谷川俊太郎さんが亡くなって3週間がたつ。どういうわけか、今も詩人の「最期の好奇心」が頭から離れない。
訃報が新聞に載る直前、レイチェル・カーソン/上遠恵子訳の『センス・オブ・ワンダー』を読み終えたところだった。
小さな本の最後に、スウェーデンの海洋学者が息子に語った言葉が紹介されている。
「死に臨んだとき、わたしの最期の疑問を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」
詩人もまた最期の瞬間、「この先になにがあるのか」と、薄れてゆく意識のなかでペンをとろうとしたのではないか、そんな気がしてならない――とブログに書いた。
朝日新聞の追悼記事を読んで、それが間違いではなかったことを知る(もっとも、ペンではなく、パソコンのキーボードをたたこうとしたのではないか――と訂正しなければならないが)。
11月20日付の朝日新聞に記者の「評伝」が載った。そこにこんなくだりがある。最近興味を持っていることは?と記者が尋ねる。
「死ぬことですね。もう92年生きてきたから、生きることはわかったような気がするんだけど、死ぬということはどういう感じなのかな。想像してみるんだけど、困ったことに死んでみないとわからないんだよね」
死んでみないとわからないのは、その通りだが……。しかし、やはり死への興味を抱いていた。
11月28日付ではさらに、長男の作曲家谷川賢作さんの今の心境を紹介している。息子から見た最晩年の父親の姿が浮き彫りになる。
「体の痛みを訴えたり、弱音を吐いたりということはあまりなかった。死に興味を持ち、最期まで実験精神を失わなかった」
それもあって、図書館から谷川さんの詩集『詩を贈ろうとすることは』(集英社、1991年)を借りて読んだ=写真。
中に、「俺がおとつい死んだので」で始まる、3連15行の「ふくらはぎ」という詩がある。その最終連。
「俺はおとつい死んだから/もう今日に何の意味もない/おかげで意味じゃないものがよくわかる/もっとしつこく触っておけばよかったなあ/あのひとのふくらはぎに」
詩集が出版されたのは33年前。「ふくらはぎ」は「今日」というタイトルで、39年前の朝日新聞に掲載された。
谷川さん、当時53歳。おそらくそのころから死への興味・関心が膨らみ始めたのだろう。
死ぬ前にもっとやっておけばよかったものが、ふくらはぎに触ることだとは、詩人のギャグというかユーモアとしか言いようがない。
賢作さんがいう「ウイットやユーモアがあった側面」にはちがいない。聖と俗をミキサーにかけて、さあ飲んでみてというような、稀有な詩人ではあった。
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