いろいろ本は買って読んできた。今も図書館から借りて読んでいる。いつのころからか、手にする本は地域出版物が主になった。人間や世界を知るために「読む」より、いわきの今と昔を知るために「調べる」ことが多くなったからだと思う。
狭くてもいい、深く知りたい――ローカルな思考を鍛えるには、できるだけ多く地元の先人の本に当たる。それが近道、いや地道な楽しみだ。
大正~昭和初期のいわきの文学(詩)を調べている。大正元(1912)年、日本聖公会の牧師・詩人山村暮鳥が磐城平に着任した。5年余りの短期間だったが、キリスト教と文学の布教をした。文学に関しては、暮鳥本人の、そして暮鳥のまいた種が芽を出し、花開いた時期でもある。
少し前、拙ブログで暮鳥ゆかりの平聖ミカエル会衆はライトの弟子のアントニン・レーモンドが設計し、奥さんのノエミが十字架その他、建物内外の装飾・デザインに協力したのではないかと書いた。すると、埼玉の知人から日本聖公会東北教区『小名浜聖テモテ教会・平聖ミカエル会衆80年史』(1982年3月刊)のコピーが届いた。メールがきて、ぜひ全文コピーを、と頼んだのだった。
なかに、「山村暮鳥伝道師のことども」という文がある=写真。黒沢隆世さんという人が書いた。
「平第一尋常高等小学校の一年生ぐらいで、教会の近くに住んでおり、近所の子供たちと一緒に教会の日曜学校に通っておった。若い女の先生がオルガンをひいて讃美歌をうたい、お祈りをしたあとで奇麗な絵ハガキを貰うのがとても嬉しかった。(中略)その女の先生が山村暮鳥夫人であったことも知らず、まして伝道師が詩人山村暮鳥なることなど知るよしもなかった」
月遅れ盆にカミサンの実家へ行ったとき、故義父の書棚に高木稲水著『或教師の覚え書』(千秋社、1979年)があるのが目に留まった。パラパラやっていたら、暮鳥の思い出の記があった。旧制中学校5年生のとき、高木さんは友人たちと教会に暮鳥を訪ねた。
「どんな話を聞いたかはほとんど忘れてしまったが、『詩篇のエホバということばを君となおすと立派な恋愛詩になる』といったことばだけが今でも印象に残っておる。キリスト教というものを真面目に考えておった私は、その時不謹慎なことばをはく牧師だなと思った」
「神よ! 鹿が谷川を慕いあえぐように/わが魂もあなたを慕いあえぐ/わが魂は渇いているように神を思い/いける神を慕う/いつ私は行って神のみ顔を/見ることができるだろうか」。高木さんは「詩篇42」を例示して、「これはそのまま男が女に対する愛情を吐露した詩に似ておるではなかろうか」と述べる。
なるほど、暮鳥は型破りな牧師だった。小学生や中学生に暮鳥がどう接したか、小学生や中学生が暮鳥を、教会をどう見ていたか、なんとなく目に浮かぶようなエピソードではある。
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