2024年4月8日月曜日

植物の根は菌根

                                
 キノコ図鑑で学んだ固定観念といってもいい。植物は生産者、動物は消費者、菌類は分解者。自然界はこの生産~消費~分解の循環で成り立っている、と思い込んでそれ以上深く考えることはなかった。

 が……。いつのころか、木材腐朽菌(分解=シイタケやヒラタケなど)のほかに、菌根共生(生産=マツタケなど)というものがあることを学んで、モヤモヤした思いがふくらんできた。

 そのモヤモヤを吹き飛ばしてくれたのが、斎藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』(築地書館、2020年)だった。

 菌根菌は陸上植物の約8割と共生関係を結んでいる。菌根が地球の緑を支えていると言えるだろう――。

 キノコ、あるいはその仲間のカビなどが地球の緑を支えている! 蒙(もう)が啓(ひら)かれる思いがした。

 菌根共生とはこういうことらしい。菌が土中のリン酸や窒素を、菌根を通して宿主である植物に供給する。宿主は光合成で得られた炭素化合物を、菌根を通じて菌に供給する。土中でもちつもたれつの関係を維持している、というのだ。

 コロナ禍が収まって、去年(2023年)9月に常磐共同ガスのガスワンふるさと教室が再開された。これまでのつながりで3月の講師を引き受けた。

 以前はいわきの文学や地域新聞をテーマにしていたが、令和元(2019)年には熱帯地方のキノコであるアカイカタケがいわきで発見されたことを中心に話した。

 それから4年ちょっとたつ。が、菌根共生は今までの自然観を修正するような、強烈な概念だった。今回もそのことを中心にキノコの話をすることにした。

 題して「文化菌類学の楽しみ」。文化人類学にひっかけて、勝手に文化菌類学と呼んでいる、そのワケは――。

研究書ではなく啓蒙書、論文ではなく小説やエッセーなどを読んだり、キノコの登場する絵を見たりするのが好きだから、といってもよい。

ふるさと教室のレジュメをつくっているなかで、『菌根の世界』の続編が去年(2023年)、同じ出版社から刊行されていることを知った。

図書館にあったので、さっそく借りて読んだ。斎藤雅典編著『もっと菌根の世界――知られざる根圏のパートナーシップ』=写真。

地球の緑は30万種を超えているといわれるように、多様な植物から成る。その8割以上の種の根には菌根が共生している。ほとんどの植物の根は菌根を有しているという。

菌根共生がいつ始まったのか。地球誕生からだいぶたった4億5千万年前、不毛の大地に植物が現れ、何かの拍子に菌と出合い、お互いを利用しあう関係ができた。そんな成り立ちを経て菌根共生が出来上がった。

続編で驚いたのは、ネギもまた菌根に支えられているということだった。今度ネギを掘り取る機会があったら、じっくり根を、菌根を見てみよう。

それからもう一つ、石炭ができた理由がよく分かった。それについてはいずれ紹介したい。

2024年4月6日土曜日

車の流れがスムーズに

                      
 カミサンの知り合いがお茶飲みに来る。あとで私に、そのときの話をかいつまんで聞かせる。

おや? あるいは、なにそれ? 想像もしなかった出来事に触れると、「コラムの虫」が動き出す。

あれこれ考えをめぐらせているうちにブログ(新聞のコラム)の構成が決まる、ということがある。

 その意味では、ブログの材料の半分はカミサンからの情報といってもよい。独りでは毎日、ネタを探しきれない。

おや、なにそれ、おお、ええっ――。飛び込んできた情報への反応はいろいろだが、写真に撮れるものはまず撮る。

私のブログは写真の「絵解き」といってもいい。カミサンの情報を取り入れながら、写真を前提にして文章を組み立てる。

 先日はお福分けのセリがおひたしになって出てきた=写真。胃袋に入ってからでは遅いので、とりあえずパチリとやる。

 新鮮で、シャキシャキしていた。こんなに歯ごたえのいいセリはめったにない。この実感と写真を手がかりにして、どう書くかを考えていたら……。

 茶飲み話ではないが、接骨院での男の人たちの話が耳に入ったという。「マルハンが閉店したんだって」

 カミサンの言葉に、ええっ!となった。同時に、そうか、それで車の流れがスムーズになったのだと、納得がいった。

 ブログのタイトルはそれで決まり。「車の流れがスムーズに」。写真は、セリのおひたし。パチンコ店の閉店とセリのおひたしをくっつけたのは、主婦の視点と情報でブログのベースができたからだ。

平の街へ行くとき、旧道から国道399号(旧6号)に出る。少し進むと右側に大型パチンコ店(マルハンいわき店)が見える。

片側2車線だから、外側の走行車線の車が遅いときには、内側の追い越し車線を利用する、といいたいところだが、パチンコ店を過ぎるまでは我慢して走行車線を走る。

遅いからといって追い越し車線に移ったとたん、パチンコ店への右折車に遮られて前に進めなくなる。

上り下りとも交通量が多い。なかなか途切れないので、右折ができない、後続車は走行車線にも戻れない。たびたび封じ込められて、「我慢の習慣」ができた。

 しかもつい最近まで、走行車線で工事が行われていた。その工事が終わり、車の流れがスムーズになった。そう思っていたが、右手のマルハンが閉店したことも関係していたか。

 それともう一つ。毎日、新聞折込チラシの数を数える。パチンコ店のチラシはマルハンを除いて片面印刷だ。この裏面をブログの下書きに利用する。

マルハンは両面印刷。マルハンの折り込みがいつからかなくなっていた。閉店ではそれも当然だろう。

ふだんはテレビや新聞から世の中の動きを知る。主婦の茶飲み話からは、男とはまた違った日常の風景が見えてくる。それで地域の動きがより正確にわかる。やはり今回も、男だけでは視野が……という思いになった。

2024年4月5日金曜日

カラスがヤナギに営巣?

                            
 年度末の1週間は、街へ出かけても家に直帰した。いつもだと、帰りは夏井川の堤防に出て、川や河川敷の緑を見ながら戻るのだが、寄り道をするゆとりさえなかった。

 年度またがりで地域の仕事が続き、それがすんでやっと日常が戻ってきた。1日の午後、街へ行った帰り、何日ぶりかで夏井川の堤防を通った。

 平・鎌田~中神谷の対岸は平・北白土~山崎。この区間では、令和元年東日本台風からの復旧・強じん化工事が進められている。

 分厚く土砂が堆積し、市民が菜園を営んでいた北白土の河川敷は消えた。今は堤防の護岸工事がすみ、堤防そばに残る最後の土砂を除去している段階だ。

 右岸は、その意味では変貌した。川岸に何本もあった大きなヤナギの木をはじめ、草木はすべてなくなった。

 こちら側の左岸は手つかずのままだ。狭い河川敷の水辺にはヤナギの若木が生えている。左岸に堆積した土砂も間もなく撤去され、それに合わせて護岸工事も行われるに違いない。となれば、こちら側の緑もまた、一時的にせよ消える。

 何日か見なかった間に、岸辺のヤナギがすっかり緑を濃くしていた。少し大きいヤナギにカラスの古巣がある。ん⁉ その一つに黒いものが見える。動いている。カラスだ。カラスが巣づくりを始めたのだ。

 後続の車がないのを確かめてバックし、真横からカメラを向けた=写真。しかし、望遠レンズはない。拡大するとボケ・ブレがはっきりする。ぎりぎりのところで拡大をやめたが、カラスが巣づくりを始めたことははっきり分かった。

 令和元年東日本台風による水害が起きる前、右岸のヤナギの大木にはカラスが営巣していた。その観測記録(2005年)がブログに残っている。

――右岸(平北白土)のヤナギの高木に営巣したのを観察したことがある。毎朝、会社へ行く途中、双眼鏡を当てて手帳に記録をとった。
 それによると、抱卵に気づいたのは4月13日。それからほぼ3週間後の5月2日あたりにひなが孵ったようである。5月13日の夕方には親ガラスが巣を離れたあと、黒い頭を二つ確認した――。

さらに、もう一つ。堤防を散歩道にしていたころ(2008年)の4月某日。国道6号(バイパス終点)の夏井川橋そば右岸にあるヤナギの大木に、「逆三角形」のかたまりが見えた。双眼鏡で確かめると、親ガラスが抱卵中だった。

今度の塩のカラスも、抱卵~巣立ちまで同じような経過をたどるのだろうか。人間が暮らす社会の隣、堤防で区切られた河川敷にも「生きものの社会」がある。とはいえ、国土強じん化工事の中で、岸辺のカラスは「住宅難」に陥った。そんな感慨も抱く。

そして、4月4日の木曜日。役所へ書類を出しに行った帰り、堤防に出ると……。巣にいるはずのカラスの姿がない(前日はいたのに)。

抱卵のための居心地を確かめていたのか、それとも至近距離を人間が通るために巣づくりを放棄したのか。また一つ気になることができた。

2024年4月4日木曜日

渓谷にも春がきた

                     
    フェイスブックを見ていたら、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)が咲き始めた、という投稿に出合った。4月2日のことで、花の写真はどこかの庭先にあるものらしかった。

前日の1日、ブログにこんなことを書いた。日曜日は何もなければ渓谷の隠居で過ごす。この時期の楽しみは、アカヤシオの花が咲いているかどうか、だ――。

その日曜日、3月31日は行政区の総会があって隠居へは行けなかった。翌月曜日は4月1日。年度末は過ぎたものの、回覧資料配りが待っていた。

そんなこともつづりながら、合間を見て隠居へ出かけ、アカヤシオの開花を確かめてこよう――そう締めくくった。

合間とは、日曜日ではなく、平日。アカヤシオ開花情報に触れて、3日の水曜日朝、天気が崩れる前にと、渓谷へ出かけた。

車に乗るとすぐ、カーラジオから緊急警報が流れた。宮古島・八重山地方と沖縄本島地方に津波警報が発表されたという。しかも、注意報ではなく、いきなり警報だ。

少しずつ状況がわかってくる。台湾東部沖でマグニチュード7.2(あとで7.7になった)の大きな地震が発生し、その影響で津波が起きた。カーラジオで津波情報を聞きながら、いつものルートを渓谷へ向かう。

神谷の田んぼ道に出ると、夏井川右岸・北白土の丘陵にピンクの色が点在している。ヤマザクラが咲き出したのだ。

左岸のどん詰まり、上神谷の丘陵も同様で、中腹にある住善寺の境内ではシダレザクラ(エドヒガン)がかなり開花していた。

国道399号~県道小野四倉線沿いではソメイヨシノも咲き始めたが、いまひとつパッとしない。鮮やかな白色のユキヤナギや黄色のレンギョウに負けている。咲き始めたばかりでは、それもしかたがないか。

渓谷では道沿いに満開のヤマザクラがあった。前に地元で聞いたところではオオシマザクラらしい。このサクラは別名「タキギザクラ」で、古来、雑木林に植えられ、燃料として利用された。

オオシマザクラが咲いているところは通称「百人小屋」だろうか。磐越東線を建設するため、作業員が寝泊まりしたところだと聞いた記憶がある。

さて、肝心のアカヤシオだが、江田駅前を過ぎ、椚平に入ると、対岸の急斜面がアカヤシオの花で点描される。それはよくわからなかったので、籠場の滝から牛小川にかけて、じっくり眺めることにした。

滝の手前に1台分の駐車スペースがある。そこから対岸を見ると、アカヤシオが満開だった=写真。谷に直結する前山は尾根まで花が咲いていた。

隠居の対岸の前山も同様、ピンク色の点描が始まっていた。しかし、それぞれの木も、エリアとしてもまだ5分咲きといったところか。

去年(2023年)よりはおよそ2週間遅い。といっても、去年はやけに早かった。平年の感覚でいえば、今年だって早い方だ。

なんとなく季節が前倒しになっているのを感じる。日曜日でいえば、7日。まずまずの見ごろになっていることだろう。

2024年4月3日水曜日

佐多稲子の初期作品

                              
 『放浪記』で知られる林芙美子(1903~51年)の女給時代のことを、前にブログに書いた。

同じ作家仲間の佐多稲子(1904~98年)や平林たい子(1905~72年)も、若いときに女給を体験している。

 作家や詩人をめざしながら、食うために女給の仕事をした。女給は人生の踏み台だったのだろう。

 女給・林芙美子の流れのなかで、佐多・平林の女給時代を知りたくなった。それぞれの全集が図書館にある。各1冊を借りて読んだ=写真。

 若いころはともに、プロレタリア作家として位置づけられていた。が、私が日本文学に引かれはじめた若いころ、ご両人はすでに大家になっていた。

 遠いところにいる人という思いもあって、作品を読んだことはなかった。当然、女給時代のことは知るよしもない。

 今度初めて初期作品や回顧録に触れて、激動の青春を過ごしたことを知った。佐多稲子の女給体験をつづった「レストラン洛陽」がある。川端康成が激賞したという。

まずはこれを読む。女給たちの人間模様がつづられていた。初出誌は「文藝春秋」の1929年9月号で、当時のペンネーム「窪川いね子」で作品を発表した。

平林たい子の方は「自伝・回想・日記」の章に収められている「向日葵――我がどん底半世紀――」に当たった。

女給には向いていなかったのだろうか。「画家のY氏の知人のカフェで女給になった。が、私が出れば酒が売れないとか、客が沈んで浮かれないとかいう理由で断られた」

それでもカフェ勤めを続ける。林芙美子とも知り合う。そんな大正末期から昭和初期のカフェ体験記がつづられる。

ざっと100年前の社会の底辺を描写しているが、現代にも当てはまりそうな印象を受けた。

右肩上がりの経済が止まり、新自由主義経済が大手を振って歩き回り、いつの間にか日本は安く、貧しい国になってしまった。

非正規雇用が増えた、ひとり親が増えた、満足に食事をとっていない子どもがいる……。そんなニュースに接するたび、これから日本はどうなるのかと心配になる。

そんな時代状況が、ほんとうは古臭く感じるはずの「プロレタリア文学」作品を、現代にも通じるような感覚にさせるらしい。

佐多稲子の作品に、400字詰め原稿用紙でわずか6枚程度の超短編「一銭の話」がある。

男が夜、家路を急いでいると、後ろから見知らぬ男の子がついてきた。学校で遊んでいたのだという。

父と姉がいる。父は働きに行って帰って来ない。勤めている姉が帰るのは夜も更けてから。母は田舎でほかの子どもたちの世話をしている。

男の子は朝ご飯を食べたあとは、昼も夜も食べない。それでも、腹は空かない。代わりに1銭を持っていて、お菓子を買って食べるのだという。

やがて、子どもは別の小道へと消える。その後ろ姿に男が「さよなら」と声をかける。「さよなら」と男の子の声がかえってくる。救いのない話だが、最後の最後にポッと明かりがともった。

2024年4月2日火曜日

糠漬けを再開

                      
 この冬は、糠床を目覚めたままにしておいた。何も漬けない。でも、朝起きると、糠床をかき回す。糠みその冷たさはこたえたが、いやになるほどではなかった。

例年、冬になると、糠床の表面に食塩の「ふとん」をかぶせる。塩分で空気を遮断し、カビの発生を抑えて、糠床を「冬眠」させる。

その間は、糠漬けではなく、白菜漬けを食べる。早ければ11月下旬、普通は師走がきてから白菜を2玉手に入れ、1玉を8つ割りにして漬ける。

この冬は5回、白菜を漬けた。最後の白菜漬けが残り少なくなった3月下旬、すんなり糠漬けに切り替えられるよう、カブを漬けることにした。

スーパーへ行くと、カブは売り場になかった。地場野菜を扱う直売所にもなかった。やはり、まだ早いようだ。

最初の糠漬けはカブ、次はキュウリ――と決めている。ならば、「慣らし運転」だ。あまり気が進まなかったが、キュウリを買ってきた。

キュウリの前にカブを漬けるのは、いわきの歴史や民俗、生業などに詳しかった故佐藤孝徳さんの言葉が頭にあるからだ。

「キュウリは、八坂神社の祭りが終わるまで食べない」。つまり、7月。露地栽培では確かに、そのころからキュウリが実って食べられるようになる。

しかし、ハウス栽培が主流になって、1年中キュウリが出回るようになった今は、冬でもキュウリが、糠漬けが食べられる。

で、糠漬けを再開するときには一種の戒めとして、孝徳さんの言葉を思い出し、まずは店頭に並び始めたカブを漬けるようになった。

カブは大根よりも早く漬かる。さらに、ほんのり甘みがあってやわらかい。体が覚えたルーティンでもある。

昔のブログに当たると、白菜漬けから糠漬けに切り替えるのは4月末~5月初めの大型連休だった。そのころにはカブも売り場に並ぶ。

3月末に糠床の冬眠を破るのはちょっと早い。というより、このところ早めに白菜漬けから糠漬けに切り替えるようになってきた。

冬も糠床をかき回してきたのは、そんなに手が嫌がるほど冷たくないからだった。これも温暖化の影響だろうか。

試し漬けのキュウリはまず12時間、糠床の中に置き、次の12時間は表面から見えるようにして塩分が浸透するのを待った。

丸一日漬けて小皿に盛った=写真=が、味はいまひとつだった。まだ寒くて乳酸菌の活動が鈍いのか、あるいは塩分が足りないのか。

たぶん、かきまぜていただけなので、乳酸菌にはえさ不足だったのだろう。うまみもそれで足りなかったのだ。

 次は大根を10センチくらいの長さで4つ割りにし、一昼夜台所で陰干しをしたのを漬けた。キュウリと同じ24時間で取り出した。かみごたえはよかったのだが、やはり塩分が足りない。

 3回目は、スーパーで買い物をしたときに、小さなカブが並んでいたので、それを買って漬けた。併せて食塩を追加した。味はどうか。きょう(4月2日)の朝食に出すので、その結果を追記しよう。

※追記=けさ、比較的やわらかくなった1個を取り出し、包丁を入れてみた。塩分はまあまあ、甘み・うまみはちょっと弱い、といったところか。小さかったのはたぶん、間引きカブだったからだろう。

2024年4月1日月曜日

年度末の1週間

                     
 夏井川渓谷にある隠居の庭にも春はきざしている。3月24日の日曜日には、辛み大根の葉の中央に花芽ができていた。いわゆる菜の花。そばの高田梅もつぼみをふくらませていた。

 平地のわが家の庭はどうか。前にプラムのつぼみがふくらんだことを書いた。その後、一気に開花し=写真、雨と風が強かった3月29日の金曜日には、下に止めておく車のフロントガラスに花びらが散っていた。

 ソメイヨシノを「春を告げる花」として報道してきたメディアは、寒の戻りにおろおろしたことだろう。気象予報士の予測がはずれ、結局、東京でも開花は3月29日にずれこんだ。

 もうソメイヨシノはいい、とはいわない。が、今年(2024年)の3月後半は、ソメイヨシノとは違う花で春を感じた。

 同時に、この年度末の1週間は、庭のプラムの花さえ目に入らないほどに余裕がなかった。

 年度末のいつもの気ぜわしさとはいえ、今年はいちだんとその度合いが強かった。時間がないだけではなく、精神的にも追い詰められたような感じになった。

 年齢的な線引きは意味がない、と思いながらも、後期高齢者になるのはこういうことなのかと思う。体力を気力でカバーする――それができなくなったという自覚がある。

 実質的に最後の週となった3月第5週が始まると、3日連続の会議があった。初日は地域の集まりと重なったので欠席した。

 終わって木曜日は朝から宵まで、所属する団体の決算事務に追われた。昼食も作業をしながらとった。昼寝はむろんおあずけだ。

 金曜日だけはフリーだったが、土曜日にガスワンふるさと教室で話をするための下準備をして過ごした。合間に毎日、接骨院を利用するカミサンの送迎をする。店番もする。

 土曜日はさらに、冬着では熱がこもるくらいに気温が上がった。いわきのソメイヨシノも、どこかで開花したのではないだろうか。

 そして年度最終日の31日、日曜日は地元で行政区の総会が開かれた。対面での総会は4年ぶりだ。

少子・高齢化が進んで、区の役員が減り、子どもを守る会が解散するなど、地域活動は年々、厳しくなっている。

 総会出席者は隣組の班長が中心だが、気温も上がって、3月最後の日曜日、そして春休みということもあって、期待していたほどは集まらなかった。

 なにはともあれ、区の総会がすんだことで年度末のせわしさにも一区切りがついた。やっとブログを書く時間ができた。

 日曜日は何もなければ、渓谷の隠居で過ごす。この時期の楽しみは、アカヤシオ(岩ツツジ)の花が咲いているかどうか、だ。

 31日はそれがかなわなかった。きょうから新年度の4月。今度は年度初めのあわただしさが続く。が、合間を見て隠居へ出かけ、アカヤシオの開花を確かめてこよう。