2017年9月24日日曜日

失われた故郷

「9月5日の貴ブログが更新されないのでとても驚きました。ミニ同級会だったそうで安心しました」。心配してくれる人がいることに驚き、恐縮した。
 ミニ同級会で樺太(サハリン)や占守(シュムシュ)島の話になった。ブログを休んだ翌日、そのことを書いた。後日、野鳥の会いわき支部の前事務局長峠順治さんから封書が届いた。
 
 岐阜県高山市で発行されている総合文芸誌「文苑ひだ」第10号(2016年1月刊)が同封されていた。「一九四五年樺太上敷香(しすか)逃避行 失われた故郷」が載っている=写真。田之下徳重さんという人が書いた。創刊号に載った田之下さんの詩「名を忘れられた教師」のコピーも入っていた。樺太関連資料としてどうぞ、ということだろう。

 田之下さんは北緯50度の国境に接する町・敷香で生まれ育った。手記には、終戦直前、ソ連軍が侵攻してきたこと、昭和22年に引き揚げが開始されたこと、平成7年に「日ソ平和の旅」で故郷を訪ねたこと、終戦直後に生き別れた親友とのちに再会したことなどがつづられている。

 親友の家族はソ連侵攻後の昭和20年8月22日、港町の大泊まで南下し、引揚船「小笠原丸」に乗るはずだったが、たまたま親友が対空機関砲のある「第二号新興丸」を見て、そちらへの乗船を希望したら、通った。

 小笠原丸は稚内経由で小樽へ向かっているとき、“国籍不明”の潜水艦に撃沈された。第二号新興丸も同じように攻撃されて大破したが、持ちこたえて留萌港に入港した。小笠原丸に乗っていたら命はなかった。このとき、「泰東丸」も撃沈された。合わせて1700人余が犠牲になった。これを「三船殉難事件」という。

 同じように命拾いした少年がいる。のちの横綱大鵬だ。やはり敷香で生まれ、5歳のときに小笠原丸に乗って引き揚げたが、母親が船酔いがひどくなり、稚内で途中下船したのだった。

 けさ、たまたまだがこのブログを仕上げているときに、6時15分からNHKで「三船殉難事件」を取り上げた番組が放送された。<目撃!にっぽん――執念~三船遭難事件から72年~>で、母親を失った男性が事件の解明を願って活動を続け、亡くなるまでを追った。事件を風化させてはならない。「一人でも多くの日本人に知っていただきたい」。病身からしぼりだす言葉に胸が熱くなった。

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