2017年9月30日土曜日

新川の水環境ワークショップ

 あすから10月。早ければ中旬にも、いわき市にコハクチョウが飛来する。夏井川では、下流から平・塩(新川との合流点)=写真、平・中平窪、小川・三島の3カ所で越冬する。
 塩では、たまった土砂の採取がまた始まった。これまでにも何度か土砂採取が行われてきた。土砂はすぐたまる。夏井川もそうだが、支流の新川も水が山から発したと思うとすぐ平地に至る。雨のたびに運ばれてきた土砂が途中に、合流点にたまる。川が大雨でチョコレート色になるときは、砂が川に、河川敷に“貯金”されるときでもある。

 なんせ夏井川は河口が閉塞している。海岸線に並行する横川で支流の仁井田川に逆流して太平洋に注いでいる。水を吐き出す力が弱い。

 おととい(9月28日)の夜、平で新川の水環境に関するワークショップが開かれた。三春町にある福島県環境創造センターが主催した。同センターから連絡がきて参加した。

 同センターは「原発震災」後にできた。大気汚染などの公害問題のときは「環境保全」でよかったが、放射性物質がまき散らされたあとは「保全」などという生易しいものではない、マイナスから環境を「創造」しないといけない、ということなのだろう。

 新川は、ざっと30年前は「どぶ川」だった。27年前に書いた「新川再生プラン」と題するコラムを引用する。

「市の若手職員で組織しているイメージアップ推進委員会が、市長に中間報告をした。(中略)その中のひとつ、『新川フェニックス計画』は、どぶ川に等しい新川を官民一体で再生しよう、というのが内容だ。(中略)内郷、平の市街地を流れる新川がよみがえれば、いわきは全国に誇り得る『水のまち』になるだろう」
 
 新川は下流域の下水道整備が進んだこともあって、水質が改善された。県も河川改修工事を実施した。が、結果はどうか。多自然型河川=親水空間づくりだったはずが、草ぼうぼうの“排水路”と化した。それが、市街を流れる新川の姿だ。
 
 ワークショップでは、現状・課題を話し合い、地域の人たちに新川に関心を持ってもらえるようなイベントを考えた。
 
 私は、暮らしの中では新川とは縁がない。ただ、一日に一回は夏井川を見るようにして暮らしている。街へ出かけた帰りに夏井川の堤防を利用するのはそのためだ。そこで、夏井川に合流する新川の終わりの姿を見る。
 
 戦国時代、そして近世の城と城下町が形成された、いわき市の、昔からの中心市街地を流れる川――これが新川とその流域の歴史・文化的価値ではないだろうか。
 
 点(住んでいるところの川の表情)から線(源流から河口まで)へ、そして面(雨が降って水が流れ落ちる流域)へと、思考の幅を広げる。そうしないと水環境についての議論は深まらない。流域の自然と人間の関係が、最終的には水環境となってあらわれるからだ。これに、新川の歴史・文化的価値を付加して考える。
 
 ワークショップは、2回目が年内に開かれるという。新川がほんとにフェニックスになれる最後の機会かもしれない――リバーウオッチングを続けている人間にはそう映る。

2017年9月29日金曜日

「がんばる」ドラマ

 毎朝15分のなかに、ちょっとした涙があり、笑いがあり、意表を突く演出がある。きのう(9月28日)は、奥茨城村のバスの男性車掌・次郎が村長選に出馬していた。みね子でなくても驚いた。洋食屋のウエートレス谷田部みね子が主人公のNHK連続ドラマ「ひよっこ」だ=写真。
 きのうは――。みね子が里帰りし、家の近くで咲き誇る花たちに目を輝かせる。稲作プラス花栽培の複合経営へと乗り出した父親(記憶はまだ戻っていないはずだ)が、みね子にいう。これまで仕送りをしてくれてありがとう、これからは給料を自分のために使ってほしい。ほかの家族もあらたまってみね子に礼を言う。

 あしたは最終回。みね子の妹分の青天目澄子がいわき・小名浜出身の設定だったこと、みね子が私ら昭和22~24年生まれの団塊の世代と年齢が近い(団塊の1年先輩)こともあって、毎日、茨城に接するいわきの準ご当地番組のように自分の青春の思い出を重ねながら見た。

 がんばればがんばっただけの成果が得られた右肩上がりの高度経済成長時代を象徴するように、ほぼ毎回、「がんばっぺ」「がんばろう」「がんばって」「がんばる」という言葉が聞かれた。途中からひそかに<「がんばる」ドラマ>と名づけた。がんばったから、「ひよっこ」から一人前の「おとな」になれたのだ、ということなのか。

 先週土曜日のシェフと愛子さんの会話には、ドキッとした。シェフは早くに妻を亡くした。愛子さんは恋人を戦争で失った。ともに妻を、恋人を忘れられない。それでも「恋はできますよね」(愛子さん)「二番でいいです。私は愛子さんにとって世界で二番目に好きな男で構わないです」(シェフ)。

 7月25日付の拙ブログにこんなことを書いた。みね子が島谷君と別れたあとだ。

<「ひよっこ」は9月末まで続く。まだ7月後半だ。9月末にハッピーエンドになるならともかく、今の段階でハッピーになるはずがない。結婚したら視聴率はガタ落ちだ――なんて勝手に気をもんでいたら、やっぱり……。みね子、いっぱい泣け。泣いて、泣き疲れろ。恋愛は世界一好きな人として、結婚は世界で二番目に好きな人とするんだよ――なんて、心のなかで叫んでいた>

 カミサンがそばで見ていなくてよかった。同級生と飲んだり、若い人が来て酔ったりすると、「恋愛は世界で一番好きな人とする、結婚は世界で二番目に好きな人とする」と口走る。カミサンにも酔っていったことがある。すかさず、同じことを返された。シェフの肩をたたきたくなった。みね子も世界で二番目に好きなヒデと一緒になるようだし。

2017年9月28日木曜日

「カネはとれないです」

 日曜日(9月24日)の夕方、いつもの魚屋さんへ行くと、「きょうのはそれなりの味です」という。カツオの刺し身のことだ。食べられるが、味は落ちる――そう顔に書いてある。
 いつもの量(一筋=魚体の4分の1)を切って皿に盛り、新聞紙で包みながら、「カネはとれないです」という。前にも一度、そんなことがあった。

「カツオはさばいてみないとわからない」「きょうのはいいですよ」「吉田さんの分をとっておきました」。生のカツオが入荷する限りは、毎日曜日、刺し身を食べる。今年は早かった。小名浜に水揚げされる前から食べている。

 それなりの味ってどんな味? 晩酌をしながら、カツ刺し=写真=をつつく。なるほど。口に入れると少しねちゃっとして硬い。後味が悪い。赤い肌が電灯の光を反射して金緑色をしているのもある。鮮度が落ちている証拠だ。半分を残して食べるのをやめる。翌日、残りをカミサンがにんにく醤油にひたして油で揚げた。

 それなりの味に後退したわけは? 土曜日(23日=秋分の日)・日曜日と連休になった。通常の日曜日だと、朝にカツオが入る。連休でそれがなかった。一日長く冷蔵庫に入っていたので鮮度が落ちた、ということなのだろう。

 油で揚げたカツオは、いわば「ひたし揚げ」。『いわき市伝統郷土食調査報告書』(平成7年3月刊)によると、いわきのハマにはカツオの「焼きびたし」がある。こちらはまず、カツオの切り身を火で焼く。冷めたら、鍋に入れて沸騰させた醤油を冷ます。それに焼いた切り身をつける、というものだ。

 ハマでは「焼きびたし」、同じいわきでも内陸は「ひたし揚げ」と違いがある。極端な話、ハマの食文化エリアは狭い。

 調査報告書の冒頭に、ハマの人間にはサンマ・カツオ・マンボウなどの「料理はごく当たり前の普通の料理である。ところが、ほんの数キロしか離れていない地区に行くと、そんな料理は食べたことがないという例がたくさんあった」とある。伝統のハマ料理を一般化するには、ちょっと離れた内陸の視点が必要になる。
 
 おっと、忘れていた。カツ刺しをただでもらって帰るわけにはいかない。目の前にパック入りの干物があった。カミサンが名前を聞くと、ニクモチ(カレイの一種のミギガレイ)だという。値段は1000円。カツ刺しの翌朝、焼いて食べたらクセがない。焼き鳥のレバーのような食感も味わえた。うまかった。

2017年9月27日水曜日

「立派な恋愛詩になる」

 いろいろ本は買って読んできた。今も図書館から借りて読んでいる。いつのころからか、手にする本は地域出版物が主になった。人間や世界を知るために「読む」より、いわきの今と昔を知るために「調べる」ことが多くなったからだと思う。
 狭くてもいい、深く知りたい――ローカルな思考を鍛えるには、できるだけ多く地元の先人の本に当たる。それが近道、いや地道な楽しみだ。

 大正~昭和初期のいわきの文学(詩)を調べている。大正元(1912)年、日本聖公会の牧師・詩人山村暮鳥が磐城平に着任した。5年余りの短期間だったが、キリスト教と文学の布教をした。文学に関しては、暮鳥本人の、そして暮鳥のまいた種が芽を出し、花開いた時期でもある。

 少し前、拙ブログで暮鳥ゆかりの平聖ミカエル会衆はライトの弟子のアントニン・レーモンドが設計し、奥さんのノエミが十字架その他、建物内外の装飾・デザインに協力したのではないかと書いた。すると、埼玉の知人から日本聖公会東北教区『小名浜聖テモテ教会・平聖ミカエル会衆80年史』(1982年3月刊)のコピーが届いた。メールがきて、ぜひ全文コピーを、と頼んだのだった。

 なかに、「山村暮鳥伝道師のことども」という文がある=写真。黒沢隆世さんという人が書いた。

「平第一尋常高等小学校の一年生ぐらいで、教会の近くに住んでおり、近所の子供たちと一緒に教会の日曜学校に通っておった。若い女の先生がオルガンをひいて讃美歌をうたい、お祈りをしたあとで奇麗な絵ハガキを貰うのがとても嬉しかった。(中略)その女の先生が山村暮鳥夫人であったことも知らず、まして伝道師が詩人山村暮鳥なることなど知るよしもなかった」

 月遅れ盆にカミサンの実家へ行ったとき、故義父の書棚に高木稲水著『或教師の覚え書』(千秋社、1979年)があるのが目に留まった。パラパラやっていたら、暮鳥の思い出の記があった。旧制中学校5年生のとき、高木さんは友人たちと教会に暮鳥を訪ねた。

「どんな話を聞いたかはほとんど忘れてしまったが、『詩篇のエホバということばを君となおすと立派な恋愛詩になる』といったことばだけが今でも印象に残っておる。キリスト教というものを真面目に考えておった私は、その時不謹慎なことばをはく牧師だなと思った」

「神よ! 鹿が谷川を慕いあえぐように/わが魂もあなたを慕いあえぐ/わが魂は渇いているように神を思い/いける神を慕う/いつ私は行って神のみ顔を/見ることができるだろうか」。高木さんは「詩篇42」を例示して、「これはそのまま男が女に対する愛情を吐露した詩に似ておるではなかろうか」と述べる。

 なるほど、暮鳥は型破りな牧師だった。小学生や中学生に暮鳥がどう接したか、小学生や中学生が暮鳥を、教会をどう見ていたか、なんとなく目に浮かぶようなエピソードではある。

2017年9月26日火曜日

三春ネギの味噌汁

 原発事故で三春ネギの栽培サイクルが狂った。
 三春ネギは秋に種をまく。夏井川渓谷の隠居の庭が2013年冬、全面除染された。その年、種まきを休んだ。1年後、種をまいたら発芽した。2年目の種の発芽率は悪い。それでも、芽生えたネギを初夏に定植した。
 
 種を切らすわけにはいかない――原発事故がおきたとき、意地でも栽培を続けると決めた。この6年は「食べる」より、「種を採る」ためだけの栽培だった。

 初夏に種を採って秋にまく。翌年、定植して秋に収穫する。数本残して越冬させる。その親ネギがネギ坊主(種)をつくるのは、採種から足かけ3年目の初夏だ。
 
 去年(2016年)は「筋まき」でも、「点まき」のようにややすき間をおいたのがよかったらしい。20年ほど栽培して初めて元気な苗ができた。
 
 鉛筆のように太いネギ苗は大きく育つ。線香のように細い苗は定植しても細いままだ。とはいえ、全部が全部育つわけではない。ネキリムシにちょんぎられる。雨が多いと根腐れをおこす。夏に天候不順が続いた。が、今年は浅く植えて高く土寄せをする方法に切り替えたので、なんとかもちこたえた。
 
 田村地方では、月遅れ盆のころ、斜めに植えなおして曲がりネギにする。渓谷の住民に聞けば、定植したまままっすぐに育てるという。それにならって斜め植え(やとい)はさぼった。
 
 おととい(9月25日)、追肥と土寄せをしたついでに、間引きを兼ねて4本を引っこ抜いた。震災、いや原発事故後初めて、「食べる」ためにネギを収穫した。10月8~9日には種をまく。苗床用のスペースも決めた。

 味蕾に記憶されているのは、ジャガイモとネギの味噌汁。きのう朝、それが出た=写真。市販のネギと違って、甘くやわらかい。やっとネギ栽培のサイクルが元に戻りつつある、という実感がわいた。

2017年9月25日月曜日

仮置場撤去

 夏井川渓谷の県道小野四倉線沿いに、除染作業で出た民家の庭の土などを保管する仮置場がある。いや、あった。
 毎週日曜日、渓谷の隠居へ行って土いじりをする。途中に白い塀で囲われた「江田地区仮置場」がある。朝7時過ぎであれば、仮置場に設置されているリアルタイム線量計が稼働している。0.1を超えるときもあったが、今は0.09~0.08(実際は小数点以下3ケタ)で推移している。
 
 きのう(9月24日)通ったら、仮置場がなくなっていた=写真。「ない!」。車の助手席でカミサンが叫んだ。18日の日曜日は雨で、北茨城市の天心記念美術館へ出かけた。翌19日。田村市常葉町の実家への行き帰りに仮置場の前を通った。変化はなかった。連休が明けてすぐ、保管物が双葉郡の中間貯蔵施設へ運び込まれ、塀が撤去されたのだろう。

 いわき市の住宅除染は北部4地区(久之浜・大久、四倉、小川、川前)から始まった。わが隠居は小川町・牛小川にある。平成25(2013)年の師走に、庭の全面除染が行われた。牛小川区と交流のある隣接・江田区の好意で、同区に設けられた「江田地区仮置場」に隠居の土などが搬入された。それからおよそ4年、仮置場は線量計を除いて更地になった。
 
 跡地に標識が立っていた。「空間線量率 0.08マイクロシーベルト/時」「測定日時 平成29年9月19日9時14分」とあった。時間からいって、搬出作業開始時の線量だろう。24日のリアルタイム線量計は0.091と、搬出前と大きな変動はなかった。

2017年9月24日日曜日

失われた故郷

「9月5日の貴ブログが更新されないのでとても驚きました。ミニ同級会だったそうで安心しました」。心配してくれる人がいることに驚き、恐縮した。
 ミニ同級会で樺太(サハリン)や占守(シュムシュ)島の話になった。ブログを休んだ翌日、そのことを書いた。後日、野鳥の会いわき支部の前事務局長峠順治さんから封書が届いた。
 
 岐阜県高山市で発行されている総合文芸誌「文苑ひだ」第10号(2016年1月刊)が同封されていた。「一九四五年樺太上敷香(しすか)逃避行 失われた故郷」が載っている=写真。田之下徳重さんという人が書いた。創刊号に載った田之下さんの詩「名を忘れられた教師」のコピーも入っていた。樺太関連資料としてどうぞ、ということだろう。

 田之下さんは北緯50度の国境に接する町・敷香で生まれ育った。手記には、終戦直前、ソ連軍が侵攻してきたこと、昭和22年に引き揚げが開始されたこと、平成7年に「日ソ平和の旅」で故郷を訪ねたこと、終戦直後に生き別れた親友とのちに再会したことなどがつづられている。

 親友の家族はソ連侵攻後の昭和20年8月22日、港町の大泊まで南下し、引揚船「小笠原丸」に乗るはずだったが、たまたま親友が対空機関砲のある「第二号新興丸」を見て、そちらへの乗船を希望したら、通った。

 小笠原丸は稚内経由で小樽へ向かっているとき、“国籍不明”の潜水艦に撃沈された。第二号新興丸も同じように攻撃されて大破したが、持ちこたえて留萌港に入港した。小笠原丸に乗っていたら命はなかった。このとき、「泰東丸」も撃沈された。合わせて1700人余が犠牲になった。これを「三船殉難事件」という。

 同じように命拾いした少年がいる。のちの横綱大鵬だ。やはり敷香で生まれ、5歳のときに小笠原丸に乗って引き揚げたが、母親が船酔いがひどくなり、稚内で途中下船したのだった。

 けさ、たまたまだがこのブログを仕上げているときに、6時15分からNHKで「三船殉難事件」を取り上げた番組が放送された。<目撃!にっぽん――執念~三船遭難事件から72年~>で、母親を失った男性が事件の解明を願って活動を続け、亡くなるまでを追った。事件を風化させてはならない。「一人でも多くの日本人に知っていただきたい」。病身からしぼりだす言葉に胸が熱くなった。

2017年9月23日土曜日

昭和5年のヨーヨー

 また吉野せいか、といわれそうだが――。今年(2017年)は作家吉野せい(1899~1977年)の没後40年、吉野せい賞40周年の節目の年だ。それを記念するイベントがいくつか行われる。すでに終わったものもある。
 9月9日にはいわき芸術文化交流館アリオス音楽小ホールで、朗読と邦楽器による「吉野せいの世界」が開かれた。10月7日にはいわき市立草野心平記念文学館で「没後40年記念 吉野せい展」が開幕し、同14日にはいわきPITで、せい原作「洟(はな)をたらした神」の上映会&トークショーが開かれる。

 個人的には、上映会の1週間後(10月21日)、いわきアフターサンシャイン博実行委主催のいわきサンシャイン学で「吉野せい~『洟をたらした神』の世界~」と題して話さないといけない。

 これまで話してきたデータ(レジュメ)はある。それを使えば簡単だが、たぶん前に話を聴いている人が聴きに来る。同じ話はできない。切り口を変えて、当時の時代・社会・暮らし・遊びから、登場人物と作者の心に迫ってみることにした。

 せいの代表的な作品ともいえる「洟をたらした神」は、数え年6歳の「ノボル」が「小松の中枝」にできたこぶを利用してヨーヨーをつくる話だ。

 昭和初期のヨーヨー状況を調べることにした。いわき総合図書館から児童向けのヨーヨーの本を、ヨーヨーの話が出てくるというので、ティーンズ向けの小説『この世界の片隅に』(原作はマンガ)を借りてきた=写真。資料としてはそれくらいしかない。偶然だが、ノボルと『この世界の片隅に』の主人公すずは、同じ大正14年生まれだ。

 ヨーヨーは昭和8(1933)年に大流行する。『この世界の片隅に』も、史実を踏まえた書き方をしている。冒頭、すずが海苔を届けに行く途中、帰りのおみやげになにがいいか思いめぐらす場面がある。「チョコレート、あんぱん、キャラメル……いや、おもちゃのほうがええじゃろか。すみちゃん、ヨーヨーほしがってたし……」「「ヨーヨーは十銭……」

 ところが、ノボルの物語は「昭和5年夏のこと」だ。「ノボルは重たい口で私に二銭のかねをせがんだ。眉(まゆ)根をよせた母の顔には半ば絶望の上眼をつかいながら、ヨーヨーを買いたいという。一斉にはやり出した(以下略)」のだった。昭和8年で10銭、その3年前は2銭――背景には昭和恐慌(昭和5~6年)=デフレ不況があった? それで遊具も値下がりした?

 ヨーヨーは、既に江戸時代には中国から入っていた。はやりすたりを繰り返しながらも、子どもの遊具として定着していた。ノボルの住む好間村では、昭和8年の大ブームとは無関係に、同5年に小ブームがおきていたことになる。

 男の子は、私らもそうだったが、高度経済成長時代の前までは小刀をポケットにしのばせて歩いていた。それで山に生えている木や竹を切って、竹とんぼやこけし、刀をつくった。

「かぞえ年六つ」のこわっぱが、買ってもらえない以上は自分で作るしかないと決めて、ヨーヨーづくりに挑戦する。糸を結んで投げおろしたら、巻き戻されて上に戻ってくる。そのためには、溝も軸もバランスよく削らないといけない。

ヨーヨーをつくりあげたノボルのウデの冴えに、せいは「カミワザ」を感じた。「洟をたらした神」はそうして生まれた。作品には描かれていない時代背景を添えれば、ノボルのすごさがあらためて浮き彫りになる。そんな気がしてきた。

2017年9月22日金曜日

「いばらき時間」

 北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館へ行くと、カミサンは館内の情報コーナーからほかの施設で開催・予定されているチラシ類を持ち帰る。
 なかに、「いばらき時間」というパンフレットがあった。展示会ではなく、茨城県の秋・冬の観光をPRするものだった。表紙と裏表紙が1枚の写真でつながっている=写真。山は一目で筑波山だとわかる。池は? キャプションの「築西市『母子島(はこじま)遊水地』」を手がかりに、ネットで検索した。
 
 築西市は茨城県の西部にある。南は下妻市、北は栃木県真岡市に接する。知らないマチへ行くと(ネットでもそうだが)、必ず「母なる川」を探す。築西市の川は利根川水系の小貝川だった。
 
 小貝川には記憶がある。昭和61(1986)年8月、台風が襲来し、同川流域が激甚被害に遭った。小貝川水害だ。母子島遊水地は、その後の「災害に強いまちづくり」のなかで、集団移転跡地につくられたという。
 
 近景に遊水地、後景に筑波山――。新しい茨城のビューポイント(視点場)ができた。それどころか、筑波山と遊水地と日の出を組み合わせた“山水写真”の定番になった。「いばらき時間」の表紙に使われた写真は、母子島遊水地から見た初日の出だそうだ。
 
 初日の出に限らない。春分の日・夏至・秋分の日・冬至などに、真正面から朝日が、あるいは夕日が差し込む設計になっている社寺がある。

 話は東南アジアに飛ぶが、7年前の2012年、秋分の日近くにカンボジアのアンコールワットを訪れた。秋・春分の日には、三つある尖塔の中央から朝日が昇る、ということだった。あいにく曇雨天続きのために太陽は拝めなかった。
 
 あした(9月23日)は、その秋分の日。そんな「いわき時間」にひたれる聖地がある。たとえば、閼伽井嶽薬師。レイライン(光の道)に立ってなにかを思うのもいいのでは?

2017年9月21日木曜日

塩ゆで落花生

 3%の塩水でゆでるといい、といわれた。晩酌のつまみに塩ゆで落花生が出てきた=写真。殻を取ったピーナッツの硬さしか知らない人間には、枝豆のようなやわらかさが衝撃だった。ほくほくして、ほのかな塩味が効いている。 
 9月10日にいわき市平・本町通りで「三町目ジャンボリー」が開かれた。イタリア料理のスタンツァと同じブースで生木葉ファームの野菜、加茂農産のナメコが売られていた。ナメコを買い、勧められるままに生の落花生を買った。
 
 乾燥して硬い落花生は子どものころから口にしている。ピーナッツは酒のつまみの定番だ。しかし、生をゆでて食べるという発想はなかった。身近に栽培している人がいなかったのが大きい。

昔、小名浜で栽培されていたのは知っていた。いわき市南部で栽培されていることは、「いわき昔野菜」発掘調査のレポートで知った。
 
 いわき市が2012年3月に刊行した『いわき昔野菜図譜 其の弐』の巻頭言に、次のようなことを書いた。文中の「45年前」は「50年前」と読み替えてもらえるとありがたい。
 
「今はどうかわからないが、45年近く前、小名浜の友人宅で自家栽培の『落花生』を食べたことがある。藤原川下流域の沖積地に家があり、家の前には田畑が広がっていた。千葉産ではなく小名浜産であることに大変驚いた。図譜から田人と山田で栽培されていることを知る」

 小名浜の落花生は、塩ゆでではなかったように思う。硬い落花生だったので、つい本場の千葉と比較したのではなかったか。

 いわきの塩ゆで落花生を食べながら、カミサンに胸を張る。「殻が硬くて割れない」というので、簡単な割り方を教えた。殻の先っちょ(とがっている方)を筋に沿って親指と人さし指でつぶすように押す。すると、きれいに殻が二つに割れる。割れなくてもひびが入って割れやすくなる。実は、私も昔、仲間のだれかかに教えられたのだが。

 冬、あるいは正月、よく殻を割って落花生を食べた。今度の正月はいわきの落花生をポリポリもいいかな、なんて思っている。

2017年9月20日水曜日

林道のフレコンバッグ

 いわき市小川町上小川字牛小川地内の夏井川渓谷と、山を越えた同市川前町下桶売字荻地内を結ぶ林道がある。通称・スーパー林道=広域基幹林道上高部線だ。幅員5メートル、延長14キロ。川前の隣・川内村に住む陶芸家を訪ねたり、田村市常葉町の実家へ帰ったりするときに利用する。
 敬老の日(9月18日)、実家からの帰りに都路―川内―川前(スーパー林道)ルートで、夏井川渓谷の隠居に立ち寄った。

 スーパー林道を利用するのは2年半ぶりだ。もう9月も後半。県道から折れて入り込むと、草が茂り、ススキが道の両側から「うらめしやー」をしていた。センターラインはない。が、普通車ならすれ違える1級林道だ。それが、ススキの穂やハギで1台がやっと、というくらいに狭まっているところもある。

 ところがどうだ、さらに奥へ進むと、急に道端からススキやハギが消えた。草が刈り払われてすっきりしている。対向車両がある。人もいる。車も止まっている。人や車を見たのは、荻地区の放射線量が高くて避難の話が出ていた震災直後以来だ。

 それ以上に驚いたのが、ところどころに黒いフレコンバッグが置かれていたことだ=写真。表面に字が書いてある。「H2999」「H29916」は年月日、「0.83」とか「0.86」は線量だろう。

 フレコンバッグの中身は分からない。が、草が刈り払われた道路の状況からして見当はつく。さらに行くと、道端に看板が立っていた。「森林内の整備をしています。」。ていねいに句点「。」が付いている。その下に「10月31日まで」「ふくしま森林再生(県営林)事業上高部地区」などとあった。

 あとで福島県のホームページなどにあたる。森林再生事業では、間伐などの森林整備と、放射性物質の動態に応じた表土流出防止柵などの対策を一体的に行う、とあった。それで、車が止まっていて人がいたのだろう。

 原発事故からおよそ3カ月後の2011年6月8日。実家へ帰るのに、スーパー林道を利用した。線量が高いことは分かっていたので、マスクをし、エアコンもかけず、ときどき車を止めて車内の線量を測った。

 牛小川に最も近い第一の峠で毎時0.722マイクロシーベルト、第二の峠では1.876、第三の峠は1.781、第四の峠は1.747、終点の荻に下ると1.945あった。

それから6年半。自然減衰と物理的減衰で数値が下がっていることは、これまでの全体の傾向からも想像できる。放射線量を忘れているわけではないが、今はめったに線量計は持ち歩かない。

2017年9月19日火曜日

母親の十三回忌

 台風を気にしながらの三連休だった。仕事・レジャー・法事と、毎日、車で出かけた。
 土曜日(9月16日)は、いわきアフターサンシャイン博実行委員会主催の講座を担当した。いわき市三和町で農林業を営みながら文筆活動を続けた草野比佐男さん(1927~2005年)の文学について話した。夕方は雨の予報。傘を用意したが、さいわい天気は持ちこたえた。

 日曜日は朝から雨。夏井川渓谷の隠居で土いじりをするのをあきらめ、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館へ出かけた。
 
 予報だと、台風18号が福島県に最接近するのは月曜日(敬老の日)早朝で、大荒れの心配があった。確かに、未明まで風が吹き荒れた。が、朝を迎えると収まり、太陽が顔を出した。気温が上昇した。
 
 この日、田村市常葉町の実家で母親の十三回忌が行われた。身内だけで墓参り=写真=をし、実家で昼食会を開いたあと解散した。関東圏から骨になって帰り、両親のそばに眠る姉にも線香を手向けた。

 いわきから阿武隈の山の向こうへ、どのルートで行こうか。雨・風の影響で通行止めになっている道路はないか。時間がないので遠回りはしたくない。結局、夏井川渓谷を縫う県道小野四倉線を利用した。ところどころ風に飛ばされた枝葉が路面を覆っているほかは、雨・風の被害は見られなかった。

 法事には、子ども3人、孫2人、子と孫の配偶者3人、ひ孫3人の計11人が参加した。ひ孫たち=姪っ子の子どもたちはすっかり大きくなっていた。長女は17歳だという。用があって来られなかった孫・ひ孫たちもいる。故人から数えると4世代。樹木が枝葉を伸ばすように、いのちは子となり親となって次の世代にリレーされる。

 母親は大正4(1915)年に生まれ、平成17(2005)年に満90歳で亡くなった。生きていれば今年102歳になる。命日は9月22日。今週の金曜日だ。たまたまだが、草野比佐男さんも同じ年の9月22日に満78歳で亡くなっている。

「かつかつに農を支へて老いにけりいかに死ぬとも憤死と思へ」。草野さんは高度経済成長とともに顕在化した農業・農村の荒廃を憂い、国に怒り、憲法九条を守るためにひとりムラで異議申し立てを続けた。詩集『村の女は眠れない』はロングセラーになっている。母親の命日が近づくと、決まって草野比佐男さんのことが思い浮かぶ。ミサイル・警報・頑丈な建物・地下……。草野さんはますます怒っているにちがいない。

2017年9月18日月曜日

雨の日曜日、北茨城へ

 天心記念美術館でルドン?――北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館で「ひとのかたち」展が開かれている(10月15日まで)=写真(チラシ)。フェイスブックに、同館による紹介レポートが載った。ルドンの作品もあると知って、心が動いた。
 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。しかし、きのう(9月17日)の日曜日は台風18号の影響で雨になった。行っても土いじりはできない。

 まだ曇天の朝6時、花火が鳴った。隣の草野地区で市民体育祭が行われた。その合図だったか。会場は草野小学校。雨になれば、校庭から体育館に移して実施する。晴れても降ってもやる。今年(2017年)は市長選、去年は市議選で開催日がずれこんだ。わが神谷(かべや)地区は前倒しをして、8月末の日曜日に実施した。まずまずの天気だった。9月はやはり台風の影響を受けやすい。

 朝食をすませたころ、雨が降り出した。草野の体育祭は体育館か――そんなことをチラリと思いながら、北茨城へ車を走らせた。
 
 わが家から北茨城へはわりと簡単に行ける。国道6号常磐バイパスの終点近くに住んでいる。バイパスに乗れば、いわき市の南端・勿来まで20分ちょっと。それから国道6号を南下し、北茨城市に入って何分もたたずに左折するとすぐ、海食崖の上の天心記念美術館に着く。

 勿来地区に入ると、いつも思うことがある。晴れていても雨が降っていても、なぜか空が明るく感じられる。「関東の空だ」。海岸部は県境の平潟隧道をはさんで関東平野に接続している。今度もJR常磐線勿来駅前を通過するとき、同じ思いがわいた。坂上田村麻呂に征服された蝦夷(えみし)の末裔の血がそうさせるのだろうか。

 さて、ルドンといえば、岩山の陰から一つ目の巨人がぬっと現れ、草地に横たわる裸の妖精を見おろしている「キュクロープス」が思い浮かぶ。怪奇的なのに色合いが多彩なために、どこかユーモアが漂う。

 展示されている作品はモノクロームだ。「『聖アントワーヌの誘惑』第3集より」の石版画(リトグラフ)6点で、闇と接続するように、人とも神ともつかぬ存在のいのちが幻想的に描かれる。フロベールの幻想的な小説『聖アントワーヌの誘惑』の“挿絵”と考えるとわかりやすい。
 
 企画展のポイントは「誰かの像」「視線の行方」「表現されるからだ」の三つ。ルドン作品は「誰かの像」、つまり内面までも表現された肖像を示すコーナーにあった。
 
 写真のチラシでいうと、横に3点並んだ右端のモノクロ作品がそのひとつ。口をぎゅっと結んでなにかをにらみつけている人間の顔、西欧人というより東洋人、なかでも現代日本にいそうな若者の顔――のように見えないこともない。これはこれでリアルな人物像だ。
 
 ルドンを見たあとはいわきに戻り、市立美術館で16日に始まった「現代アートの輝き―多様な人間像―ピカソからウォーホルまで」をのぞこうと思ったが、泉でうろうろしているうちに雨脚が強まった。“日曜美術館”はそれまでにして、家に帰って昼寝をした。

2017年9月17日日曜日

映画「洟をたらした神」

 10月14日に吉野せい(1899~1977年)原作「洟(はな)をたらした神」の上映会&トークショーが開かれる。吉野せい賞創設40周年記念の冠が付く。告知記事が9月5日、いわき民報に載った=写真。会場はいわきPIT。入場料は500円。記事では抜けていたが、定員は200人で、PITへの電話申し込みが好調らしい。
 いわきの「百姓バッパ」が書いた『洟をたらした神』が昭和49(1974)年、弥生書房から出版され、世間に衝撃を与えた。翌年春には大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。その1年後、劇化され、いわきでの2回目の公演益金を基に、同53年、吉野せい賞が創設された。同じ年、神山征二郎監督が映画(最初はテレビドラマ用)を製作している。
 
 吉野せい――といっても、人と作品をわからない市民が増えている。それはそうだ。『洟をたらした神』の出版からもう43年がたつ。映画を通じて昔のいわきの風景を、せいを、せい賞を知ってもらおうということだろう。

 生前のせいを取材したことがある。地元メディアの人間として、最低限の知識は仕入れておこうと、せいの文章を読んできた――それだけのことだが、トークショ―に加われ、ということになった。
 
 上映まで1カ月を切って、PR活動に拍車がかかっている。主催のいわきロケ映画祭実行委員長がFMいわきに出て告知することになった。いわき小劇場のMさんから依頼があったという。Mさんは映画「洟をたらした神」に出演した。どこでロケをしたかも知っている。映画しか知らない若い世代には、貴重な情報だ。
 
 わが家を経由して川内・獏原人村の卵を取り寄せているMさんがいる。やはりいわき小劇場の一員だ。きのう(9月16日)、卵を取りに来たので確かめた。「夫婦かといわれるけど、そうじゃない。お互い迷惑してる」と苦笑した。
 
 上映会には興味を持っていたという。「早く申し込んだ方がいい」というと了解した。申し込みの勢いからすると、抽選になって落選者が出るかもしれない。
 
 若い人たちにまじって動いていると、思わぬ発見がある。学校の後輩の甥っ子が実行委員会に属していた。2カ月に一度の飲み会の仲間でもある。老いては子に従え、若い人にも従え、だ。同級生や同世代の人間とは別のおもしろさがある。

2017年9月16日土曜日

朝ドラ、休むな!

 きのう(9月15日)も朝、突然、テレビの画面が変わり、防災ラジオにスイッチが入った。8月29日は朝6時過ぎ、きのうはそれより1時間遅れの7時過ぎだった。北朝鮮が前回と同じコースでミサイルを発射した。
 防災ラジオの文言が前回とは異なっていた。「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。建物の中、または地下に避難してください」。最後の文章が、前は「頑丈な建物や地下に避難してください」だった。頑丈な建物はどこにある? 地下はどこにある?

 最初の放送から7分後。「ミサイル通過。ミサイル通過。先ほどのミサイルは、北海道地方から太平洋へ通過した模様です。……」。前回は、「先ほど」のあとの文章が「この地域の上空をミサイルが通過した模様です」だった。いわきの上空? 福島県の上空? 漠然としていてよくわからなかった。

 発射から通過まで数分。その間にどんな避難行動をとれ、というのか? 茶の間にいたら、そのままじっとしているしかないではないか? 今回はたまたま小・中学生らの通学時間と重なった。集団登校中なら、近くの家、たとえば「子ども110番の家」に避難する――そういう約束をしておくしかないのか?

 Jアラートに連動して、テレビは急きょ、通常番組から緊急放送(特番)に切り替わった。視聴者に一刻も早く知らせなくてはならない。電波メディアの役目のひとつだから、それはいい。が、通過してしまったあとは、通常番組に戻って、L字型画面の文字情報で対応すればいいのではないか?

 前回も今回も朝ドラの「ひよっこ」が休みになった=写真。すでに緊迫状態は去っていたはずだ。そこが釈然としない。
 
 それに、と思う。ミサイル、ミサイルというけれど、本物なのか? 模擬弾ではないのか? 模擬弾なら「発射」も「発射実験」ではないのか? 「ミサイル模擬弾の発射実験をした」ということであれば、視聴者の受け止め方もずいぶん違う。本物か模擬弾か、そのへんのことも含めて疑問に答えてくれるような伝え方をしてほしいものだ。

2017年9月15日金曜日

押入のふとん

 天日にふとんを干す。太陽の熱で湿気とかび臭さが取れ、熱がこもる。夜、ふんわりしてほのかな温もりのあるふとんに身を横たえたときの、なんともいえない気持ちよさ。このふわふわ・ほかほかは何歳になってもいいものだ。
 それはしかし、だれかが、たとえば母親が干したからだ。ふとんを干してもらったからこその喜びだ。今は? カミサンにいわれてふとん干しを手伝う。

 ふとんにも新旧がある。わが家のふとんは軽い。こちらはめったに干さない。夏井川渓谷の隠居にあるふとんは主に木綿綿。押入の上段にすきまなく入っている。重い。湿気を含むとさらに重くなる。

 9月4~5日に隠居でミニ同級会が開かれた。前の日、天日に干したふとんを居間にたたんで置いた。どうせ雑魚寝になることだし、押入に入れてもふくらんでいて入りきらないからだ。
 
 5日の朝は、目覚めると元のようにふとんがたたんであった。台所もきれいになっていた。単身赴任経験者が中心になって片付けたのだろう。回を重ねるごとに片付けが上手になっている。

 10日の日曜日、早朝。車で隠居に向かいながら、カミサンにいわれる。「台所もふとんも片付いてるんでしょうね」。「ああ……」といったあとはダンマリを決め込む。ふとんをちゃんと押入にしまったわけではない。

 隠居に着くと、すぐ土いじりを始めた。カミサンはまたふとんを天日に干した。この日はほかにも用事があって、午前11時には街に戻らないといけない。

 土いじりを終えて居間に戻ると、三つ折りにした敷きぶとんが座卓に置いてある。押入にふとんを押し込んだが、最後の1枚が入らない、背の高い人、よろしく、という合図だ。すき間に無理やり押し込んだ=写真。

 そういえば――。6年半前、ふとんはもちろん、普通の洗濯物も外に干せなかった。コインランドリーがにぎわった。今もにぎわっている。原発事故の心理的影響が固着したか、ただの時間節約か。
 
 事故の後遺症でいえば、車の燃料計の針が真ん中を指すと、すぐ満タンにする。ガソリンがなくて避難に二の足を踏んだ、あのときの不安・焦燥はもうこりごり――そんな事態が再び起きないことを祈りながらも、万一に備える自分がいる。

2017年9月14日木曜日

マメダンゴ観察記

 梅雨期に入ると毎年、夏井川渓谷の隠居の庭にマメダンゴ(キノコのツチグリ幼菌)が発生する。内部が白いうちは食べられる。
 6月中旬、チェックを始めると、球体が六裂し、中央にホオズキのような袋を付けたツチグリの残骸があった。もう発生した? いや、前年の残骸ではないのか。地面をなめるように見ると、幼菌発生の兆候はどこにもなかった。

 6月25日。全面除染で砂浜のように白くなった地面から、茶色い頭の一部(マッチ棒の軸先大~人間の小指大)がのぞいていた。右手人さし指でグイッとやると、転がり出た。周囲の地中にも同じ球体の感触がある。そちらもまさぐると、マメダンゴが現れた。最大2センチほどの幼菌が20個ほど採れた。二つに割ると、全部白い。炊き込みご飯にして食べた。

 一回食べたからもういいや。あとは成菌になって裂開し、胞子を放出するまでを写真で記録しよう――。珍しく食欲を封印した。時系列でマメダンゴの変化を簡単に記す。

【7月】2日=まんべんなく、ではなくて、スポット的にマメダンゴが頭を出す。その数ざっと50個。次の週は、変化なし。16日=白っぽい表面の色が茶黒くなる。23日=裂開を始めた個体がひとつ。

【8月】6日=表面が緑灰色に変化した個体があった。カビにやられたか。13日=全体を地上に現した個体がある。パチンコ玉大だ。24日=試しに大きいものを踏むと、「プシュッ」とかすかな音がして裂けた。

【9月】3日=表面にひびの入った個体がいくつか現れる。ひびは十字状、あるいはベンツのエンブレム似とさまざまだ。コロンと地上に現れた個体を二つに割ると、中がチョコレート色だった=写真。胞子の放出まで時間の問題だ。10日=裂開が近そうな個体が増える。

 隠居へ行くたびに写真を撮ってわかったのだが、ツチグリは、幼菌が地中で形成され始め、地上に出て裂開し、胞子を放出するまでに時間がかかる。収穫せずに放置しておくと、かなりの数の幼菌が地上に現れる。6月下旬~7月上旬の旬の時期に2~3回は試食しても大丈夫かもしれない。ただし、ヒトデにホオズキの実をくっつけたような新しい残骸にはまだお目にかかっていない。
               *
 11日に少し先走って告知した毎日新聞の連載「復興断絶・東日本大震災から6年半 つながりたい」ですが、きょう(9月14日)掲載になりました。

2017年9月13日水曜日

9秒98の余韻

 日本スポーツ史というより、日本史の画期をなす“事件”という思いが強い。今も勝手に余韻にひたっている。新聞記事=写真=を読み返し、テレビの番組を欠かさず見る。
 東洋大の桐生祥秀(よしひで)選手(21)が陸上男子100メートルで、日本人で初めて「10秒の壁」を破り、9秒98を出した。ニュースに接した瞬間、世の中が花畑になったように感じた。

 トップアスリートにとっては、100メートル「10秒の壁」はわずか数十センチでしかない。日本人にはこの数十センチの壁が厚かった。

 桐生選手は高校3年で10秒01を出し、一躍脚光を浴びた。大学入学後は、しかし低迷した。ライバルが次々に現れた。大学最後のレース(日本学生対校選手権=インカレ)で目標の大記録が生まれた。

 私事だが、開校して3年目の平(現・福島)高専に入った。バレーボール部から陸上部に転じ、主に走り幅跳びと400メートル、1600メートルリレーを練習した。100メートル10秒台が一流だとしたら、二流の11秒台にも届かない、三流のランナーだった。

 入学した年に東京オリンピックが開かれた。そのころ、日本の100メートルランナーといえば飯島秀雄。陸上部に入ってからは、同時代の飯島(10秒1)、歴史的には吉岡隆徳(10秒3)があこがれになった。飯島は「ロケットスタート」、吉岡は「暁の超特急」の異名をとった。当時はまだ手動計時だった。飯島の10秒1も、電気計時なら10秒10~19の間のどれか、ということになる。
 
 それから半世紀。福島県内の高校生も100メートルを10秒台で駆け抜けるようになった。
 
 元三流ランナーがひそかに期待していることがある。これも私事だが、小2の孫が、素質としては三流を越えているように思えるのだ。保育園でのかけっこのとき、陸上選手のように前傾して飛び出し、腕も前後によく振れていた。小学校に入った今は、学年で一番か二番だとか。
 
 桐生選手の9秒98は、きっと陸上短距離界のすそ野を広げるにちがいない。今は2歳上の兄と水泳・サッカーを楽しんでいる孫だが、じいバカとしてはいずれ陸上競技に進んでほしい――そう思っている。

2017年9月12日火曜日

ツルボとヒガンバナとアレチウリ

 夏井川の堤防を通るのは何日ぶりだろう。このところせわしく過ごしているので、街へ出かけても国道6号をまっすぐ帰る。きのう(9月11日)、図書館へ行った帰りに“寄り道”をした。遡上するサケを捕獲するヤナが川に架かっていた。堤防にはツルボ(スルボ)とヒガンバナの花=写真。もうそんな時期になったのだ。
 同じ川の堤防なのに、草がきれいに刈り払われたところと、茂ったところがある。河川管理者と契約している行政区は、堤防の野焼き(早春)、定期的な草刈りを実施する。草が茂ったままのところは遅れているだけか。

 この時期、堤防が“虎刈り”になると、草の茂ったところが一面アレチウリで覆われる。それに気づいたのは2008年秋だった。

 アレチウリは北米原産のつる性植物で、日本では1952年に静岡で発見されたのが最初だそうだ。特に河川敷で分布が広がっている。外来生物法で規制されている侵略的な植物だ。

 在来のつる性植物はクズやヤブガラシ。アレチウリはそれさえも覆ってしまう。覆われた植物は日光を遮断され、やがて枯死する。アレチウリの怖さがここにある。

 根っこを抜くのが一番とはいえ、侵略された面積がハンパではない。次善の策として、結実前に刈り払う。せめてこれを繰り返していれば、アレチウリが増えることはないだろう。堤防の草刈りを引き受けている行政区には頑張ってもらうしかない。

 草が刈り払われた堤防の土手には、点々とヒガンバナの赤い色。アレチウリが覆う土手には、赤い色はない。

 夏の天候不順からか、今年(2017年)は、8月下旬にはもうヒガンバナの花が見られるようになった。フェイスブックで知った。夏井川の堤防が真っ赤に染まるのも時間の問題だろう。すると、キンモクセイの花も咲く。いや、香り出したというので、きのう、写真がフェイスブックにアップされていた。あと1カ月もすると、ハクチョウが夏井川に渡って来る。

2017年9月11日月曜日

6年半がたった

 家の前の歩道のすき間からアサガオが芽を出した。カミサンが支柱を立てたらつるが絡まり、根元から花をつけるようになった=写真。月並みな言葉でいえば、「ど根性アサガオ」だ。
 アサガオの奥に写っている建物は、道路向かいの民家の物置。前は土蔵だった。2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で傾き、1カ月後の巨大余震でさらにダメージを受けた。

 真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。応急的に丸太3本で支えられていたが、間もなく解体され、跡に今風の物置が建てられた。

 きょう(9月11日)は東日本大震災の月命日。あれから6年半がたつ。日々の暮らしに追われている人間は、メディアの記事で“節目”を知る。8月になると、戦争と平和を考える記事が多くなる。カレンダー・ジャーナリズムと揶揄されるが、それもメディアの機能のひとつには違いない。6年半の節目の日――も、メディアの取材で意識し、防災への思いを新たにした。

 8月中旬、カミサンに毎日新聞福島支局の記者から電話が入った。6年半の節目に合わせた連載を企画している。ついては取材をしたい、ということだった。初めて国内支援に入ったシャプラニール=市民による海外協力の会などと連携して、家(米屋)が「まちの交流サロン・まざり~な」になった。その経緯と現在を書きたいということなのだろう。

 月遅れ盆明けにやって来たのは、入社2年目の女性記者。以来、デスクからいろいろ指摘され、福島から車で通うこと4~5回に及んだ。写真撮影にはわざわざ東京本社からカメラマンがやって来た。

 その連載「復興断絶・東日本大震災6年半 つながりたい」が先週金曜日(9月8日)、社会面で始まった。掲載予定日は12日と聞いた(注・14日に掲載されました)。

 震災から6年半のきょうは?新聞休刊日だ。きのう、いわき市長選の投開票が行われ、現職が圧勝した。それも紙媒体で詳しく知りたかったのだが……、じれったい。夕方のいわき民報を待つしかない。

 それはさておき、毎日新聞の「復興断絶」の狙いはどこにあるのか。連載初回の末尾に「喪失から再生に向かっている人々のこころに、刻まれる深い傷。大震災から11日で6年半。ともに歩むための手掛かりを探した」とある。赤ペンを持ったつもりで、新米記者の文章を採点してやろうと思っている。

2017年9月10日日曜日

吉野せいを朗読と邦楽器で

 いわきの「百姓バッパ」、吉野せい(1899~1977年)が書いた短編集『洟(はな)をたらした神』が昭和50(1975)年、大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。
 宝生あやこの劇団手織座がこの作品を劇にして平で初演したのが翌51年7月。さらに翌年11月、せいが亡くなった直後に、せいの生まれ故郷・小名浜で追善公演が行われる。このとき、主催者から益金が市に寄付され、市はこれを基に、文学の新しい才能を顕彰する「吉野せい賞」を創設した。今年(2017年)で40回を迎える。

 吉野せい賞40周年を記念して、きのう(9月9日)、いわき芸術文化交流館アリオス音楽小ホールで、朗読と邦楽器による「吉野せいの世界」が開かれた=写真(リーフレット)。第1部は磐城桜が丘高校放送局員による作品朗読、第2部ではいわき三曲連盟と邦楽ユニット「びかむ・トリオ」の演奏が行われた。

 子どもがヨーヨーを自作する「洟をたらした神」と、9カ月で亡くなった次女を鎮魂する「梨花」が朗読された。それに先立ち、「吉野せいの生涯について」と題する拙文が紹介された。原稿を提出したあと、2~3カ所直したいところが出たが、高校生の朗読を聴くとそうは気にならなかった。逆に、思ってもいなかったところで浮いた感じの言葉があった。ま、「内部」を「内側」にする程度のことだが。

 主催したのは同賞運営委員会といわき市。運営委員長は理科系の教授だが、弓道でも知られた存在だ。邦楽の世界にも通じている。奥さんは三味線を、本人は尺八を演奏する。あいさつを聞く限りでは、ピコ太郎がペンとパイナップルとアップルをくっつけて世界に衝撃を与えたように、委員長もそのネットワークを生かして文学と朗読・邦楽の相乗効果、俳句でいう「二物衝撃」を狙ったようだ。

 委員長と尺八でつながるユニット「びかむ・トリオ」が、この日のために創作した「固い木の実」を演奏した。『洟をたらした神』のあとがきで、せいが言っている。

「ここに収めた十六篇のものは、その時々の自分ら及び近隣の思い出せる貧乏百姓たちの生活の真実のみです。口中に渋い後味だけしか残らないような固い木の実そっくりの魅力のないものでも、底辺に生き抜いた人間のしんじつの味、にじみ出ようとしているその微かな酸味の香りが仄かでいい、漂うていてくれたらと思います」

 この「固い木の実」からインスピレーションを得たのだろう。『洟をたらした神』は、向き合えば向き合うほどなにかを放射してくる。私も自分の“総合学習”の教材として、『洟をたらした神』を座右に置いている。そのときどきに発見がある。今度の邦楽との融合もそのひとつだった。

2017年9月9日土曜日

トウガラシはまずまず

 8月中旬からトウガラシが赤く色づきはじめ、9月に入って収穫のピークを迎えた=写真。今年(2017年)は2株を植えた。
 キュウリも2株ずつ、2回に分けて植えた。いい具合につるが伸びてきたとき、1株の整枝に失敗した(根元で茎を切断)。それを補うのに、「夏キュウリ」のポット苗をふたつ植えた。

 7月。先に植えたキュウリが次々に実をつけた。同じころ、あちこちからキュウリが届いた。食べきれないので、糠漬けのほかに塩漬けにした。これからは夏キュウリだ、という段になって、天候不順が続いた。ほとんど収穫がないまま、葉がしおれて枯れた。

 ゆうべ(9月8日)、初めて古漬けを細かく切り、水に浸けて塩抜きをした。糠漬けとは違った、パリパリした歯ごたえ。懐かしい味だ。
 
 不作だったキュウリに比べると、トウガラシはまずまずだ。花が咲いてわかったのだが、小さく上向きに実を付けるタイプではない。次々に細く長く垂れ下がる。赤く色づいたのを収穫し、陰干しにした。形状からして、前に栽培してへきえきした激辛では、と思ったが、カミサンが料理に使ったのを口にすると、脳天に突き抜けるような辛さではなかった。
 
 激辛は用途が限られる。キュウリの塩漬けに風味と抗菌を兼ねて入れたら、キュウリからしみ出した水で指がヒリヒリした。キュウリも辛かった。飲み仲間に話すと、「鷹の爪(タカノツメ)ではなくて龍の爪(リュウノツメ)」とうまいことを言う。
 
 トウガラシは冬の白菜漬けのために栽培している。キュウリの塩漬け同様、風味と抗菌用だ。この夏はキュウリの塩漬けにも青トウガラシを入れた。この冬は、トウガラシに関しては心配がない――と書いて、もう冬のことを考える時期になったのだ、という感慨に襲われた。

2017年9月8日金曜日

ああ台湾

 還暦を機に始まった同級生による“海外修学旅行”が、今年(2017年)も行われる。10月中旬、三回目の台湾へ――といいたいところだが、断れない用と重なって参加できなくなった。
 帰国する日は10月14日夜。同じ日、いわき市で作家吉野せい原作の「洟をたらした神」上映会&トークショーが開かれる。神山征二郎監督を囲むトークショーに呼ばれている。初夏の段階では、1週間のずれがある、大丈夫と踏んでいたのだが。時期的にイベントが集中し、監督のスケジュールも考慮して、その日に絞り込まれたのだろう。
 
 幹事が日程を一日前倒しして、13日帰国の線で旅行会社と交渉したが、修学旅行シーズン、変更が難しい。みやげ話をどっさり持ち帰るから――ということになった。
 
 今週の月~火(9月4~5日)、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会が開かれた。参加した7人のうち4人、ほかに3人が台湾旅行に参加する。
 
 初回(2010年9月)は台風の直撃を受けて台北近辺を巡って終わった。二度目(2015年2月)は新幹線を利用して高雄=写真=まで足を延ばした。三度目は台北から高雄へ一気に南下したあと、東海岸を北上する。「おまえが提案したのに」。ほんとに申し訳ないことだ。
 
 ゆうべ、一杯やりながら5月下旬に届いた「台湾周遊」表をながめる。3泊4日で、台東~花蓮~基隆と東海岸を列車で移動する。泊まるのは高雄・花蓮・台北。二度目の故宮博物院見学が入っている。表にはないが、基隆近くの九分(実際は人偏に分)も再訪する。
 
 BSを含むテレビで台湾が放送されると、たいていは見る。台湾は行けば行くほど好きになる。東海岸の列車の旅も前にBSで見て、ぜひ「台湾一周」の旅を完結したいと思っていたのだが……。ああ台湾。台湾の味と人情。急に小籠包をいわきで食べたくなった。

2017年9月7日木曜日

いわむらかずお絵本原画展

 日曜日(9月3日)の午後、夏井川渓谷の隠居からの帰り、いわき市立草野心平記念文学館へ足を運んだ。夏の企画「いわむらかずお絵本原画展」が9月24日まで開かれている。ところが、どう勘違いしたのか、カミサンが「きょうが最終日だから」と文学館行きを催促した。しかたない。予定を変更して立ち寄ることにした。
 午後3時半過ぎに着くと、駐車場がほぼ満パイだった。こんなことはめったにない。なにかイベントがあったのか。館内正面のアトリウムロビーで東京電機大学グリークラブのコンサートが、午後3時から1時間の予定で開かれていた=写真。アトリウムロビーが人で埋まっているのを見るのは久しぶりだ。迫力のある若者の歌声に聞きほれた。

 コンサートが終わって、絵本原画が飾られている企画展示室をのぞく。森で暮らす三世代の野ネズミの大家族を中心に、植物やキノコたちが地べたに近い視線で描かれている。ときどき隠居の庭や、対岸の森で地べたをなめるように観察する身には、親しく懐かしい世界だ。

 いわむらかずお(1939年~)の代表作は「14ひきのシリーズ」だという。「14ひき」は野ネズミの大家族(おとうさん、おかあさん、おじいさん、おばあさん、そして10匹の子どもたち)のことだろう。フランス、ドイツ、台湾などでも翻訳・出版されている国際的な絵本作家だとは知らなかった。
 
 それよりなにより、「14ひきのシリーズ」の『14ひきのあきまつり』にはキノコがたくさん登場する。カワラタケ、クリタケ、アイタケ、ベニテングタケ、シシタケ……。森では「キノコのまつり」が行われていた。キノコを担ぐキノコたち、それを見物するキノコたち、そのまつりに遭遇した野ネズミたち。どこにどんなキノコが描かれているのか、探す楽しみもある。つい絵本を買ってしまった。

 いわむらかずおの絵本は手に取ったかもしれないが、作者名も作品名も記憶には残っていなかった。カミサンの勘違いがなかったら、絵本原画展はたぶん見ないで終わった。
 
 文学館のホームページには、「家族みんなで取り囲む、ささやかでも温もりに満ちた食卓は、私たちに大切な何かを気づかせてくれる」とある。『14ひきのあきまつり』も、食卓を囲んで秋の森の恵みをいただくシーンで終わっている。
 
 作者は雑木林を歩くのを無上の喜びとしているようだ。栃木県益子町在住で畑を耕しながら創作活動を続けているというから、野ネズミもキノコも身近な存在なのだろう。そこから独自の絵本世界が生まれた。

2017年9月6日水曜日

ミニ同級会

 夏井川渓谷の隠居でおととい(9月4日)の夜、ミニ同級会を開いた=写真。7人が集まった。いつものようにカツオの刺し身を――ともくろんだが、台風の影響で漁船が出漁できず、マグロやタコの刺し身の盛り合わせにとどまった。タコ好きがいて助かった。
 今年(2017年)7月、千島列島最北端・シュムシュ(占守)島に慰霊の旅をした同級生が参加した。終戦時、父親が樺太のある村の村長をしていたという同級生も加わった。去年、その同級生と私、ほかに2人の計4人でサハリン(樺太)を旅した。「北の戦争」を知るいい機会になった。

 占守島では――。ポツダム宣言受諾後の昭和20(1945)年8月18日未明、カムチャツカ半島からソ連軍が侵攻した。同級生の父親は戦車兵として戦い、生還した。

 以来、72年。同級生は父親の遺志を継いで慰霊の旅に参加した。そのときの短歌。「砲塔は確かににらむ敵上陸地 七十二年何を思いつ」。砲塔とは、島に放置されている赤さびた戦車の砲塔のことだ。散文的な説明より、短歌の方が的確に同級生の思いを伝える。臨場感もある。

 間もなく古稀。集まれば決まって年金、健康、夫婦間の話になる。今年はさらにシュムシュ、サハリンの話で盛り上がった。酒が入るほどに会話はなめらかになる。なめらかすぎて、雑魚寝から一夜明けると、「メガネがない」「(入れ)歯がない」騒ぎになった。どうやって布団を敷いたのか記憶がない――何人かがそうだった。
 
 体力が落ちているせいか、早い時間にお開きになった。「みんなに迷惑をかけないように」。奥さんにくぎを刺されてきた同級生も、正体をなくすことはなかった。
 
 週明け月曜日の飲み会は初めてだ。世の中が生産活動を始めたのに、われわれは消費活動をしている。いささか罪深さを感じないではなかった。とはいえ、まだ現役の人間がいる。朝6時に起きると2人の姿が消えていた。私も旧交の余韻をエネルギーに、たまった用事をこなすとしよう。

2017年9月4日月曜日

台風とカツオ

 夏井川渓谷の隠居が年に一回、ミニ同級会の宿になる。隠居の名前にちなんで「無量庵の集い」と呼び習わしている。今年(2017年)はきょう(9月4日)開く。
 いわき市長選がきのう告示された。10日に投・開票される。そのため、「9月第一日曜開催」と決まっている地区の体育祭が前倒しされた。去年も市議選があって前倒しになった。

 9月3日開催の場合、雨で1週間順延になると、市長選の投票日と重なる。体育祭の会場は小学校の校庭、体育館は投票所――そんなことはできない。雨天順延も考えて、1週間早い8月27日の開催になった。

 そこへ、同級生から9月2~3日・無量庵の集い開催の打診があった。3日は雨天順延の体育祭の可能性あり、9月4~5日ならOK――ということで、今までにない月~火の開催になった。
 
 参加するのはいわき勢3人のほか、郡山、東京、神奈川の4人。曇雨天続きの夏だった。せめて乾いたふとんに寝てもらおう――快晴のきのう、隠居へ出かけてふとんその他の寝具を天日に干した=写真。
 
 今年は天日干しの寝具が最高の“ごちそう”だ。というのも、いわきのカツ刺し(カツオの刺し身)がきょうは手に入らないかもしれない。
 
 台風15号が太平洋を北上し、カツオ漁船が出漁を見合わせた。もしかしたら長崎県からカツオが入ってくるかも――と、行きつけの魚屋の若だんな。入荷しても、おろしてみないとわからない、という。「前に何度もカツ刺しを食べているメンバーでしょ、味が落ちたものを出しては……」。判断はプロに任せて、とりあえず刺し身の盛り合わせ大皿二つを頼んだ。
 
 これから細かい買い物をし、刺し身を受け取って、午後3時過ぎには隠居で仲間の到着を待つ。というわけで、あしたのブログは休みます。

2017年9月3日日曜日

リスが路上で死んでいた

 いわき市小川町高崎地内。平地の市街から夏井川渓谷へと駆け上がる手前、左手対岸に夏井川第三発電所が見えてくる。右側は崖。前方に磐越東線のトンネルともう一つ先の崖をつなぐ高崎桟道橋(空中鉄橋)が目に入る=写真。
 ここだけ道路(県道小野四倉線)が直線的なせいか、スピードを出す車が多い。で、輪禍に遭ったいきものが路上に横たわっていることがある。先日はリスが犠牲になった。イタチか、イタチにしては小さいな――いったん通り過ぎたあと、バックして確かめたら、体長と同じくらいに尾が長かった。

 7年前には同じ場所でタヌキの死骸を見た。早朝、カラスが3羽、死骸に群がっていたところを見ると、夜間、車にはねられたらしい。いきものがはねられやすいスポットがあるようだ。

 リスにはめったにお目にかかれない。渓谷のヤマベ沢で日中、里山の石森山で早朝、目撃したことがある。いずれもすばやく前方の道を横切って行った。何カ月か前の早朝、わが家と隣家の間からリスが歩道に現れたことがある。ここは街なかだぞ、一瞬目を疑ったが、イノシシやキツネが闊歩する地域になったのだ、リスが出てもおかしくないか――と納得した。

 高崎のリスは、未明に森から出てきて、道端でうろうろしているところをはねられたのかもしれない。以前は、対岸の発電所に直結する木橋があった。今は道路を横切っても行き場がない。眼下に川があるだけだ。車に無警戒の若いリスだったか。

 ハクビシン、タヌキ、ノウサギ、フクロウ、テン、イタチ、コジュケイ、ヤマカガシ、キジ雌、カルガモ……。これまで路上で見てきた野生動物の死骸だ。そのリストに、新たにリスが加わった。写真は撮ったのだが、頭部の損傷がひどい。ブログに載せるのはやめた。

2017年9月2日土曜日

まかぬ種から生えた

 夏井川渓谷にある隠居の庭で辛み大根を栽培している。月遅れ盆には種をまく、というのはおととし(2015年)までのこと。今年も種をまかずに発芽させることにした。結論からいうと、大成功。見事な双葉のじゅうたんができた=写真。
 辛み大根には自分で再生する力がある。手抜きをしたために辛み大根の野性に気づいた。おととし、去年、そして今年と、手抜きの度合いを高めてみたら、ちゃんと野性の力でこたえてくれた。

 越冬した辛み大根は、春に花が咲き、実(さや)がなる。さやには種が眠っている。おととしまではさやを収穫・保存し、月遅れ盆が来たらさやを割って赤い種を取り出し、ていねいにも畝を耕して点まきにした。すると、細くて長い大根ができた。辛み大根は食べてもまずい。辛さを生かして大根おろしに利用する。細長(ほそなが)では大根おろしにもならない。土を耕したのが裏目に出た。
 
 去年もさやを収穫した。が、取り落としたさやがあったのか、盆上がりに種をまこうとしたら、すでに10株ばかり双葉が出ていた。さやのままでも芽を出すのだ! 種をまくのをやめて、双葉の生長を見守った。11月に直径5センチ、長さ15センチほどの「ずんぐりむっくり」型を初収穫した。師走に入るとさらに肥大した。大根おろしにすると辛かった。これをつくりたかったのだ。
 
 で、今年はさらに手抜きをして、さやをそのままにしておいた。ほっとけば、そのスペース全体が辛み大根の双葉でいっぱいになるのではないか。お盆上がりに立ち枯れた茎を引っこ抜き、草を刈り払って日光が当たるようにした。それから半月。思惑どおりに双葉が続々とあらわれた。

 人間が手を加えるとすれば、草刈り、追肥・石灰散布、間引きくらい。今年は連作を避けるため、芽生えた双葉を10株ほど別の場所に移し替えてみようかと思っている。それがうまくいけば、いわゆる自然農法のひとつ、不耕起栽培が実現する。

 体力が落ちて、鍬より「畑おこすべ~」(スコップとスキを合体させたようなもので、握りその他はアルミ製、5本ある刃は鉄製で焼きが入っている。足で刃を突き刺し、グイッとやる)を使うことが多くなった人間には、手のかからない辛み大根は特にいとおしい。ポット苗にしてほしい人に分けようか、いやいや売ろうか――なんて考えたが、やめた。
 
 もとは会津産の辛み大根だ。震災翌年の2012年夏。豊間で津波被害に遭い、内陸部の借り上げ住宅で家庭菜園に精を出す知人から送られてきた。その後、隠居の庭が全面除染され、一時、栽培を休んだ。

 栽培を再開してからは、三春ネギ同様、辛み大根も「自産自消」でいこうと決めた。「自産」といっても、実際は辛み大根そのものの再生力を利用するだけ。山形県鶴岡市の「温海かぶ」は焼き畑農業で生産されている。山の斜面を焼いて、灰が熱いうちに種をまく。それだけだという。草こそ焼かないが、辛み大根の栽培もそれに近い。いよいよ辛み大根がおもしろくなってきた。

2017年9月1日金曜日

“記者”の訃報

 きょうから9月。予定がびっしり。次から次に咲く庭のフヨウ=写真=を見て気分転換をするしかない――。そんななかでの、8月終わりの訃報だった。
 おととい(8月30日)の晩、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフから電話が入った。いわき市出身のNHK解説委員早川信夫さんが29日午後、亡くなったという。ほどなく、元スタッフからもフェイスブックを介して連絡がきた。享年63。脳出血による突然の死だった。
 
 早川さんは、東日本大震災が発生するとすぐ、「3・11被災者支援研究会」を立ち上げた。福島県では地震・津波のほかに原発事故が起きた。原発のある双葉郡から住民が遠隔地に避難を余儀なくされた。なかでも、南隣のいわき市には避難者が集中した。ふるさと・いわきへ、避難先へ足を運び、避難者の取材を重ねた。
 
 3・11後、シャプラニールは初めて国内支援に入り、いわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営する。さらに他団体と連携して、まちの交流サロン「まざり~な」事業を展開した。
 
 昔からシャプラニールとかかわっていたので、「ぶらっと」の手伝いをし、「まざり~な」も引き受けた(わが家は米屋、カミサンが店を仕切っている)。早川さんは応急仮設住宅のほかに、「ぶらっと」やわが家などを取材した。
 
 カミサンは高校時代、早川さんのお父上(数学教師)に習った。数学はさっぱりわからなかった――そんな思い出を語った。早川さんは苦笑するしかなかった。
 
 早川さんの担当は教育と文化。10年前には「ダイヤルこだま」という、いわきの子どもの相談を受ける元教師のボランティア団体で講演している。タイトルは「こどもたちの心を受け止めるために」。その講演録を読んだ。前置きの部分でこんなことを言っていた。

「週刊こどもニュース」は、池上彰さんが「育ての親」だとすると、早川さんが「生みの親」だったという。企画・創設者が早川さんだった。

 それと、もうひとつ。解説委員には「書斎派」と「現場派」がいる。早川さんは現場派。「私はできるだけ現場に足を運んでいろんな人たちの話を聞き、そうした中で、いろんな人たちの声を聞く中で、バランスよく人に情報を伝えたい」ということを心がけていた。
 
 解説委員になっても、一記者の気持ちで走り回っていた。それが、しかし早い死につながったか。人の話にじっくり耳を傾ける温顔が思い浮かぶ。きょう(9月1日)が通夜、あしたが告別式だという。ふるさと・いわきから、合掌。