程で、受講生同士が、住民がつながりを深める――それこそが講座の最大の収穫だったと、あとがきにある。

 その聞き書きのなかに、いわきと関係の深い項目があった。戦後、堤町でも「蒸しかまど」が製造された。

「名古屋物」だったと、元職人。「親方の命令で作ることになり、2人で名古屋まで研究に行った」

「蒸しかまど」は、実はいわきで発明された。その製法を名古屋へ学びに行ったわけは、こんな経緯があったからだ。

早稲田の大学院でY君が「蒸しかまど」の研究を続けた。情報を集める過程で私のブログに出合い、実際にいわきへやって来て、わが隠居その他で保管してある蒸しかまどを実見した。

研究はやがて「近代におけるムシカマドの発明と普及――時代に翻弄された炊飯道具」という修士論文になった。

その彼の研究から、①蒸しかまどは福島県平町(現いわき市)で誕生した②やがて製造が追いつかず、火に強い粘土を求めて平町から愛知県三河地方に生産の拠点が移った――。結果、蒸しかまどは平ではなく、三河が製造の覇権を握った。

その名古屋物が仙台・堤町での製造につながった。蒸しかまどにも歴史的な変遷があったのだ。