高度経済成長とともに核家族化が始まっておよそ60年。先祖伝来の田畑と家がある農山村、あるいは古くからの路線商店街にかぎらない。土地を買ってマイホームを建て、そこで一家を構えたニュータウンでも、少子・高齢化、そして過疎化が著しい。
子どもは大きくなって独立し、よそにマイホームを建てるか、マンションを求めるかして戻って来ない。
三世代家族が普通だった時代はとうに去り、古くなった家は親が守るが、その親もやがては彼岸へ渡る。
東北地方の太平洋側は、これに東日本大震災が加わる。さらに、いわき市内では令和元年東日本台風による家屋損壊が住宅の解体・更地化に拍車をかけた。
12年前、いわき市の沿岸部でも多くの人命と家屋が失われた。津波被害の及ばなかった内陸部でも、かなりの建物が損壊した。わが生活圏の風景も変わった。
それを被災2年後の拙ブログで確かめると――。古くからの通りにある家の周りにパイプで足場が組まれ、防塵シートが張られたと思ったら、たちまち解体されて更地になった。何軒か先の家も、日をおかずに解体された。
被災者の生活再建を支援する制度の一つに「損壊家屋等解体撤去事業」がある。「半壊」以上の判定を受けた家屋などについて、いわき市が所有者の申請に基づき解体・撤去を行う。
近所の家も再建するのにその制度を利用したのだろう。「災害復旧工事 基礎解体撤去工事中」の看板が立った。
次は3・11の1カ月後、2日連続していわき市南部を震源とする強烈な「余震」に見舞われた直後のケース。
わが家と道路をはさんで斜め向かいにある家の土蔵が解体された。3・11で傾き、4・11と4・12でさらにダメージを受けた。
あとで丸太3本を支えにしたが、それは解体作業中に崩壊するのを防ぐための措置だったようだ.。
真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。
ブロック塀で仕切られた駐車場が土蔵の東側に隣接してある。3・11以後、車の持ち主は塀から5メートルも離れて車を止めるようになった。
土蔵が崩壊すればブロック塀ごと車が押しつぶされる。容易に想定される事態だ。その危険性はひとまず解消された。
土蔵はやがて木造の物置に変わった。それに合わせて車道側の生け垣がブロック塀に変わった、先日、その物置から解体が始まった=写真。母家も含めて更地になるのだという。
毎日見てきた風景だから、残像がまだなまなましいが、やがてはどんな家で、どんな人が住んでいたか、も含めて、記憶から抜け落ちてしまうにちがいない。
ましてや、行きずりの新しい更地などは「前に何があったんだっけ」となる。グーグルのストリートビューさえ、つかの間の記録にすぎなくなった。
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