2016年5月31日火曜日

原発避難路

 ネット情報はパソコンで、ケータイは通話が主でメールは返信だけ、というアナログ人間だが、スマホの威力は実感している。インド人がホームステイをしたときには、スマホが通訳になった。今度はカーナビだ=写真。
 いわきから那須高原へ、同級生の車に同乗して出かけた。東北新幹線那須塩原駅、午後1時半集合――に合わせて、朝9時に出発した。一般道路を利用した。

 同級生の頭には5年前の原発避難ルートがあったようだ。いわき市南部の国道289号~同294号~同4号と、西南方向を目指して阿武隈高地と八溝山地の峠を越え、栃木県那須町へ出た。

 国道6号バイパスから同289号に入って少したってから(すぐに山峡になる)、「原発避難から帰るときにこの道を利用したんだ」と私。すると、「夜、真っ暗なこの道を避難した」と同級生。私は3月15日、同級生はそれより2~3日遅れて避難した。同級生がたどり着いたのは栃木・那須、私はその北の福島・那須甲子(なすかし)だった。

 あのとき――。私ら夫婦と息子一家、義妹母娘を含む8人は昼過ぎ、2台の車で出発し、渋滞する国道49号~同4号経由で夜、白河市に着いた。市内の避難所はすでに満パイだった。西郷村の国立那須甲子青少年自然の家を紹介された。道を間違えながらも霧の山道をのぼってたどり着いたときには、もう夜中になっていた。

 そこは福島県中通りの南端、標高1000メートル前後のなだらかな高原だった。同級生とは何日か、県境をはさんで同じ那須高原の空気を吸っていたわけだ。

「行けどもいけども真っ暗だった」と同級生。放射能の心配に見知らぬ土地と闇夜の不安が重なる。

 私も心細かった。どうにか山上には来たもののガソリンがない。帰れるだろうか。燃料計の針の位置から逆算して、289号を利用すればなんとかいわき市の平地までは行けそうだ――そう踏んで高原を出ると、鮫川村で燃料計の残量警告灯が点灯した。いわきの田人に入ると長い坂道だ。エンジンを切って下った。燃料計の針は振り切れていたが、ぎりぎりわが家へたどり着いた。

 そんなことを語り合い、思いだしながら峠をいくつか越える。久慈川流域(棚倉町)から那珂川流域(那須町)へ。よその町へ行ったときにはあとで必ずそこがなんという川の流域に属しているかを確かめる。交流圏・文化圏の違いや中身が付随して見えてくる。

 おっと、スマホの道案内の話だった。いわきを越えると、カーナビが頼りだが、道路が新設されたりして情報が古くなっている。めんどうくさいので、スマホをカーナビに使うのだという。おかげで、道に迷うことなく那須塩原駅に着いた。

 途中、那須町で食堂に入った。地元紙の下野(しもつけ)新聞を手にしたら、東日本大震災や原発事故の記事はなかった。去年(2015年)の秋、岩手県へ行ったときにも思ったことだが、「原発震災」は、福島県以外では住民の意識から消えているらしい。
 
 だからこそ、いわきに住む人間として「福島の理不尽」から目をそらすわけにはいかないのだと、自分に言い聞かせるのだった。

2016年5月30日月曜日

恋人の聖地

 那須高原の宿へ行く途中、標高1000メートルちょっとのところに展望台があった。東に那須野と南北に連なる八溝山系が見える。その奥には阿武隈の山が連なっているはずだが、かすんでいてよく見えない。
 展望台に「恋人の聖地」のモニュメントと、恋人が2人一緒にふもとの街を見下ろせる「のぞき窓」が設けられていた。夜景が、ピエロが踊っているように見えるらしい。ピエロの鼻が赤く光って見えたら必ず2人は結ばれる――とモニュメントにあった。

 翌朝、ゴンドラに乗って、ゴヨウツツジ(シロヤシオ)が群生する標高1400メートルほどの山頂へ行った。見晴らしがいい。その一角、草原と林の境目にも「恋人の聖地」があった=写真。ダケカンバとゴヨウツツジが接触している。それを恋する2人に見立てた。

 説明板によると、推定70年余、こうして寄り添ってきた。この木のように末永く支えあい、共に過ごせることを願って「恋人の聖地サテライト マウントジーンズ那須」のモニュメントとして、「恋人の木」と命名した。強風に見舞われると摩擦熱が生じて自然発火をしないだろうか。なぜって、恋人は触れると燃え上がる、と決まっているから――なんてよけいなことはいわない。
 
 サテライトとあるのは、前述した展望台の「恋人の聖地」の“支所”のようなものだからか。
 
 それはそれとして、那須の山々の動植物は、ツキノワグマやカモシカ、ニホンジカなどを除くと、阿武隈高地とそう変わらないのではないか。かなり人間の手も入っている。山頂からの見晴らしがいいこと自体、そのあらわれだ。薪炭に、放牧に、スキー場に……。
 
 山頂のゴヨウツツジ遊歩道のうち、私だけ東側の展望台コースの途中まで行って引き返した(ゴヨウツツジの花は夏井川渓谷で見ている)。そのコース沿いにマイヅルソウやギンランの花が咲いていた。フキ、イタドリ、若いタラノキもあった(新芽はほとんど摘まれていた)。タンポポも花や綿帽子をつくっていた。セイヨウタンポポだった。
 
 カンバ類は標高が高くなるとシラカバからダケカンバに、ツツジ類もヤマツツジ・レンゲツツジからゴヨウツツジに変わる。マツ類も山の上部ではアカマツからキタゴヨウに変わるのではないか。きのうも書いたが、夏井川渓谷の急斜面を見てきた経験からの類推だ。

2016年5月29日日曜日

那須の「ハルゼミ」

 一泊二日(5月27~28日)の日程で、栃木県・那須高原の温泉宿でミニ同級会が開かれた。宿へ着く前に「八幡のツツジ群落」を見た。翌朝は宿を出たあと、ゴンドラを利用して山頂(標高1400メートルだとか)のゴヨウツツジ(シロヤシオ)群生地を巡った。山の名前はなんというのだろう。
 八幡のツツジ群落は、「殺生石(せっしょうせき)」を左に見て、さらに長さ130メートル、谷からの高さ38メートルの「つつじ吊橋」を渡った対岸の山にある。吊り橋を渡る前、近くの那須湯本温泉街ですでに「蝉時雨」が始まっていた(吊橋は揺れて目が回りそうになった、風景を楽しむ余裕はなかった)。
 
 林内の遊歩道に入ると、いちだんとセミの鳴き声が大きくなった。四方八方から押し寄せる。1人が遊歩道に横たわっている体長3センチ余のセミを見つけた=写真。あとでネットで調べたら、エゾハルゼミの雄らしかった。「らしかった」というのは、鳴き声は聞いても実物を見たことがなかったからだ(以下、エゾハルゼミを前提に記す)。
 
 エゾハルゼミとシロヤシオと――。夏井川渓谷にもシロヤシオは群生している。例年、新緑に染まるゴールデンウイークのころに開花する。今年(2016年)は見事だった。暖冬のせいか、4月下旬には咲きだした。エゾハルゼミも今ごろ、隠居の対岸で「―キン、―キン」と鳴いている。
 
 その鳴き声に対する仲間の反応が面白かった。「カエルじゃないの?」。カエルならヤマアカガエルだが、そうではない。セミだ。時期的にはハルゼミかエゾハルゼミ。ハルゼミは主に松林に生息するという。那須高原のそこはブナやミズナラが生えた落葉広葉樹林だ。それもエゾハルゼミと推定できる状況証拠になる。

 ほかの仲間も「今ごろなく鳴くセミがいるんだ」と驚いていた。この20年余、毎週末、夏井川渓谷の隠居へ通って知った自然の不思議。那須高原は夏井川渓谷だ――というと語弊があるが、要は「水平分布」と「垂直分布」の違いだ。標高の高い那須高原の植生と、那須高原よりは北に位置する夏井川渓谷の植生が同じ、すると昆虫も同じ、という理屈になる。
 
 ゴンドラで着いた山頂部では、シロヤシオが満開だった。阿武隈高地の主峰・大滝根山(1193メートル)の北西の山頂部にもシロヤシオが群生する。それを思い出した。劇作家の故田中澄江さんが『花の百名山』で、大滝根山の花として紹介していたもので、今ごろがちょうど開花期だ。樹下ではアズマシャクナゲの花も咲いていることだろう。
 
 そうそう、駐車場からゴンドラの乗り場へ向かうとき、山上からカッコウの鳴き声が降りてきた。5年ぶりに聞いた。それだけでも那須高原へ行ったかいがある、というものだ。

2016年5月27日金曜日

天井画の下で

 完成してから十数年。一度は見たいと思っていた迦陵頻伽(かりょうびんが)の天井画だ=写真。画家でもある知人の紋章上絵師・二世石川幸男(本名・貞治)さんが制作した。寝っころがって写真を撮った。いや、寝っころがらないと撮れないから、自然にそうなった。
 いわき市平中平窪の真言宗・常勝院の客殿――。きょう(5月27日)午後5時から、同寺でシャプラニール=市民による海外協力の会が、「ネパール大地震復興PROJECT みんなで応援キャラバン」のいわき報告会を開く。
 
 併せて、シャプラのフェアトレード商品を展示・販売する。カミサンがわが家で扱っているものを展示するというので、きのう、荷物を運んだ。寺に着いたら、住職さんが対応してくれた。

 迦陵頻伽は2人で宙を舞いながら琵琶を、笛を奏でている。エジプトのスフィンクスは人間の顔をしたライオンだが、こちらは上半身が菩薩、下半身が鳥だそうだ。森の民の幻想と砂漠の民の幻想の違いだろうか――なんて思いながらも、住職さんと鳥のさえずりや真言宗の声明(しょうみょう)について話しているうちに、天上から音楽が降るような感覚に襲われた。

 客殿には江戸時代につくられた「杉戸絵」もある。こけむした赤松と白く泡立つ渓流、笹……。平成14(2002)年、いわき市の文化財(絵画)に指定された。極彩色の天井画と古さびた杉戸絵が混交する美の空間に身を置くだけでもいい体験になる。

 シャプラはネパールのほかに、熊本地震でも別のNGOに合流する形で緊急支援活動を展開した。熊本でフェアトレード商品を扱っているシャプラの仲間がいる。いわきのNPO「ザ・ピープル」代表が仲立ちして、熊本で扱っている商品がわが家に届いた。それも併せて展示・販売する。ネパール支援のほかに熊本支援を兼ねる。

 きのう、その延長で昔のダッコちゃんに似た「抱きくまモン」のことを書いたら、ピープル代表から20個取り寄せるという連絡がきた。1個2000円で、すべて熊本支援のドネーション(寄付金)になる。予約を取るという。
                *
 私はこれから友人の車で栃木県の那須高原へ向かう。一泊二日の同級会が開かれる。というわけで、あしたのブログは休みます。

2016年5月26日木曜日

抱きくまモン

 その「くまモン」(中国製)=写真=がわが家へ来たとき、半世紀以上前にはやった「ダッコちゃん」を思い出した。動物と人間の違いはあるが、大きさはそう変わらない(ダッコちゃんが少し大きいか)。ダッコちゃんはコアラのように二の腕に止まった。くまモンは弾力がある。指で背と腹をギュッギュッとやれる。ギュッギュッが癖になりそうだ。
「東北地方太平洋沖地震」(東日本大震災)では熊本からも支援を受けた。そうこうするうちに「平成28年熊本地震」が起きた。少しでも恩返しをと、いわき市のNPO「ザ・ピープル」の代表が熊本へ駆けつけた。

「社会イノベーター公志園」でつながっている熊本の女性の家が全壊した。フェトレード商品を扱っていた。熊本市がアジアで初めて、フェアトレードタウンに認定されたときの中心人物だという。

 週明け、ピープル代表が熊本から届いた段ボール2箱分のフェアトレード商品をわが家へ持ってきた。カミサンがシャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品を扱っている。熊本の店の品物を代行して売ってほしい、という(あとで知ったが、熊本の女性もシャプラの会員で、シャプラの商品も扱っていた)。
 
 フェアトレード商品は黙っていても売れるものではない。なぜその商品が生まれたのかを説明して、納得して買ってもらう必要がある。とはいえ、値段がいわきのレベルを超える。先進都市の熊本と、そこまではいっていないいわきの違い、人口数や市民意識などの差があるのかもしれない。
 
 で、ピープル代表を介して熊本と連絡を取ったら、正札ではなくカミサンの裁量に任せるとなったらしい。さっそく、カミサンが店に来る人にセールスを始めると……。一番値段のいいブータンの織物に分割払いの予約が入った。
 
 小物を中心に買ってくれた人たちも含めての反応がおもしろい。くまモンを抱くと感触がいいのか、「これ、ほしい」。「抱きくまモン」を、熊本の震災支援に生かすフェアトレード商品にしたら、間違いなく売れる。半世紀以上前の抱っこちゃんの再来になる、という直感があるのだがどうだろう。

2016年5月25日水曜日

クルージングトレイン

 日曜日(5月22日)の朝10時25分ごろ――。平地から駆け上がったばかりの夏井川渓谷の入り口、磐越東線の磐城高崎踏切に近づくと警報が鳴り、遮断かんが下りてきた。線路の両サイドには“撮り鉄”が待ち構えている。急いで助手席のカミサンにカメラを渡すと、青と白のしゃれた列車が通過した=写真。ネットで確かめたら、秋田所属のクルージングトレインだった。
 2年前(2014年)の初夏のことを思い出す。6月14、15日に車体がポケモンのキャラクターでラッピングされた臨時列車「ポケモン磐越東線号」が運行された。2日目の日曜日朝、渓谷の隠居の庭からそれを見た。

 たまたま事前に知って、カメラを持って待ち構えていた。その意味では臨時の撮り鉄。翌日、当時小1と保育園年中組の孫が、父親と一緒にわが家へやって来た。孫たちが母親ともう一人の祖母と一緒に乗っていたと聞いてびっくりした。列車の外と内側とで一瞬、向き合ったことになる。

 その20日前、同じような時刻に車体が青と白の「磐越東線新緑号」が隠居の前を通過していった。これも臨時列車だ。今思えばクルージングトレインだったのだろう。

 今度の「磐越東線新緑号」の中身はいわき市総合観光案内所のスタッフブログで知った。たまたま踏切で写真を撮ったので、どんな臨時列車だったのか、確かめたかったのだ。それを手がかりに検索すると、あるは、あるは。撮り鉄の報告が次から次に出てきた。「ふくしまアフター・ディスティネーション・キャンペーン」の一環として運行されたという。

 新緑の渓谷もいいが、1年のうちで最も渓谷が美しく輝くのは、アカヤシオの花が急斜面を彩る4月中旬。「磐越東線アカヤシオ号」の方が乗客の感動を呼ぶことは間違いない。沿線の花見客やアマチュアカメラマンも急きょ、撮り鉄に変わる。クルージングトレインが知られる絶好のチャンスだ――なんてことをついでに夢想した。

2016年5月24日火曜日

蚊よけハーブ

 玄関のわきに鉢植えのハーブがある。径1.5センチほどのピンクの五弁花を咲かせた=写真。蚊を遠ざけるという。カミサンが、近所に避難してきた双葉郡のおばあさんからもらったのを、大鉢に植え替えた。去年(2015年)かおととしのことだ。
 花のかたちと模様を手がかりに、ネットで検索する。センデット・ゼラニウム・レモンロウズが一番近い。「蚊逃草(かとうそう)」という、とあった。カミサンの話では「蚊連草(かれんそう)」。「蚊嫌草」とも書く。どっちにしても蚊が嫌がるハーブという点では同じだろう。

 毎年、初めて蚊に刺された日を記録している。わが家では5月20日前後に出現する。今年も先週(5月15~21日)、<そろそろだな>と心の準備をしたが、週末に天気が崩れたために羽音はなかった。

 記録によると、「初蚊」の日は、2012年が5月15日、同13年が26日、同14年が25日だった。去年は5月14日に現れた(極私的平年より6日早かった)。その日の午後には、室温が27.9度に上昇した。いわき駅前のデジタル温度計は30度を表示していた。
 
 きのう(5月23日)は茶の間でも夏日を越えて28度近かった。いわき駅前の温度計も30度前後を表示したのではないか。
 
 昼食後、体の周りを飛び交う虫がいた。手の甲に止まろうとするのをパチンとやった。今年初めての蚊だった。蚊取り線香をたかずに昼寝をしたら、両手の甲が痛痒い。「蚊嫌草」の効き目はない? 去年の蚊取り線香の残りを取り出す。宵に行政区の会議が開かれ、蚊の話をすると、「私もきょう、庭で刺された」という仲間がいた。
 
 さて、茶の間の座卓はこたつを利用したものだ。カバーをはずして夏バージョンに切り替えないといけない。でないと、足が蒸れて困る。きのうがそうだった。

2016年5月23日月曜日

スマホが通訳

 きのう(5月22日)の続き――。「いわき市の復興と環境配慮施策」を知るために、インドから大学生たち18人がやって来た。南インドのチェンナイ(旧マドラス)在住の建築士(24歳)と西インドのアフマダバードに住む土木エンジニア(23歳)の2人のホームステイを引き受けた。
 引率の女性はかつて、いわきで英語指導助手をしていたとかで、日本語がペラペラだ。彼女の骨折りで実現したいわき訪問らしい。

 カミサンの片言の英語で足りないところを、彼らのスマホが補った。通訳機能が付いている。変な言葉になるときもあるが、あらかたは通じた。いやあ、便利になったものだ。

 2日目は高校の英語教師が助っ人になり、2人を民家の庭園コンサートや白水阿弥陀堂へ案内した。白水阿弥陀堂の見学は2人の希望だった。いわきが誇る世界遺産級の国宝と浄土式庭園を見せることができた、というだけでホッとする。

 2泊3日の最終日の朝、「ベジタリアン料理教室」に参加する2人を車に乗せる段になって、1人がスマホの通訳機能を使い、「あとで面接したい」という。面接とはものものしい。「今度はインドで会いたい」、あるいは「いわきを離れる前にまた会いたい」という意味か。

 市文化センターでの料理教室のあとは、午後1時ラトブ見学・2時45分いわき駅改札口集合・3時18分スーパーひたちで移動――というスケジュールだ。いったん夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをしたあと、文化センターへ戻り、2人をピックアップしていわき駅前再開発ビル(ラトブ)を案内した。
 
「買い物をしたい」。1人がいうので、4階の総合図書館から3階のショッピングフロアに下りると、「世話になったお礼に万年筆を贈りたい」という。むろん断ったが、その後も「万年筆、万年筆」と言ってきかない。「では、ボールペンでいいから」と、私がふだん利用している無印良品で黒5本、赤1本を差し出すと、黒を5本増やして10本にしてくれた。

 そのうえ、「好きなアルコールを」というので、遠慮せずにいつも行く1階の店で「田苑」を買い求めた。こういうのは通訳機能抜きでもわかる。

 時間がきて、いわき駅改札口前に移動すると、学生たちがホストファミリーと一緒に現れた。3日ぶりの再会だ=写真。広い南北通路に元気な声が響いた。「バイバイ」。ハグして別れると、カミサンがポツリと言った。「涙が出ちゃった」

2016年5月22日日曜日

ホームステイ

 インドのCEPT大学の学生たちが来る。ホームステイを引き受けてほしいと、いわき市国際交流協会からカミサンに連絡が入った。日本語はまったくダメ。英語は片言レベルだがなんとかなるかと、カミサンが引き受けた。
 2泊3日。5月20日午後5時から22日午前10時前まで、正味はおよそ41時間。これから決められた場所まで青年2人を送り届ける。

 きのうは疑似孫の1人と母親(英語教師)に協力してもらい、小3・小1の孫と両親が加わったおかげで、私は「イエス」とか「ノー」とか言っているだけですんだ。

 2人はすでに実社会で仕事をしている。建築士と土木エンジニアだという。出身地や家族、仕事や趣味のことなどを聞いた。1人は肉はチキンだけ(鶏卵OK)、1人はなんでもOK――。初日に顔を合わせるとスーパーマーケットへ直行し、食べたいものを選ばせた。次の日も、代役の英語教師がスーパーで、彼らが食べたいという「お好み焼き」の具を選ばせた。

 土木エンジニアのことばがおもしろかった。「道路がきれいだ」。ポイ捨てをする人間もいないわけではないが、日本ではおおむね道路が清潔に保たれている。一夜明けた朝、カミサンの案内で近所を散歩したが、やはり同じ感想を述べていたそうだ。震災からの復興、環境問題への取り組みを学ぶのが目的とかで、少なくとも日常の都市美観・衛生については自分の目で見てわかっただろうと思う。

 酒、食べ物、アニメ・漫画、音楽……。書きたいことはいっぱいあるが、ここではインドの紙幣=写真=についてだけ記す。ネット上の知識だが、最高紙幣1000ルピーをはじめ、500・100・50・20・10・5各ルピー(1ルピーは約2.5円とか)がある。そのすべてにマハトマ・ガンジーの肖像が入っている。ガンジーは「インド独立の父」、それを具体的に実感した。

2016年5月21日土曜日

山の黄色い花

 いわきの平地の山では、初夏、暗い緑と明るい緑がまだら模様になる。5月中旬にはさらに、明るい緑に「黄色いかたまり」が点々と交じる=写真。それに気づいたのは、平菅波(国道6号バイパス)~同上高久(県道下高久谷川瀬線)を車で移動していたときだ。暗い緑は杉、明るい緑は落葉樹と照葉樹(常緑樹)。照葉樹のシイの花だろうか。
 夏井川渓谷の森では、こうした現象は見られない。松・モミを除くと、落葉樹が主体で、すっかり青葉色に染まっている。そのなかで目立つ花と言えば、ミズキの白くらいだ。生える木が渓谷と海寄りの平地では違うのだろう。
 
 海寄りの山に照葉樹が多いことは、頭ではわかっている。が、照葉樹の種類や生態がよくわからない。朝夕、散歩をしていたときには、バイパス終点「神谷(かべや)ランプ(本線車道への斜道)」の「草野の森」が教科書だった。
 
 見て分かるのはヤブツバキ、トベラ、マルバシャリンバイ、クチナシ、マサキ、アオキ。タブやカシ類になると識別盤と照合しながら、幹や新芽のかたち、色などを頭に入れた。

 そうだ。小川町の夏井川の岸辺ではニセアカシアが白い花を垂らしていた。甘い香りがするという。ずっと下流、中神谷の河川敷でもいつの間にかニセアカシアが生長し、花を垂らすようになった。今では「侵略的外来種」に指定されている。天竜川や千曲川では伐採作業が行われる一方、ミツバチの蜜源として養蜂家がこの木を守る運動を展開している、とウィキペディアにあった。
 
 ニセアカシアと違って、シイの花はクリの花と同様、生臭いにおいがするらしい。虫媒花だというから、それで虫を誘うのだろう。山の黄色いかたまりは、道路からはかなりの距離があるので、においまではわからない。

 渓谷にはクリが自生する。これも開花の時期を迎えたが、先の日曜日(5月15日)には気づかなかった。平地の山にもむろんクリは自生する。「黄色いかたまり」の中には、それも交じっているかもしれない。ここでは書かないが、ネット上にある「生臭いにおい」についての比喩・表現がすごい。

2016年5月20日金曜日

ネパール大地震報告会

 ネパール大地震から間もなく1年1カ月。地元NGOをパートナーに、バングラデシュやネパールで「取り残された人々」の生活向上支援活動を展開している、シャプラニール=市民による海外協力の会が5月27日午後5時から、いわき市平中平窪の常勝院で報告会を開く。「ネパール大地震復興PROJECT みんなで応援キャラバン」の一環だ=写真(案内はがきほか)。
 ネパールの首都・カトマンズにシャプラニールの事務所がある。震災当時、所長だった宮原麻季さんが全国を巡回して講演している。

 大地震が発生するとすぐ、バングラで事業評価中のシャプラ評議員(聖心女子大教授)がインド経由でネパールへ入った。東京のスタッフ、前事務局長氏もやがてネパールへ飛んだ。宮原さんは、自身が被災しながらもシャプラの復旧・復興支援活動の中心になった。おかげでメディアより早く詳しく被災状況を知ることができた。
 
 シャプラは3・11後、初めて国内支援に入り、いわき市で今年(2015年)3月12日まで交流スペース「ぶらっと」を運営した。津波被災者や原発避難者が孤立しないための支えとなった。ネパールで大地震が発生すると、「ぶらっと」利用者などからシャプラに浄財が寄せられた。

 全国からの善意は、主に①救援物資の確保②仮設住宅の支援③コミュニティセンターの運営④青少年への奨学金支援――に生かされた。

 東京、大阪での報告会では「寄付がどのような支援活動につながったかわかってよかった」「現場の生の声、苦難が聞けてよかった」という感想が寄せられた。ざっと45年前、収支の透明性を掲げて前身の組織が発足した。会費や市民の善意を基に活動するからには、「お金が何にどう使われたか」をきちんと報告しないといけない――シャプラへの共感・信頼の源だ。
 
 熊本地震では、別のNGOに合流する形で緊急支援活動を展開した。いわきでの経験がネパールでも熊本でも生かされている。ネパールの復興支援はこれからも続く。――いわきでの報告会は、会費が200円(ネパールのチャイ付き)。時間のある方はぜひ、おでかけを。

2016年5月19日木曜日

イノシシが市街に

 平日は、人間がひしめく市街で暮らしている。週末、といってもこのごろは日曜日の日中だけだが、自然に囲まれた渓谷の小集落で過ごす。
 街と山里を行き来しているとみえてくるものがある。たとえば、イノシシ――。山里では、イノシシ出没を織り込んで暮らしている。市街では、イノシシが現れること自体、ニュースになる。街では「ありえない」ことが、しかし、このごろ少しずつ「ありえる」ことになってきた感じがする。

 最近、渓谷の田んぼに新しいイノシシ除けの柵ができた=写真。高さは1メートル。線路側と、車が行き来する道路側にはない。そっちから回って来るのではないか――という懸念は残るが、完璧はありえない。少しでも被害が減ればいい、ということなのだろう。

 きのう(5月18日)、フェイスブックに若い知人がイノシシの写真をアップしていた。平市街のはずれで遭遇したという。2匹がビニールハウスのそばで向かい合っている。ストリートビューで場所を確かめたら、鎌田山の東側のふもとらしかった。目の前に「神谷(かべや)耕土」(水田)が広がる。

 いわき駅を軸にした中心市街地は、夏井川がイノシシの“防衛ライン”になっている。鎌田山はその東側、夏井川をはさんで南北に伸びている。

 山から先は旧神谷村。私の住む地域だ。北は常磐線、南は夏井川の間に市街が形成されている。今のところ、常磐線を越えてイノシシが神谷の市街に現れた、という話は聞かない。田んぼを電気柵で囲うようなこともない。

 山をかかえた上神谷、その奥の上・下片寄あたりでは、たびたびイノシシが出没している。このごろはより市街に近い鎌田で、しかも昼間、目撃されるようになった。鎌田山には平二中がある。住宅も張りついている。撮影されたイノシシは、おそらく鎌田でマークされている個体だろう。
 
 前にも書いたことだが、3・11後、イノシシが山から下りてじわりじわりと街に攻め寄せつつある。農作物被害はむろん、住宅街にも現れて遭遇した人間を傷つけないとも限らない。そんな懸念もふくらむ。“防衛ライン”の常磐線を越えるのも時間の問題か。

2016年5月18日水曜日

棚田の代かき

 日曜日(5月15日)、夏井川渓谷の小集落・牛小川へ行くと、Sさんが耕運機で代かきをしていた=写真。近くの畑ではKさん夫妻がナス苗を植える準備に忙しい。Sさんの母親がそばの草地に座ってみんなの様子を見ていた。
 集落には8世帯が住む。週末だけ現れる半住民の私と、市街に新しい家のある元住民のYさんを加えると10世帯だ。

 田んぼは確か大小11枚。平地が少ないから、斜面を利用した棚田になっている。スペースも小さかったり三角だったりするので、代かきには小回りの利く耕運機が適している。

 Sさんは1枚が終わると、いったん耕運機をあぜに上げて次の田んぼに移動する。田んぼのわきには素掘りの水路がある。夏井川の支流・中川の取水堰から水を引いている。堰の改修が終わったばかりで、「水がいっぱい流れるようになった」と、あとから軽トラでやって来た区長さん。

 快晴の野良で立ち話をするのは久しぶりだ。田んぼに水が張られる。周りの草が刈られる。ウグイスがさえずる。「古き良き時代のムラの風景そのものだね」。Kさんのことばにうなずく。

 農村であれ山村であれ、景観が美しく保たれているのは、住民が家の周りやあぜの草を刈ったり、道路や用水路を補修したりしているからだ。草を刈る場所は暗黙のうちに決まっている。田んぼの上の広い斜面は「(別の)Kさんがやる」と、Kさんが隣家の住人の名をあげた。稲作をやめたら「ここも竹が生えっぺなぁ」。Sさんの母親が田んぼを見やりながら言った。

 休耕すると田んぼは急速に原野化する。牛小川ではまだ休耕田はない。Sさんの家では、この週末、田植えをする。「ひとりでやるんだって」。母親は物寂しそうに語る。田植えは一家総出、いや親戚も動員してやったものだ。そんな昔の情景が記憶に残っている。

 同じ渓谷の別の集落では、青田の中に休耕田が見られるようになった。自然に帰るというのは、言い換えれば風景が荒れて寂しくなることだ。人間と自然の交流がなくなることだ。

 その晩、Kさんの屋敷の一角にある“交流サロン”で取水堰の改修祝賀会が開かれた。前々日、連絡がきたが、別の用事があるので参加を見送った。お祝いに焼酎(田苑)を持っていったら、Sさんらが野良に出て仕事をしていたのだった。

2016年5月17日火曜日

ゴボウの立体栽培

 交差点で信号待ちをしながら振り返ると、少し遅れて歩いて来たはずのカミサンの姿がない。側溝に足がはまって、けがでもして歩けなくなっているのではないか。あわてて引き返すと、そばの家の菜園でキヌサヤエンドウを摘んでいた。
 通りすがり、見知らぬ家の庭に人がいる。目が合えば、軽く会釈して通り過ぎる。カミサンはときどき声をかける。「花がきれいですね」「それは何ですか」などと言って。今度も「おはようございます、いろいろ栽培してるんですね」。そんな感じで会話が始まったのだろう。

 塀の内側から人の声が聞こえる。出入り口に立つと、ご主人が「お父さんも入って、採って」。ン! ワケも分からぬまま庭に入る。ご主人がシュンギクを摘んで私に渡す。「持っていけ」ということだ。そのあと、言われるままにはさみでキヌサヤを摘んだ。

 その家は、この1、2年の間にできた。いわき市に新しい家を建てるのはかなりの割合で原発避難者だろう。その家も、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらであれ、そこで生きていくことを決めて移り住んだのだ。「どこから来たのですか」なんて立ち入ったことは聞かない。

 それより、キヌサヤのそばにある変なものが気になった=写真。ゴボウの立体栽培だという。大きな肥料(油かす)の袋に培土を入れ、支柱を差して倒れないようにしている。「土を掘って栽培するより楽だから」。たしかにそうだ。庭の菜園では、「深掘り」より「かさ上げ」の方がやりやすい。ベランダ栽培の延長だろう。

 昔、夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたころ、掘ってもほっても石が出てきてうんざりした。旧友がやって来て「土を盛ればいいんだよ」と言った。掘るより盛る、地中より地上でつくる――そんなやり方もあることを知った。

 家庭菜園も工夫次第。とはいえ、まだ小さなゴボウの葉たちはこれからフキの葉みたいに大きくなる。狭い土俵のなかで押し合いへし合いが始まる。ゴボウの身になれば大変だな、これも。

2016年5月16日月曜日

むがーしむがしのはなし

「いわき民話の会」の発表会「むがーしむがしのはなし」がきのう(5月15日)午後、いわき駅前のラトブで開かれた=写真。パッと見には平野レミ似の“姉さん”こと広沢和子さんが中心の会で、9人が出演した。
“姉さん”とは20歳のころに出会った。26歳と言われた記憶があるから、たぶんサバを読んでいたのだ。その後、“姉さん”の骨折りで(実際にはもう一人のルートもあったが)、人を介していわきに職を得た。

“姉さん”はOL。父親は左官の親方。長男が跡を継いだ。その家の近くにアパートを借りた。今のアパートと違って部屋には風呂もトイレもない時代、毎日のように風呂をもらいに行った。ときどき、ビールと晩ご飯をごちそうになった。それからほぼ45年。両親はだいぶ前に旅立ち、スナックを経営していた妹も、“姉さん”の姉たちも亡くなった。

“姉さん”の民話の語りを初めて聴いたのは震災前の2009年だった。好間町に家を建て、退職後は地元の地域振興協議会に加わり、「好間の民話」を収集・記録するグループの一員になった。やがて「いわき民話の会」を立ち上げた。「いわきの民話をいわきの言葉で」がモットーだ。

 7年前、拙ブログこんなことを書いた。登場人物が乗り移ったような迫真性、民話の語り部というよりは一人芝居の役者のような演技力。「いわき語」の躍動感、力強さ――。今回の「片めっこだぬき」には、さらに落語家の話芸をほうふつさせる自在さがあった。そのうえ「真正いわき語」だからオリジナル性は高い。

 ついでながら、プログラムのトップはいわき市四倉町の下仁井田に伝わる「浦島太郎」だった。下仁井田は新舞子の海辺のムラ。先日、若い知人と、四倉の浦島太郎伝説や沼ノ内に死んで打ち揚げられたアカウミガメの話をしたばかりなので、下仁井田の昔の浜の様子を想像しながら興味深く聴いた。

2016年5月15日日曜日

交流春の大運動会

 下の孫にとっては小学校に入って初めての運動会だ。紅白リレーに出るというので、時間をみはからって午後も出かけた。上の孫は3年生。2人ともたまたま赤組だった。赤組が総合優勝をした。3回目で初めて閉会式を見た。「交流春の大運動会」と銘打った意味が初めてわかった。
 わが家のある神谷(かべや)は平六小学区。学校から運動会の案内がきた。小3と小1の孫が通うのは隣接学区の草野小。

 きのう(5月14日)朝――。まず、平六小の運動会へ。開会式からいくつかのプログラムを見たあと帰宅し、一時、店を閉めてカミサンと草野小へ。駐車場は満パイなので、この2年そうしているように、行きつけの魚屋さんの駐車場に止めて学校まで歩いた。

 運動会の熱気に触れたあと帰宅し、昼食タイムが終わるころ、また出かけた。リレーのトップランナーは1年生=写真。男女に分かれ、紅白各2チーム(鉢巻組と帽子組)がスタートラインに勢ぞろいする。下の孫は赤の帽子、バトンは黄色。

 保育所の年長組のとき(去年のことだが)、屋内運動会を見に行って驚いた。かけっこが速い。陸上選手のように前傾して飛び出し、腕も前後によく振れている。ジイが言うのもなんだが、無駄のない走りだ。

 私は福島高専で陸上競技部に属していた。大会では主に400メートルとマイルリレー(1600メートルリレー)に出た。その人間から見て(ランナーとしてだが)、下の孫の走りは短距離に向いている。鍛えようによってはもっと速くなる――そんな思いを抱いてリレーを見に行ったのだった。
 
 1年生の控えエリアそばに行って顔を合わせると、個人競技の「かけっこ」で1位になったと、赤帽のつばに張られたゴールドメダルのマークを見せた。リレーでは2番目にバトンをタッチした。

 閉会式になると、手話通訳の先生が朝礼台のわきに立った。上の孫が閉会式の「開式のことば」を述べた(3年生の役割なのだろう)。
 
 講評などが終わったあと、全員で校歌を斉唱した。福島県立ろう学校平分校の校歌も、児童たちが手話をまじえて歌った。ろう学校の分校が草野小の学区内にある。両校の「交流共同学習」はすでに38年に及ぶという。運動会に「交流」の冠が付いているワケがこれだった。
 
 よその学校ではどうだろう。手話を学ぶことはあるのだろうか。草野小生にとっても、分校生にとっても「交流共同学習」は得難い体験になるはず。互いに相手を思いやる気持ちが自然に身に着くはず――手話をまじえて歌う児童たちの姿に、そんなことを思いながら少しウルウルした。

2016年5月14日土曜日

彦根東高校新聞

 滋賀県の彦根東高校新聞部から「東日本大震災から5年――震災復興支援特集号」(4月28日付)が届いた。3月12日に業務を終えた交流スペース「ぶらっと」などを取り上げている=写真。「福島をつなぐ2016」がシリーズのテーマらしい。タブロイド判12ページのうち、10ページを特集に当てている。
 商業新聞なら「社説」に当たる「部説」が1面肩に載る。その書き出し。「東日本大震災が起こってから今年で5年が経過した。また4月14日に熊本地震が発生し、いまだに余震が続いている。私たち新聞部は3月12・13日に福島を訪れ、多くの場所で取材した」

 その結果として「滋賀県に住んでいる私は、メディアの報道だけを見て復興は大方完了したと思っていたがそれはただの勘違いであり、オリンピックの取りやめを求める方がいるほど進んでいなかった。(中略)私たちが今できることは何だろうか。私は『忘れない』ことだと思う」。ありがたい認識だ。

 同校の新聞は、高校新聞界では内容・レイアウトともトップクラスだろう。3月12日、「ぶらっと」最後の日に取材に来て、夕方、「ぶらっと」の看板を下ろすのにも立ち会った。そのことは同13日付の拙ブログに書いた。

 そのときもらった新聞の印象――。タブロイド判8~26ページで、年10回発行している、ということに驚いた。レイアウトも、デジタル技術にたけた高校生らしい自在さがある。質問やメモの仕方が高校生のレベルを超えている。それよりなにより東北の被災地を継続して取材している問題意識の高さ・粘り強さに敬服した。「記者は考える足」を実践している。

 最新号には「ぶらっと」のほか、2020年の全線再開を待つ常磐線沿線の人々の声が載る。磐越東線沿線にも光を当て、小野町・田村市滝根町の魅力を地元の高校生が語る特集も組んだ。

「ぶらっと」で取材を受けた。どうまとめたのか、見出しは、レイアウトは――届くとすぐ精読した。ニュートラルな気持ちでインタビューをし、こちらが言わんとすることをきちんと伝えている。シナリオを頭に置いて誘導的な質問をするプロなど、足元にも及ばない誠実さだ。

 ちょうど常磐線がらみの特集記事を読み返していたときに、常磐線をテーマにしたBSプレミアム「新日本風土記」が始まった。高校生記者のつくった新聞記事は、その深度・多様さで負けていなかった。

2016年5月13日金曜日

風が「気持ちいい」

 きのう(5月12日)、友人の娘さんが2歳の娘を連れてやって来た。予約したイタリア料理店へ案内するという。「ランチを食べたい」とカミサンが3カ月前に言っていたのだ。車で迎えに来る10分くらい前に週一の仕事から帰り、ネクタイをはずすとすぐ店番を義弟に頼んで出かけた。
 2歳の女の子とはウマが合う、と勝手に思っている。歩けるようになって、初めて母親とやって来た今年(2016年)2月、私の顔を見るとニコッとした。駐車場から料理店まで風に吹かれながら、手をつないで行った=写真。嫌がらなかった。

 雨上がり、快晴。空気が澄んで、遠くの山の若葉がはっきり見える。やや強い風が酸素をいっぱい運んで来る。歩きはじめるとすぐ、2歳児がつぶやいた。「気持ちいい」。そう、“ジイジ”も薫風に洗われて同じことを感じていたのだよ――。

 友人の娘さんは、鳥について聞きたいことがあると、フェイスブックで「おじちゃん……」と連絡をよこす。彼女は平の街なかに住む。去年夏、「最近近くの公園から夜になるとホッホーホッホーて鳴くやつがいるんだよ……フクロウみたいのを想像しているんだけど……いったい何者ぞ?」。すぐアオバズクだと返す。「アオバズクが今年も来て鳴いてる」。車を運転しながら教えてくれた。

 2月下旬にやって来たときには、「おじちゃんに鳥の話を聴きたい人がいる」。その人がイタリア料理店の奥さんだった。彼女に連絡すると、すぐやって来た。以来、一度はその店をのぞくのもいいかと思っていたら、突然、電話がかかってきたのだった。
 
 店は夜だけ営業しているようだ。昼は予約があるときのみランチを提供する。テーブル数は多くない。繭玉(まゆだま)の中のような空間で、貸し切り状態でゆっくり食事を楽しんだ。2歳児も自己主張をしながら、あちこち動き回った。
 
 食事の終わりにデザートと、サービスのお菓子が出た。2歳児がお菓子をボリボリやり始めた。カミサンが「バアバにもちょうだい」というと、「あげない」。では、「ジイジには」。しばらく考えて「あげる」。「女の子だねぇ」とカミサンが言った。それは違うのでは――なんて言うと、反撃されるので言わない。また疑似孫ができたかな。

2016年5月12日木曜日

ホタルブクロ根づく

 今年(2016年)初めて、義伯父の家の庭でホタルブクロが花を咲かせた=写真。苗を植えた覚えはないと、カミサンは言う。
 車で10分ほどのところにドクター(十数年前に亡くなった)の家がある。奥さんが東京の息子さんの家の近くに引っ越すことになり、「もう家を空ける」というおととしの秋、カミサンがリンドウを分けてもらった。庭から掘り取った土の中にホタルブクロの地下茎か種子が混じっていたのだろうか。

 ドクターの家の庭では、秋にリンドウが咲き誇った。庭木もあったが、丈は低い。陽光が庭一面に注いでいた。秋にリンドウが咲くような環境だから、初夏にホタルブクロが咲いても不思議はない。
 
「ドクターのリンドウ」はうまく根づき、1年後の去年、花が咲いた。ドクターは、リンドウがまだ庭に咲いていた晩秋、11月15日に亡くなった。それで、わが家では七五三の日をひそかに「竜胆(りんどう)忌」と呼んでいる。

 ドクターが亡くなったあとは、奥さんが独りで暮らしていた。何回となくダンシャリが行われた。その都度、電話がかかってきた。おびただしい蔵書の一部と食器、衣類、座卓、丸型プレート、未使用切手……。リサイクル・リユースに回せるものは回し、形見として手元に置きたいものは残した。

 気づいたら、季節の節目ふしめにドクターの形見が現れる。冬のホウレンソウ鍋はドクターから伝授された。もともとは映画監督・山本嘉次郎の得意料理だったらしい。鍋に水を張り、スライスしたニンニクとショウガを入れて、塩で味を調える。そこに豚肉と一枚一枚ちぎったホウレンソウを、しゃぶしゃぶの要領でくぐらせて食べる。それだけ。

 今年は正月に手あぶりでスルメを焼いた。端午(たんご)の節句の今は、床の間に「鍾馗(しょうき)」のいわき絵のぼりが飾られている。手あぶりも絵のぼりもドクターの家にあった。

「ドクターのホタルブクロ」は、よく見ると株が三つある。足かけ3年で地下茎が伸びたのだろうか。ただのホタルブクロかもしれないが、ドクターや奥さんとの交流を思い起こさせる意味では、特別のホタルブクロでもある。

2016年5月11日水曜日

空中浮遊

 家の向かいに未舗装の駐車場がある。手前は月ぎめ、奥は幼稚園のもので、ふだんは空き地になっている(どちらも田んぼを埋め立てた)。奥の空き地には車の侵入を防ぐため、20センチほどの高さで二重にロープが張られている=写真。その先にある義伯父の家へは、ロープをまたいで行く。
 ゴールデンウイークのある日、義伯父の家にいわき地域学會の仲間が集まって資料作成・印刷・封入作業をした。近所のコンビニへ飲み物を買いに行った帰り、いつもよりせかせか歩きながらロープをまたごうとしたら……。左足がロープにからまって体が宙に浮いた。

 ドデッと倒れたのを見て、近くのおじいさんが「大丈夫げ? 私も引っかかって転んだことがあんだ」。同情され、慰められて、「大丈夫です」――レジ袋からはみ出した飲み物をしまいながら、てのひらの痛みを我慢してニッコリしてみせた。

 わずか20センチのハードルだが、あなどれない。孫が年長組のころ、かけっこをしていてロープに足を引っかけ、宙を飛んだ。東京から震災後、生活支援に入ったNGOのスタッフも「ロープに気をつけて」と言った瞬間、足を引っかけて転んだ。

 テレビの情報番組で知ったが、年配者の足が上がらなくなるのは大腿筋が衰えたかららしい。頭のなかでは足が上がっているつもりでも、実際にはそこまで上がっていない。ちょっとした段差につまずく。階段に足のつま先をぶつける。そんなことが増えた。(若いとき、陸上競技をしていた“自負”が邪魔をして現実を直視できない?)

 フェイスブック経由で知人のブログを読んだ。岩塩低温サウナで60代後半らしい男性2人が会話をしている――。「歳とってくっと、ハゲるか、白髪になるかだね」「んだねー。最近、この腰の辺りから腿にかけてつんだよね」「筋肉、そげてんだっぺ(以下略)」

 草野心平の詩「秋の夜の会話」が思い浮かぶような、人生の日暮れの切ないやりとり。どこかにあきらめをにじませながらも、筋肉がつったらつったで生きていくしない、という開き直りが感じられて、「オレも同じ」と声をかけたくなる。こういうときにいつも思い出すのは俳人横井也有(1702~83年)の狂歌――。

 皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる
 手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる

 耳と目はずいぶん前から、足は1年前から……。東日本大震災(きょうは月命日)を生き残った身だ。老いを自覚しながらも、できるだけつつがなく暮らすために、座布団のへりを踏まない・濡れた風呂場の簀(す)のこには注意する(ズルッといって転ばないために)といったことを心掛けよう。近所をぐるっと回るくらいの散歩も再開するか。

2016年5月10日火曜日

旋回するタカ

 夏井川渓谷の隠居で土いじりをしていると、近くの木で鳥がさえずったり、目の前にチョウが現れたりする。そのつど、ン!となって手を止める。なかなか名前を思い出せないときもある。おととい(5月8日)は「キーウイ、キーウイ」と「ジュイー、ジュイー」を聞いた。ともに南から渡ってきた夏鳥だ。
 ウグイスやカラス、スズメ、トビは目にも耳にもなじんでいるからすぐわかる。「ジュイー、ジュイー」。ニイニイゼミのような耳鳴りを内蔵している身に、そう聞こえる鳥は一種しかいない。鳥類図鑑では「ジュウイチー、ジュウイチー」と記されているカッコウの仲間のジュウイチだ。

 ジュウイチは夜も鳴く。現役のころは“週末別居”と称して毎週、隠居に泊まった。谷の瀬音のほかは音のない世界。そこへ突然、「ジュウイチ―、ジュウイチ―」と深い闇を切り裂くように鳴くものがいる。ホトトギスと同様、まだ起きて鳴いているのか。ゾッとするよりは哀れを感じたものだ。

 昼の「ジュイー、ジュイー」を聞いてしばらくたったあと、今度は「キーウイ、キーウイ」が空から降ってきた。図鑑では「ピックイー、ピックイー」と表記されるタカの仲間のサシバだ。

 見ると、2羽が旋回している。それがバラけたあとにまた、2羽がからむように飛んでいる=写真。前と違って1羽は黒い。カラスだ。ハシボソだろう。カラスはタカ類をなんとも思わない。ちょっかいか本気かはわからないが、よくトンビにからんでは追い払うのを見かける。サシバにも同じような理由で接近したのだろう。

 サシバを追って隠居の前の道端まで出ると、軽くクラクションを鳴らして通り過ぎる軽乗用車があった。望遠レンズ付きの重いカメラを手に、じっと空を見上げていたので気づくのが遅れた。100メートルほど先で右折したところを見ると、地元・牛小川の住民のKさんらしかった。

 おととい、夏井川渓谷で出合った生き物は、チョウではベニシジミ、モンシロチョウ、スジグロシロチョウ。鳥は、ジュウイチ、サシバ、カラスのほかにウグイス。平地に下りると、平市街の新川、下流の夏井川でオオヨシキリのにぎやかな声を聞いた。

 モンシロチョウはキャベツの葉裏に卵を産む。いちいち葉を持ち上げて確かめるのも面倒なので、追肥と土寄せだけにとどめた。ジュウイチはオオルリやコルリに托卵するという。オオルリのさえずりも――と耳をすませたが、声はなかった。きょうから愛鳥週間。

2016年5月9日月曜日

赤い靴をはいた犬

「長靴をはいた猫」ならぬ「赤い靴をはいた犬」を見た。けなげにもご主人のジョギングに必死についていく。立夏から4日目。ゴールデンウイーク最後の日曜日(5月8日)は行楽日和になった(農家では田植えが続く)。風も日ざしも強い。日なたにいると暑さがこたえた。そんな日の午後のひとこま――。
 午前中、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。昼過ぎ、街へ戻った。図書館で用事をすませたあと、カミサンの希望でアリオス隣の平中央公園で開かれているパークフェスをのぞいた。

 帰りに、アリオス前の知人の花屋へ顔を出す。娘さん一家が来ていた。下の娘さん一家もあとで顔を見せた。母の日のプレゼントを持ってきたのだった。

 知人が店の前にいすを持ち出した。うまい具合に日陰になっている。風が気持ちいい。「なんかキューバ的な感じがする」。行ったことはないが、写真や動画で見たことのある構図を思い出した。
 
 店の前の細道をパークフェスへと人が行く。戻ってくる人もいる。小さな犬2匹を引き連れてジョギングをする男性が現れた。犬も赤いジョギングシューズ?をはいている=写真。とっさにカメラを向けると、男性が立ち止まってくれた。知人とは顔見知りのようだった。

 いわきにアマチュアの総合エンターテイメントバンド「十中八九」がある。知人によれば、そのメンバーのドクターだ。昨年(2015年)11月中旬、いわき市立草野心平記念文学館で「十中八九」のライブが開かれた。消防はんてんを着たアフロヘアの男性の姿が思い浮かんだ。目の前にいるのは、メガネをかけた物静かな好青年――落差は大きいほどおもしろい。

 帰宅すると間もなく、同じ「十中八九」に属するダンサーがカーネーションの鉢を持ってきた。彼女を介して「十中八九」を知り、彼女から届いたCDを聞いている。彼女もまた日常と非日常の落差が大きい。

 なぜバンド名が「十中八九」なのだろう。十のうち八~九割うまくいけばいい? そのくらいメンバーが参加すればいい? 一発で記憶に刻まれる名ではないからか、知人の頭のなかでは一時、「十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)」だった。ダンサーの娘(疑似孫)も「『四六時中』だっけ」と聞いたことがあるという。ま、覚えてしまえばどうってことはないが。

 そういえば――。CDには伝説の喫茶店「ブルボン」のマスターをうたった「ブルボンじいちゃん」が入っている。街なかの店に自作の彫刻が林立している。海辺に最初の店があったころ、漂流木を拾って彫ったのが始まりだ。そのマスターが先ごろ亡くなったと、風の便りに聞いた。「赤い靴をはいた犬」にも増して強烈な街の彫刻家だった。

2016年5月8日日曜日

「かえるマラソン」メダル

 ゴールデンウイーク2日目の4月30日、第1回「川内の郷(さと)かえるマラソン~復興から創生への折り返し」が開かれた。こう言ったらなんだが、いわき市や郡山市から見ると、分水嶺に近いどん詰まりの山里だ。そこを1200人近いランナーが駆け巡る――なんてことは「奇跡」に近い? 小学生の発案で開催が決まったそうだ。
「面積の約9割を山村が占める川内村は、かつて木炭の生産量が日本一であった歴史を持ち、森を大切にしながら暮らしてきた山里です。/渓流には『イワナ』が棲み、天然記念物の『モリアオガエル』が産卵する、豊かな自然がそのままの形で数多く残っています」
 
 メディアでは伝え得ない情報をネットで探り、大会関係者のフェイスブックやツイッターでさらに細部をのぞく。上記の引用文は、大会コンセプトの書き出しだ。続いて、鉄道の駅はない、路線バスや旅館なども十分ではない。でも、「山に囲まれた田畑を眺めると、なぜだか『落ち着く』『懐かしい』気持ちになる」――それが魅力ですよ、と呼びかける。
 
 黙っていても人が集まる。そんなインフラが備わっているわけではないから、アタマ(知恵)で勝負するしかない。郡山駅といわき駅から送迎バスを出す。ハワイアンズ泊だと首都圏からの客はバス代がタダ。それと連携してハワイアンズ~川内を含めたバスツアーも企画した。村民も何軒かで「民泊」を引きうけた。

 フェイスブック経由でテレビニュースを見たら、四半世紀前から付き合いのある村の陶芸家志賀敏広さんが登場した。「多少なりとも(大会を)応援できればいいかなと」いう思いで完走メダルをつくった=写真。モリアオガエルを模した村のキャラクター「モリタロウ」が描かれている。大会コンセプトに「村一丸となって取り組みます」とあるが、その通りの展開になったわけだ。
 
 以前は夫妻で、今は大学生の娘さんも加わって、3人で日常の器を焼いている。ネットで娘さんのツイートに出合った。工房でつくったメダルは青白磁だという。陶器のメダルと思い込んでいた。よちよち歩きの幼子は、今やデジタル技術を駆使してネットで情報を発信する親孝行な娘になっていた。

2016年5月7日土曜日

朝ドラにキノコが

 きのう(5月6日)の朝ドラ「トト姉ちゃん」には少し興奮した。ちょっと前から “植物オタク”の帝大生がからむ。ルーペを手に、東京・深川界隈で植物(菌類を含む)の新種探索を続けている。キノコの「ヒメヒラタケ」が登場した=写真。きのうのオチはしかし、植物の「ゲラニウム・カロリニアヌム」で、何日か違いで別人に発見されていた、という話。
 帝大生は伝説の植物学者・牧野富太郎をホウフツさせる。富太郎は独学、現場の人。帝大生も、アカデミズムに属しながらも現場の人、と思いつつ見ていたら、ヒメヒラタケは既知のキノコで、ゲラニウム・カロリニアヌムは新発見。そんな展開になった――。
 
 ゲラニウム・カロリニアヌム発見のニュースをすでに新聞が報じていた。その新聞を、主人公のトト姉ちゃんのすぐ下の妹が持ってくる。記事には牧野富太郎の名があった(きょうは「ぬか喜び」だったことがわかる?)
 
 まず、キノコ(ドラマの)。帝大生が探しているキノコに似ていると、トト姉ちゃんが案内する。祖母が取り仕切っている材木屋の庭に生えていた。が、新種ではなかった。朝ドラが終わったあと、ネットでチェックした。タモギタケのことだった。柄の長い黄色いヒラタケで、私は採ったことはない。が、いわき市内の奥山でも採れる。昔、だれかが猫鳴山で採った話をしたのを覚えている。
 
 もうひとつ。植物のゲラニウム・カロリニアヌムは、和名がアメリカフウロというらしい。北アメリカ原産の帰化植物だ。今では北海道を除く列島の土手や道端に普通に見られるのだとか。
 
 なぜ、深川の木場で新種が――。これは私の妄想だが、木場には国内の木材が集まることと関係していないか。木材と一緒にキノコの胞子や野草の種子が運ばれる。で、そこに根づくものがある。
 
 ヒメヒラタケは、材木店内の庭の一角に生えていた。庭と植え込みの境に敷かれた木っ端から発生した。木っ端がヒメヒラタケの胞子の栄養になったのだろう。アメリカフウロについては、そのころ木材が輸入されていたかどうか、も含めてよくわからない。
 
 朝ドラに刺激されて、階段に積みあげておいた本の中から、水野仲彦著『山菜・きのこ・木の実フィールド日記』(山と渓谷社、1992年刊)を引っ張り出した。この図鑑には、山菜・食菌・木の実の写真のわきに、自分で採ったり食べたりした場所や年月日を書き込める欄がある。
 
 水野さんは郡山市の人で、阿武隈高地、会津の山々、浜通りの海岸と、福島県人には身近な場所をフィールドにしている。昔はこの図鑑を眺めながら目的を絞って山野を巡った。メモだらけのページ(クリタケやアカモミタケなど)も、真っ白なままのページ(コシアブラやタモギタケなど)もある。
 
 5月2日付拙ブログで報告した、夏井川渓谷の隠居のアミガサタケは、『フィールド日記』によれば、2006年4月下旬以来、10年ぶりの発生だった、ということがわかる。
 
 今は、植物(生産者)・動物(消費者)・菌類(分解者)という連環がイメージされているが、昔はキノコも植物として扱われた。そのキノコと植物が「トト姉ちゃん」にどんな彩りを添えるのか――急に本筋とは違ったところで興味がわいてきた。

2016年5月6日金曜日

山菜争奪戦

 山菜やキノコを採る人には目当ての場所(シロ)がある。シロは自分のものと、だれもが思っている。世の中、そう甘くはない。現実には早い者勝ち。勝ったり負けたり(採ったり採られたり)、だ。
“原発震災”後、野生キノコの摂取・出荷制限が続いている。山菜も種類と場所によってはベクレルの高いものがある。が、セシウム134が半減し、同137も減衰して、放射線量が少なくなってきた。で、夏井川渓谷の隠居の内外に生えるフキノトウ、小流れのクレソンは、今は普通に口にする。クレソンのそばに生えるコゴミ(クサソテツ)も、一度は摘んで食べる。

 今年は、春の到来がいつもの年より早かった。同じ渓谷の別の集落に住む友人が、師走のうちに梅の花が咲いたと驚いていた。その友人の畑と沢から白菜の菜の花、ルッコラ、葉ワサビ、クレソン、フキが届いたのはほぼ1カ月前。

 小流れのコゴミも早いかもしれない。隠居へ行くたびにチェックしたが、4月中旬まではなんの変化もなかった。採取記録を見ると、だいたい4月25日前後の日曜日に初物を摘んでいる。その日曜日をはずすと、もう摘まれてない。
 
 4月24日の日曜日、午後――。一歩遅かった。株立ちした若葉は6~8枚あるのだが、摘み残しが1枚残っているだけだった=写真。背丈からして前日か前々日に摘まれたらしい。
 
 私には、わずか20年前からのシロにすぎない。地元の人間にはそれ以上の年数にわたって、散歩がてら摘み採るのを楽しみにしているシロだったかもしれない。あるいは、ヤマザクラその他の花を見に来た行楽客が歩いていてたまたま目に留めたか。いずれにしても、摘まれたらあきらめるしかない。
 
 スーパーで売っている山菜は、どうしても買う気になれない。買うなら採りに行く。標高の高いいわき市川前町や隣の川内村へ行けば、まだ残っているだろう。が、そこまで“荒らし”に行くのもはばかられる。あれから5年。少しずつだが季節の楽しみが戻りつつある。山菜の争奪戦も復活した。

2016年5月5日木曜日

GW終盤

 いわき市内ドライブ(4月29日)、平・豊間での飲み会(同30日)、郡山市行(5月1日)、いわき地域学會の資料作成・印刷・発送作業(同2日)、近所の立鉾鹿島神社祭典出席(同4日)――。あっという間にゴールデンウイーク(GW)も終盤を迎えた。
 GWには祭りが集中する。立鉾鹿島神社は、参道をJR常磐線が横切っている。この日、神輿(みこし)が渡御するときだけは線路への立ち入り禁止が解除される。JRから毎年、社員が2人来て、神輿が渡御する瞬間を見守る=写真。その瞬間だけは一般人も堂々と線路を横断できる。

 5月13日夜9時のBSプレミアム「新日本風土記」は、常磐線がテーマだという。神社の祭典の終わりに宮司さんがPRした。「もしかしたら境内で私が掃除をしているシーンが映るかもしれません」。鳥居と鳥居の間を電車が横切るのは珍しい――というので、取材に来たのだそうだ。

 あとで、ネットで番組予告記事を読む。福島県分(いわき市)は「一山一家」(炭鉱~ハワイアンズほか)、「常磐もの」(海産物)の2本立てのようだ。全体では5本のオムニバス形式らしい(鉄路にひっかければ「オムニトレイン」か)。

 常磐線は竜田(楢葉町)―原ノ町(南相馬市)、相馬(相馬市)―浜吉田(宮城県亘理町)の2区間が3・11後、不通になっている。

 平成24(2012)年の歌会始に、元福島高専校長の寺門龍一さんが最年長で入選した。「いわきより北へと向かふ日を待ちて常磐線は海岸を行く」。寺門さんは、自宅が茨城県にある。校長官舎のある平へは常磐線を利用した。常磐線の全面復旧と被災地の復興を祈って詠んだ。
 
 2年後の同26(2014)年の歌会始では、渡辺三利さん(平)の作品「退職の日の終電を見送りて静かに白き手袋を脱ぐ」が佳作に入った。渡辺さんは3・11前の平成16(2004)年3月、原ノ町駅長を最後に退職した。
 
 たまたまご両人を知っている。お二人の作品はまさか「新日本風土記」には出てこないだろうが。
 
 それはさておき、この番組では湯本温泉旅館の女将の集まり・湯の華会も和服でフラダンスを踊るシーンが出てくるらしい。同会がフェイスブックで紹介していた。「和服フラ」って……。見るしかないか。

2016年5月4日水曜日

高原の里

 日曜日(5月1日)、いわき市から郡山市へ行くのに国道49号を利用した。帰りは同じ道を戻るのも芸がない。磐越道と国道288号は交通量が多い。それに、何度も通っている。国道288号と同49号の間のルートを利用して、のんびり帰ってきた。
 主に県道57号(三春大越線=旧磐城街道)を走った。田村市~郡山市の幹線道路は国道288号だ。県道57号はひと山越えた南側の農村部を東西に横断する。山と言っても、「田村富士」の片曽根山(718メートル)を除けば小丘群が続く高原。視界は広い。
 
 15歳まで同じ田村市(旧田村郡常葉町)で過ごした。ゆるやかなアップダウンのある風景が懐かしい。いや、“原風景”そのものでもある。
 
 阿武隈高地の地形を研究した故里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)に「残丘」というエッセーがある(同学會図書16『あぶくま紀行』平成6年刊)。

「阿武隈高地は中生代白亜紀後期(八千万年前)に、山地全体が風化作用や河川の浸食などの準平原化作用によってほとんど平坦になってしまった。その後、第三紀における汎世界的な地殻変動によって、四回にわたって間欠的に隆起したことが知られている」

 阿武隈高地の東側(いわき市など)は、河川の浸食が復活した。V字谷を形成する。西側は、平坦化した穏やかな風景が広がる。所々に見える山は「残丘」。独立峰で、お椀を伏せたような形の山もある。「田村富士」がそうだ。

 郡山市から三春町へ入り、大滝根川の三春ダム(さくら湖)を左に見ながら田村市船引町芦沢字上山田地区に入ると――。狭い旧道と新設された大きな道の間の小丘に赤い屋根の小社が見えた=写真。わきに大木が枝葉を広げている。すごくいい感じの「里の風景」だ。

 グーグルアースなどで確かめたら、入り口に鳥居がある。境内の大木は「山田の天王桜」。滝桜を頂点に、田村地方にはシダレザクラの古木が多い。「山田の天王桜」もそうだ。もうちょっと前なら、赤い屋根とピンクの花のコントラストが見事だったろう。

 県道をさらに東進して別の道に入ると、映画にも登場した「小沢の桜」がある。こちらはソメイヨシノで、何年か前、なにかの用事のついでに満開の花を見た。「山田の天王桜」もそのたたずまいからして、地元の人間に大切にされていることが推察できた。この道沿いには大鬼の顔をした巨大な「お人形様」もある。民俗学的に興味深いルートだ。

 ふるさとの隣町ながら、こうしてたまに山の向こうの高原の里を巡ると、少年時代の感覚が戻って気持ちが落ち着く。

2016年5月3日火曜日

作業所でバーベキュー

 5年前の震災で生まれた絆(きずな)――。シャプラニール=市民による海外協力の会の緊急救援・生活支援に携わった元スタッフがいる。そのつながりでいわきリピーターの知り合いが増えた。
 震災の年のちょうど今ごろ、疑似孫の親と飲んでいるうちに、若いときにつきあっていた豊間の大工氏の話になった。電話をするとつながった。わが家の近所に避難していた。数十年ぶりにつきあいが復活した。(原発事故がからんで、それまでは太いと思っていた絆がぶつりと切れた、そんなもろい関係でしかなかった人間もいる)

 豊間は津波で壊滅的な被害に遭った。大工氏の自宅は前に病院が建っていたこともあって残ったが、「全壊」の判定で住めない。地続きの作業所は床上1・5メートルの津波に襲われたが復旧した。本人もその津波からかろうじて逃げのびた。

 4月末にいわきリピーター3人がやって来た。義伯父の家にホームステイをした。土曜日(4月30日)夜、豊間の作業所で恒例のバーベキューをした。大工氏の地元の仲間も加わった。

 豊間は行くたびに景観が変わっている。集落の裏山が削られ、やがて高台住宅が建つ。海岸にはそこから出た土砂で防災緑地ができる。今度も道路の位置が変わっていた。

 飲むとやはり5年前の話になる。大工氏が当時の写真アルバムを引っ張り出してきた。震災から100日目の6月18日、豊間小体育館で合同葬が行われた。祭壇に飾られた遺影は写真1枚に収まらない。ダブりながらも8枚にわたって遺影の写真があった=写真。

 大工氏と仲間3人は消防団の現役かOBだ。今回はプロパンガスの話が印象に残った。ガレキの野となったふるさと――ガス臭い。「シュ-、シュー」と音がする。豊間は家々にプロパンガスボンベが各2本あった。それが津波の影響でホースが外れ、ガスを吹いていた。匂いと音を頼りに、2次災害を防ぐためにボンベの元栓を締めて回ったという。

 こうした大災害の細部を、外部の私たちは知らない。災害を学んで次に備えるためにも、聴いておかなくてはならないことがいっぱいある。

2016年5月2日月曜日

アミガサタケ出現

 ざっと2年半前(2013年師走)。夏井川渓谷にある隠居の庭が全面除染の対象になり、表土が5センチほどはぎとられた。あとに山砂が敷き詰められた。
 以前は、毎年ではないが春にアミガサタケが出現した。梅雨期には決まってマメダンゴ(ツチグリ幼菌)ができた。夏~秋にはホコリタケ。冬にはシロシメジモドキ、立ち木にエノキタケ。いながらにして、隠居の庭から食菌が採れた。

 上記のキノコのほかに、無量庵の庭(地表・樹木)に発生する食菌は、20年余の記録をみると、ヒラタケ、アカモミタケ、オオチャワンタケ、ヒトヨタケ、ハルシメジ、アラゲキクラゲ。アミガサタケに限って言えば、震災翌年の2012年春にも1本出現した。食べたか食べなかったかは記憶が定かではない。
 
 菌糸ごと表土が除去されたあとは、しばらくキノコが発生することもないだろう、とあきらめていたが……。きのう(5月1日)、郡山市立美術館へ行った帰り、三春のハーブガーデンを経由して渓谷の隠居で一服した。
 
 そのあと庭をじっくり見たら、アレッ、あるぞ!――アミガサタケがシダレザクラの樹下に発生しているではないか=写真。菌輪を形成中なのか、点々と4本が頭を出していた。3本を採った。
 
 山砂にも胞子が含まれていたかして(あるいは除去された表土より深く菌糸が残っていたかして)、4年ぶりにアミガサタケが姿を見せた。森の中のキノコはまだ食べる気にはなれない。が、山砂が投入された庭から出たキノコだ、これはもう体が反応した。5年間(庭に限って言えば2年半)で環境が変わってきた。
 
 震災の半年前(2010年秋)、台湾・野柳の海岸(地質公園)でアミガサタケの形状とそっくりのキノコ岩をながめた。唐突ながらそのことも思い出した。

「バター炒めだな」。カミサンにいうと「自分でやってね」。しかたない。ここは湯がいておいて、あとで食べ方を考えよう。量は3本でおよそ20グラムだ。きのうは日曜日で、夜は定番のカツオの刺し身。併せてバター炒めのアミガサタケも、というのはもったいない。それはきょうの夜のつまみにする。

2016年5月1日日曜日

「女性を描く」展を見る

 おととい(4月29日)はいわき市南部へドライブしたあと、市立美術館で市制施行50周年記念展「女性を描く――クールベ、ルノワールからマティスまで」を見た。その足で近くのギャラリー界隈をのぞいた。
 美術館によれば、主に19世紀後半から20世紀前半にかけて、フランスで活躍した画家たちの作品60点余が展示された。目当てはモイーズ・キスリング「赤い洋服のモンパルナスのキキ」=チラシ写真・右。

 10代の終わりごろ、渋谷の東急百貨店でこの絵を見た記憶がある。45年以上も前のことであいまいなのだが、展覧会名に「エコール・ド・パリ」(パリ派)が入っていた。アンリ・ルソー、ユトリロ、ローランサン、モディリアニのほかに、シャイム・スーティン、ジュール・パスキン、キスリングらを知った。
 
 キスリングの「赤い洋服」を着たキキが印象に残った。当時は、「赤い洋服」ではなく「赤いローブ」と表記されていたような気がする。それと、もう1点。「魚」も展示されていたように思う。遠くから見ると立体感があった。この作品もずいぶん前、市立美術館の企画展で見た(年報に当たったら、平成3年の「パスキンとエコール・ド・パリ」展だった)
 
 近くの界隈では明5月2日まで、箱崎りえ陶芸展が開かれている。箱崎さんは近所に住んでいる。コミュニティ活動に携わる“仲間”でもある。大から小までユニークな作品がいっぱい展示されていた。次回展は「静かな時 ラ・マンチャ――阿部幸洋絵画展」(5月13~22日)。45年来の友人の個展だ。画廊から案内はがきをあずかった。

きょうはカミサンのいうことを聞いて、郡山市立美術館まで運転手。「古民藝 もりたの眼」展が開かれている。黙って付き従うしかない。