夏井川の堤防を利用して家へ戻る途中、字名が調練場という広い河原のわきを通る。河口からはざっと4キロのヨシ原だ。
令和元年東日本台風では、堤防は無事だったが、河川敷に土砂が堆積し、至る所にゴミが漂着した。
被害の大きかった平・平窪などで復旧工事が始まり、やがて調練場でも土砂除去と立木伐採が行われた。令和2(2020)年12月その他の拙ブログから、そのときの様子を振り返る。
――小川~平の夏井川で進められている河川敷の土砂除去工事が、いよいよ下流の中神谷(左岸)でも行われるようだ。
クリスマスイブの日中、重機が河川敷に入って除草をしていた。そばのサイクリングロードには「除草中」の看板が立った。翌日には岸辺のヤナギの伐採も始まった。
12月26日はさらに重機が何台も投入されて、除草と伐採が行われた。浅瀬では定期的に重機とダンプカーが入って川砂を採取している。それも並行して進められている。
字名からいうと、調練場~天神河原の河川敷だ。川がS字状に蛇行するところで、サッカーコートが複数とれるほど、土砂が広く厚く堆積している。現状は河原(砂地)とヨシ原、草原といったところだろうか。
藩政時代、磐城平藩を治めていた内藤侯が延岡へ移ったあと、中神谷村は笠間藩に組み入れられた。
この分領の庶務をとるため、延享4(1747)年、浜街道沿いの苅萱に神谷陣屋が置かれた。
陣屋の裏手に藩士の兵式訓練を行うための河川敷が広がっていた。それが調練場だ。
ところが、夏井川に近いため、ときどき水害に見舞われた。そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転し、明治維新を迎える。跡地は今、平六小として利用されている。
調練場には大水のたびに土砂が堆積する。令和元(2019年)の台風19号では、堤防寄りのサイクリングロードが、部分的にだが1メートル前後、土砂で埋まった。岸辺にはヤナギ、広大なヨシ原と草原にはニセアカシアやイタチハギなどが生えている。大水のたびに上流から種が流れてきて活着したのだろう。
クリスマスイブから5カ月。調練場では土砂除去工事が続き、岸辺のヤナギや竹林も次々に伐採された――。
以上はいわば、調練場の最初の土砂除去だった。その後、対岸の護岸工事が始まり、調練場側でも岸辺に砂山ができた。
そして、今度は堤防側の土砂除去が再び始まり、この師走も続いている。サイクリングロードのそばにはいくつも砂山ができた=写真。同ロードと同じレベルまで土砂を除去することになるのだろう。
にしても、と、ここでも思う。浸食・運搬・堆積の「河川の3作用」がいかにすさまじいものか。
令和元年以後、今も続いている河川の防災工事は、いわば恒久的というよりは、応急的なものではないだろうか。
いずれまた川は狭まり、ヤナギが生え、中洲ができる。それが自然の輪廻にちがいない。
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