東日本大震災後、いわきで5年間、津波被災者や原発避難者の支援活動を展開したシャプラニール=市民による海外協力の会(東京)の先遣隊がおととい(10月17日)、いわきに入った。飲料水を配りながら、被災地の状況調査を行っている。
カミサンがいわき連絡会の代表をしている。きのうは朝から、カミサンとスタッフ2人が浸水被害の深刻な地域のひとつ、平・下平窪を見て回った。午後はスタッフだけで行政機関などを訪ねた。きょうは震災時にも運営に協力した市社協の災害ボランティアセンターを訪問する。
3年半前、シャプラがいわきでの活動を終えるときに書いた拙ブログを一部引用する。
――シャプラはもともと、バングラデシュやネパールなどで活動しているNGOだ。そのNGOが東日本大震災・原発事故後、いわきへ支援に入り、3年間の活動継続を決めた。①被災者の生活再建のメドがつき、正常な生活を送れる道筋が見える状態になること②行政やNPOなど地元の力によって細かなニーズに対応できる体制・ネットワークができること――を目標にしたという。
時間の経過とともに被災者のニーズも変わる。発災直後は①災害ボランティアセンターの運営支援・コーディネート②一時提供住宅への入居が決まった被災者への調理器具セットの提供③物資無料配付――などを続けた。その後は、主に借り上げ住宅(アパートなど)の入居者を対象に、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営し、活動期間も2年延長した。
「ぶらっと」は、①生活情報・支援情報・イベント情報の提供の場②友達とのおしゃべりの場③デッサン・編み物・刺繍などの教室の開催の場④困っている人の相談の場――などに活用された。情報紙も発行した。いくつかの教室はサークル化されて、利用者みずからが自発的に運営するところまできた――。
今回、わが家は断水中なので、水の出る南部の会員の好意でそちらに宿泊し、5年間のつながりを生かしながらどんな支援ができるかを探る。
今度の台風19号では、夏井川水系の小川、平窪、赤井、内郷、好間などで8000戸超の住宅が床上・床下浸水をした。
このエリアに親類や友人、知人が住んでいる。家が無事だった人もいるが、カミサンの友人(平窪)、私らの若い友人(赤井)、知人たちが被災した。ほかの市民も同様で、ボランティアというよりはファミリーと同じような感覚で水害ごみの片づけなどを手伝っている。近所の知人も「姉が住んでいる」といって、後片付けに出かけた。カミサンの友達の家は、内部が惨憺たる状態だった=写真上1。
きのうの午後、カミサンが再び平窪の友達の家へ行くというので、車を出した。裏道を利用した。田んぼの中に平浄水場がある=写真上2。一日でも早く復旧を、と願わないではいられなかった。
友達の家では車に大事なものを積めるだけ積んで、わが家で仮保管することにした。一帯は狭い道路だけでなく、近くの公園にも水害ごみがあふれ返っていた=写真上3。水害ごみはこれからさらに増える。この処理には長い時間がかかる。
家は平屋。家の前の道路よりは盛り土されて高い。そこに数え101歳の母親と2人で暮らしていた。路上から家の壁に残る浸水跡を見ると、ほぼ目線と同じだ。床上1メートル前後の浸水ということだったが、路面からは1.5メートルはあるだろう。台風が襲来する前、ホテルへ避難したのは賢明だった。今は知り合いのマンションに移った。
知り合いの業者や、友達の仲間が片付け作業をしていた。なかに、フェイスブック友の青年がいた。会うのは初めてだ。彼は震災直後、同じ支援者としてシャプラとつながった。昼前訪れたスタッフとも偶然、再会したという。ひとことふたこと突っ込んだ話をして別れた。
空き巣や被災地を食い物にする人間の話も伝わっている。被災地のために――といって寄付金を募りながら、使途は不明、収支報告もあいまい、という団体もあるようだ。その点、シャプラは創立から半世紀近く、市民からの善意の収支を明らかにすることで信頼を得てきた。なによりもいわきの人間(私の朋友)が創立メンバーのひとりだ。それで、私らも長く付き合っている。
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