日曜日(6月10日)、窓口に運転免許証を見せて、65歳以上の市内在住者は無料の特典を生かして入館した。いくつにも仕切られた壁面に予告編風の映像が映し出される。前も後ろも、右も左も、映像。同年代の元青年がいっぱいいた。
高倉健の映画の記憶は、私のなかでは学童・思春期、青年期、壮年期で全く異なる。20歳前後のときには「網走番外地」と「侠客伝」シリーズに熱狂した。結婚して子どもが生まれると、劇場へは足が遠のいた。“テレビ劇場”で見るだけになった。「幸福の黄色いハンカチ」も「居酒屋兆治」も「鉄道員(ぽっぽや)」も、そうして見た。
今も鮮明なのは、小学生のときに見た美空ひばりとの共演映画だ。美術館でもらった「高倉健 出演全205作品のタイトルと公開日」のチラシに、自分の記憶を重ね合わせると、初めて「高倉健」に出会ったのは昭和33(1958)年、小学4年生のときらしい。この年、ひばりとは5本共演している。「娘十八、御意見無用」「恋愛自由型」「「ひばりの花形探偵合戦」「希望の乙女」「娘の中の娘」。どの映画かは覚えていない。が、邦画量産時代だった。
同じ東映でも人気があったのは時代劇だろう。東千代之介と中村錦之助(のち萬屋錦之介)の「曽我兄弟」を覚えている。「錦チャン」のファンだった。そこへ現代劇の高倉健が登場する。背広姿にネクタイ、オールバックの髪型が深く胸に刻まれた。
平成26(2014)年11月10日、高倉健死去――。1週間後に死を伝えるニュースに接して、やはり最初に見た背広姿のシーンがよみがえった。
中学生になって間もなく、こんなことがあった。ブログに書いた文章を引用する。「阿武隈の山里にある中学校へは、3つの小学校の生徒が集まる。同級生になった別の小学校の人間たちと校庭で遊んでいると、一緒にいたその小学校の先輩が目を丸くした。『おめぇ、タカクラケンっていうのか』。同級生が『タカハルクン』といったのを聞き間違えたのだった」
これはしかし、正確ではなかった。「タカクラケンっていうのか」は「タカハラケンっていうのか」だった。すでに子どもたちには映画スター高倉健が広く認知されていた。その連想で1年先輩は「高原健」と勝手に誤認した。現代劇では赤木圭一郎の次に好きな男優だった。
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