2019年1月11日金曜日

小名浜尋常小学校のクラス編成

 きのう(1月10日)の続き――。明治から大正に替わる110年ほど前の、小名浜尋常小学校の話を、『荒波を越えて―野崎貞行回顧録』から抜粋してみる(引用文には適宜、「、」を入れた)。
「小学校は、最初は4年生までだったが、私等の在学中、6年に延長され、やがて高等科が併設された」。野崎は明治45(1912)年3月、尋常科を卒業した。逆算すれば、同39(1906)年4月、同小に入学した。若松(のち吉野)せいも同じ年、同じ小学校に入った。当然、尋常科卒業も、そのあとの高等科卒業も野崎と同じだ。

ネットで戦前・戦中までの体験者の手記を読むと、小学1~2年生は共学、3年生以上は男女別学だった。が、児童数によっては共学もあった。男子組・女子組、そして男女組(共学組)。その割り振りは現場の判断にまかされていたようだ。小名浜はどうだったか。

「高等科は、小学校と同じ校舎で、男子の1年・2年は各1学級だが、女子は人数が少なく、1・2年が複式の1クラスだった」。なるほど。男女共学組をもうけず、学年をまたいで複式の女子組をもうけたわけか。この女子組にせいが在籍していたことになる。

野崎が高等科1年のときの集合写真が『回顧録』に収録されている=写真。拡大鏡でチェックしたが、女子はいなかった。先生2人のほかは、男子が39人だ。確かに、これだけ男子がいれば共学は無理だろう。

せいは高等科を卒業した2年後の大正5(1916)年、小学校准教員試験に合格し、窪田第二尋常小学校の代用教員になる。そのころの児童の集合写真が、平成11(1999)年、いわき市立草野心平記念文学館で開催された「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい展」の図録に載っている。

せいを含む先生4人が最前列に座っている。後ろに立つ児童は女子8人、男子19人の計27人だ。表情を見ると、少し大人っぽい。高等科かどうかはともかく、尋常科なら上級生らしい。こちらは人数が少ないための共学か。

 とまあ、想像をたくましくするのはさておき、野崎は<小学校の行事>のなかで、楽しいことのひとつとして遠足を挙げている。「1、2年生は現在、日本化成のある松之中の千畳敷といわれた海岸に、3、4年生は永崎海岸の『へそ石』付近、5、6年生は鹿島町御代の大仏様と決まっていた」

松之中一帯は臨海工場地帯に変わったから、「千畳敷」は跡形もないだろう。が、「へそ石」と「御代の大仏」は今も拝むことができる。といっても、「へそ石」は一時行方不明になっていたのが、東日本大震災に伴う防波堤の復興工事中に見つかった。「御代の大仏」も大地震では頭が取れた。今はそれぞれ固定されたり、修復されたりして、元の姿を見せている。

正月2日に海岸道路をドライブした。途中、「へそ石」のあるところへ寄った。あしたはそのあたりのことを――。

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