2024年5月11日土曜日

仙台の焼物

                                
 江戸時代の仙台藩から続く話。仙台城下の北方を警備するため、奥州街道沿いに足軽衆が配置された。川のそばに堤があった。それで堤町といったのだろう。

現在は町の南をJR仙山線が走り、それと交差するように地下鉄が伸びる。両者が交わるあたりにそれぞれの駅がある。どちらも北仙台駅という。

 堤町について、市民が聞き書きをした冊子がある。『堤町まちがたり』(1992年刊)=写真。短大時代、仙台で暮らしたカミサンが何かの縁で手に入れたらしい。

 簡単にいうと、同市三本松市民センターが講座を主催し、受講生が「堤町」の住人を対象に聞き取り調査をした。それを、「奥州街道」「登り窯」「自然と暮らし」の3章にまとめた。

3人の講師のなかに民俗研究家の結城登美雄さん(仙台)がいた。結城さんは東北の農山漁村を中心にフィールドワークを重ね、住民を主体にした「地元学」を提唱し、各地で地域おこし活動を行っている。

震災後、いわきで結城さんの話を聞いたことがある。市主催の講演会で、タイトルは「『よい地域』であるために~地元学からの出発~」。やはり「地元学」が入っていた。

地元学のポイントは「ないものねだり」ではなく、「あるもの探し」。講演では、その地に生きた先輩の声に耳を傾けて学び直す、ということを強調していた。『堤町まちがたり』も「地元学」の文脈で読み解くことができる。

 冊子の中核は、大小さまざまな生活雑器をつくった「堤焼」と、同じ粘土を使った「堤人形」だろう。地元の土が粘土質だったこともあって、足軽の内職として焼き物が始まった。

 仙台市の中心地の一部となった今では、かつて盛んに登り窯から煙が上がっていたことを知る人も少ない。

 その焼物の町の歴史と自然を学ぶ過程で、受講生同士が、住民がつながりを深める――それこそが講座の最大の収穫だったと、あとがきにある。

 その聞き書きのなかに、いわきと関係の深い項目があった。戦後、堤町でも「蒸しかまど」が製造された。

「名古屋物」だったと、元職人。「親方の命令で作ることになり、2人で名古屋まで研究に行った」

「蒸しかまど」は、実はいわきで発明された。その製法を名古屋へ学びに行ったわけは、こんな経緯があったからだ。

早稲田の大学院でY君が「蒸しかまど」の研究を続けた。情報を集める過程で私のブログに出合い、実際にいわきへやって来て、わが隠居その他で保管してある蒸しかまどを実見した。

研究はやがて「近代におけるムシカマドの発明と普及――時代に翻弄された炊飯道具」という修士論文になった。

その彼の研究から、①蒸しかまどは福島県平町(現いわき市)で誕生した②やがて製造が追いつかず、火に強い粘土を求めて平町から愛知県三河地方に生産の拠点が移った――。結果、蒸しかまどは平ではなく、三河が製造の覇権を握った。

その名古屋物が仙台・堤町での製造につながった。蒸しかまどにも歴史的な変遷があったのだ。

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