東日本大震災の直前だったか、ネットで嶋崎さや香さんという人の論文「幕末から明治初期における新聞受容―竹川竹斎と射和(いざわ)村―」を読んで、竹斎という人物に興味を持った。嶋崎さんは図書館情報学が専門で、現在は大阪樟蔭大学の先生をしているらしい。
いわき市に豪商・諸橋家の「会計さん」が設けた図書館「三猿文庫」があった。それよりさらに早く、松阪市射和に竹川竹斎(1809~1882年)が開いた図書館「射和文庫」がある。経済人が事業で得た利益を地域に還元する、そのひとつのかたちが私立図書館の開設だった。
嶋崎論文によると、竹斎は両替商を主業に幕府の御為替御用を務めた。江戸・大阪・京都に店を持つ一方、自宅のある射和で国学、儒学、農政学、天文地理測量などを学び、地域の殖産興業に尽力した。茶道や古美術鑑賞、歌会などの文化活動にも熱心だった。
著書に「海防護国論」「賎賀雄誥」「蚕茶楮書」、ほかに「日記」(文政9・1826年~明治15年)がある。日記に初めて「新聞」という文字が現れるのは安政2(1855)年4月9日の「片仮名新聞紙」。異国船や海防についての情報を積極的に収集した。
竹斎が生まれ育った家と風土を知りたい――その一点だけで番組を見た。人気のお宝番組に「開運!なんでも鑑定団」がある。「家宝捜索!」(家宅捜索をもじったものだろう)は「蔵」に絞って、どんなお宝が眠っているのか、その値段はいくらか、を鑑定する番組だった。今年(2018年)4月に始まったばかりだから、まだ世間には知られていない。
竹川家の部屋の張りまぜ屏風や蔵にあるお宝は一流のものばかり。それらを暮らしの中で当たり前に扱い、使っている。いやはや「超」を頭につけてもいい豪商の家風だ。
竹斎のすごさは、財力にものを言わせて金品を集めただけではない。情報の価値を知っていた。幕末に登場した「新聞」というニューメディアに関しては次のようなエピソードがある。これも嶋崎論文による。
明治6(1873)年4月の度会(わたらい)新聞(度会は現三重県伊勢市を中心とした地域の旧地名)に載った投書によれば、竹斎は「内外新聞ハ開化ノ捷径(チカミチ)ナリ」という観点から、諸種の新聞を収集し、社中(新聞同観結社)回看後、社外有志に貸し出している。
新聞を読むことのできない人々(明治初年代の識字率は推定で男子40~50%、女子15%)に対しては、寺に集めて講釈し、太陰暦から太陽暦への改暦を推進するなどしたともいう。村びとは「新聞を聞く」ことから文明開花の世に踏み出していった。
新聞を読むことのできない人々(明治初年代の識字率は推定で男子40~50%、女子15%)に対しては、寺に集めて講釈し、太陰暦から太陽暦への改暦を推進するなどしたともいう。村びとは「新聞を聞く」ことから文明開花の世に踏み出していった。
「三猿文庫」の資料はいわき市に寄託された。市立総合図書館で利用することができる。私は特に、明治以降の地域新聞の恩恵を受けている。射和文庫にも「諸種の新聞」が残っている。たぐいまれな情報収集者はたぐいまれな情報発信者でもあった。
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