2016年11月23日水曜日

「あのとき」がよみがえる

 勤労感謝の日(11月23日)の夜が明ける。震度5弱の福島県沖地震から24時間がすぎた。ゆうべも寝入りばなにグラグラッときて、飛び起きた。震度4だった。余震が続いている。
 沿岸部の住民には、多くの犠牲者を出した大津波の記憶がある。津波警報が出された。小名浜で高さ3メートルの津波予想が、結果的には60センチですんだ。急いで避難した人たちはその程度で終わってホッとしたことだろう。

 内陸部の住民はいわきの隣郡、双葉郡で起きた原発事故を思い出した。地震からしばらくたって、「東京電力福島第二原子力発電所の3号機使用済み燃料プールの冷却機能が停止した」とテレビが伝えた。「なんだ、これは!」。間もなく復旧したからよかったものの、冷温停止状態の2Fもやはり「安心」には程遠い。
 
 きのう(11月22日)は朝5時40分すぎに起きた。いつもはもっと早く床を抜けだして(だいたい5時過ぎ)、前夜の晩酌のあとに書いたブログに手を入れてアップする。ブログを仕上げたとたん、ドドドドときた。<これはきょう使えない。この地震を伝えないと>と、テレビ局が自局内の様子を映すように、「そのとき」のわが家の状況を書いて7時ごろにアップした。こんなときには「まず記録を」と、ほかのなにものよりも元ブンヤとしての意識が勝ってしまう。それはしかたない。
 
 座卓のわきに積み上げていたクリアファイルが二、三滑り落ちた。2階の本棚も、上のものが少し落下した。階段の本は無事だった。トイレ前のティッシュペーパー入れが倒れていた=写真。ほかにも各部屋で小物が落ちた。わが家の状態から、地震そのものの被害は軽微とみて、遅い朝食後、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。食器洗い用スポンジが流しに落っこちていた。それだけだった。道路には、落石が発生したような様子はなかった
 
 わが家のプロパンガスが自動停止をした。事業所に電話をし、いう通りに復帰ボタンを押すと復旧した。

 カミサン(民生委員)は独り暮らし老人宅に電話をかけ続けた。そのあと、何人かの家へ様子を見に行った。電話では気丈な応対をしていたが、会ってみると何人かは避難の準備をしたものの、「どこへ逃げたらいいのか」と不安がっていた。会えば安心する。フェイスブック友の若い知人も近所の独り暮らし老人宅を訪ねて回ったという。それで相手は安心した。こういう若者がいることを心強く思った。
 
夜、いつものように晩酌を始めると、「あなたはきょう、なにをしたの」といった目でカミサンに見られた。こういうときの連絡網をつくっておくのが区の役員ではないか――。
 
 いわき市では、2Fの事故を想定した広域避難計画を策定中だ。わが区も近隣の区も今年と来年の2年をかけて、連絡網その他を構築することになっている。自然災害は待ってはくれない、原発事故も――そのことをまた実感した。

あの超巨大地震からわずか5年8カ月しかたっていない。余震はまだまだ続くという。6時6分。また余震。これは、いわば余震の余震か。

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