2023年12月22日金曜日

『炭坑(ヤマ)の滴』

                                
 常磐炭田史研究会(野木和夫会長)から、小山田昭三郎著『炭坑(ヤマ)の滴――附・私と戦争(従軍記録)』の恵贈にあずかった=写真。

野木さんはいわき地域学會の仲間でもある。今年(2023年)の10月、地域学會の第378回市民講座の講師を務めた。

演題は「暗号<セケ200>を受信した学徒動員兵」で、同じ企業(常磐炭礦)の先輩だった小山田さん(95歳)の戦争体験記を紹介した。

そのときの拙ブログをかいつまんで再録すると――。小山田さんは旧制磐城中学校4年生(16歳)のとき、特別幹部候補生として陸軍航空通信学校に入学し、翌昭和20(1945)年3月、台湾へ配属された。

台湾では、主に本土(大本営)、沖縄、中国(南京)、マニラ、シンガポールなどとの交信を担当した。そのなかで同20年6月18日、沖縄からの最後の電文「セケ200」を受信する。

「セケ200」とは、「敵(アメリカ)の戦車が200メートルに」迫っている、という意味の暗号だった。この電文を最後に、沖縄からの通信は途絶える。

小山田さんは同21年3月、最後の復員船で鹿児島に上陸し、汽車で故郷の内郷へ帰還した。

『炭坑の滴』は、その後の小山田さんの人生を映し出す。小山田さんは常磐炭礦に入社し、常磐ハワイアンセンターが開業すると温泉供給担当になる。

閉山後も残務整理に携わり、昭和62(1987)年3月に最後の仕事である常磐炭礦峰根浄水場を市に移管したあと、会社を退職する。

本のサブタイトルに「消えた石炭産業 炭坑のラスト・サムライ奮闘記」とあるのはそのためだ。

地中深くにある坑道の下盤がふくれあがる現象を「盤ぶくれ」という。言葉としては知っていても、小山田さんの記述とそれに基づくイラストでやっと実態が理解できた。

坑道は側面と天井が枠で防護されている。しかし、下盤にはそれがない。大地、つまり地上からの圧力で下盤がふくれあがる。一晩で坑道が狭くなることもあったという。

常磐炭田のうち、常磐・内郷地区は温泉地帯でもあった。石炭1トンを掘るのに温泉40トンをくみ上げる必要があった。

「排水なくして出炭なし」。昭和29(1954)年には社内に坑内水対策研究会が発足し、やがて「強制抜水」技術が確立される。青函トンネル建設工事には、常磐炭礦のこうした排水技術が役立てられたという。

最後に一つ。閉山後、系列会社が旧立坑を利用して産業廃棄物を処理していた。ある年の暮れ、小山田さんが現場事務所を訪ねたあと、立坑で爆発事故が起き、2人が死亡する。

この事故には記憶があった。新聞記者になって2年目、大事故に気づくのが遅れて先輩が取材をした。

たまたま仲良くなったNHKの新米記者も、テレビの中継にただただ「現場は混乱しています」を繰り返すだけだった。

サツ回りの経験が浅い記者にとってはとてつもない大事故だった。その初動のしくじりを思い出した

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