2024年12月30日月曜日

最後の日曜日

                   
   今年(2024年)最後の日曜日、12月29日。カミサンが、実家に用事があるというので、夏井川の堤防と国道399号(旧6号)を利用して、平・久保町へ出かけた。

そのあと赤井へ抜け、西小川から対岸の下小川に渡り、再び399号(県道小野四倉線)に出て、渓谷の隠居へ向かった。

1週間前までは渓谷のところどころにカエデの紅葉が散り残っていた。それが消えて、見通しがよくなった。

師走もどん詰まりの日曜日。カエデの紅葉が残っているとしたら、それこそ異常なことだ(が、隠居のカエデはまだ少し赤い葉をまとっていた)。

私は畑の隅に生ごみを埋め、カミサンは近くの小流れで落ち葉さらいをした。「つららができてるよ」。カミサンの声にうながされて小流れを見ると、脇から張り出している小枝に「しぶき氷」ができていた=写真上1。

畑の凍土も5センチほどになっていた。スコップがはね返される。前に生ごみを埋めてやわらかくなっているところから掘り進めた。

寒さが厳しくなるにつれて、いわきへ南下して来る冬鳥も多くなる。平地を移動するのに、田んぼ道ではなく堤防を利用したのは、朝の9時過ぎにコハクチョウがどのくらい夏井川にいるかを確かめるためだった。

まずは中神谷の調練場。数羽のハクチョウが羽を休めていた。ここはいつも少ない。次はサケのヤナ場があったところからやや上流、中神谷・川中島。そしてその上流、新川合流部。それぞれ小グループがかたまっていた。20羽いるかいないかだろう。

小川の三島は、10時ごろに通過した。国道から眼下のハクチョウにエサをやっている人がいた。

それもあってか、小川江筋の堰(せき)から上流にかけて、今季最大の200羽以上、もしかしたら300羽くらいはいたかもしれない。

渓谷に入ると、ロードランナーがいた。上流に向かって駆け上がっていく。しばらくすると、今度は3人の集団に追いついた=写真上2。

いつもはサイクリングの自転車を追い越すのだが、29日はランナーだった。今年の「走り納め」なのかもしれない。

「納め」といえば、29日は私らも隠居への「通い納め」になる。夕方はいつもの魚屋へ刺し身を買いに行った。

年末で忙殺されていたダンナが私の顔を見て言葉を発した。「きょうが日曜日だということを思い出しました」。私は「日曜日の男」らしい。それぞれに今年最後の日曜日があることを痛感した。

☆おことわり=12月31日と1月1~3日はブログを休みます。

2024年12月28日土曜日

「読者のページ」にびっくり

                     
 古巣の新聞・いわき民報に「読者のページ」がある。12月23日付の同欄には驚いた。見出しの一つに「磐城蘭土紀行を読んで」とあった=写真。

 いわき市中央台に住む匿名の方の投稿だった。ありがたいことに、「『朝刊いわき民報』を楽しく拝読しております。中でも『磐城蘭土紀行』を一番にワクワクしてページをめくっています」という。

 拙ブログを「朝刊発磐城蘭土紀行」(前は「夕刊発――」)と題するコラムとして、同紙に転載している。取捨選択は編集者が判断する。その連載コラムの感想だった。

 ご本人は自宅の庭で野菜を栽培しながら、日々生長する緑に元気をもらっているという。

私は日祝日を除いて毎日、ネットにブログを投稿する。題材は主に家庭菜園を含む季節の移り行きや植物、野鳥、キノコなどだ。

日曜日ごとに夏井川渓谷の隠居へ通い、そこで見聞きしたものを材料にすることが多い。一方で、文芸や漬物のことなども取り上げる。

それが活字にもなって、ネットの読者とは別の、リアルな読者の目に触れる。自宅庭での野菜づくりが下地になって、私のコラムにまで共感の根っこを伸ばしてくれたのだろう。

文章から推察するに、同世代(もちろん幅広くとらえている)、それも女性の方だろう。というのは、直接、電話や手紙・はがきで、あるいは人づてに似たような感想を伝えてくるのは、すべて女性だからだ。

なぜそうなのかはたぶんはっきりしている。現役も現役、30代のころから一般取材のほかに、コラムを書くようになった。

すると、「男の視点ね」。頭でっかちの「ねばならない」論を、いつもカミサンから批判された。

天下・国家より野菜の値段が大事――。個別・具体の「主婦のおしゃべり」に耳を傾けるようになってから、男とはまた違った社会の情景が見えるようになった。

以来、カミサンの一言で、あるいは主婦=女性の視点でコラム(今はブログ)を組み立てることが多くなった。

しかも、新しい事象は地域の片隅から始まる。一例が大震災と原発事故だった。

いわきのコミュニティ(地域社会)では、みずから被災しながらも避難民を受け入れるという事態に見舞われた。リクツより行動、という点では主婦にかなわなかった。

 一般論としても、国や地方自治体の政策が具体的なかたちとなって現れる場所がコミュニティだ。

中央から見て末端にあたるところは時代の先端でもある。日常のできごとはニュースにならない。ならば、コラム(ブログ)で日常を記録し続けようというのが、私の基本な考え方だ。

読者の投稿は「どうかこれからも隠居通いの楽しい紀行文を期待しております」という文章で締めくくられていた。

 こうした声を励みにして頑張りますので、今後ともご愛読のほど、よろしくお願いします。

2024年12月27日金曜日

福島スマイル

                                
 クリスマスムードに包まれていた12月22日の日曜日。雪がふっかける夏井川渓谷の隠居を早々に退散し、いわき駅前・ラトブの地下駐車場にもぐり込んだ。

 私は4階の図書館へ。カミサンは3階にある店をぶらつくというので、あとで3階の店で合流することにした。

 本の返却と貸借をすませ、エスカレーターに乗ると、カミサンが下り口で待っていた。「こっち来て」。ん、なにかあるな。

 ワケもわからずついて行くと、急ごしらえの撮影スタジオがあった。撮影の背景として上から白く大きな幕が張られている。

もらったチラシには「福島スマイルプロジェクト」「福島からみんなに笑顔を届けよう」とあった。

無料撮影会だという。3階をぶらついていたカミサンがスタッフに声をかけられ、おもしろがって応じたのだろう。

 靴を脱いで、夫婦で白い幕の前に立つと、カメラマンから声がかかった。「肩に手を置いて」「腕をつかむようにして」

えっ! ふだんしたこともない指示に、夫婦で大笑いしながら立っていると、「はい、終わりました」。そうか、チラシにあったように、笑顔が狙いだったか。

展示用とは別にプリントアウトされたカラー写真をもらって、カミサンがつぶやく。「遺影に使えるわ」(私は胸の中だけで「イエ―ッ!」と叫ぶ)。

 カメラマンはプロの市川勝弘さん(静岡県出身)という人だった。平成23(2011)年12月に写真集『FUKUSHIMA――福島県双葉郡楢葉町 1998―2006』を出している=写真。

 市川さんの奥さんは楢葉町出身で、結婚以来、年に1~2回は互いの実家に帰省していたそうだ。

 奥さんの実家は専業農家で、家のまわりにはありふれた農村風景が広がっていた。写真的には中途半端な、とりたてて撮るものもない場所ながら、「定点観測」のつもりで田んぼや家族、家の中のものなどを撮り続けたという。

 ところが……。双葉郡内にある東京電力福島第一原子力発電所が、東北地方太平洋沖地震、いわゆる3・11の大津波を受けて電源を喪失し、原子炉建屋の爆発をおこす。

 住民はたちまち避難を余儀なくされた。以来、楢葉のありふれた農村風景が、日常が「別の意味」を持つようになった。

   写真集をその年のうちに出そうと決めたのも、日常がいかに大切なものだったかを伝えたかったからだろう。

 ネットであれこれ検索してわかったのだが、福島スマイルプロジェクトは、「福島から――」だけでなく、「福島に笑顔を届けよう」というイベントも行っているようだ。

 突然の撮影会に加わり、写真集をめくりながら、福島の3・11を今も心にとめている人がいることをうれしく思った。

展示用の写真の言葉を「何にする」とカミサンがいうので、「『みんなありがとう』がいい」と応じた。いわきを、浜通りを、福島県を応援してくれている人への感謝の意味を込めた。

2024年12月26日木曜日

互恵の生物界

                              
   「互恵」と「生物界」からすぐ、「菌根共生」や「相利共生」といった言葉が思い浮かんだ。

クリスティン・オールソン/西田美緒子訳『互恵で栄える生物界――利己主義と競争の進化論を超えて』(築地書館、2024年)=写真。図書館の新着図書コーナーにあった。

「互恵」に「生物界」とくれば、何をテーマにした本かはだいたい見当がつく。さっそく借りて読んだ。

のっけから植物と土壌微生物の「もちつもたれつの関係」、つまり菌根ネットワークの話が出てくる。思った通りだ。

私たちはダーウィンの洞察を誤ったやり方で世界に当てはめ、自然界に存在している寛容さと協力関係を見落としているとしたらどうだろう、と著者は問いかける。それが、この本のサブタイトルに表れている。

オールソンはアメリカのオレゴン州に住むライター兼作家だ。彼女はまず、菌根ネットワークを研究するカナダの森林生態学者スザンヌ・シマードの仕事を紹介する。

 オールソンは2015年、ロサンゼルスで開かれた都市土壌会議で、菌根ネットワークについて語るシマードの話に感動したという。

 その後も各方面で取材を重ね、考察を深めて、「人間社会とその周辺で生き物と生態系を団結させるような協力関係、そして互いのためになる結びつき」を知ってもらうために、この本を書いた。 

互恵、たとえば菌根共生とは、これまでに何度も紹介しているが、こういうことだ。

菌が土中のリン酸や窒素を、菌根を通して宿主である植物に供給する。宿主は光合成で得られた炭素化合物を、菌根を通じて菌に供給する。

土中での、この「もちつもたれつの関係」は地球を覆う緑の8~9割に及ぶ。つまり、菌根が地球の緑を支えている。

そのことを知ったとき、自然が、世界が違って見えた。菌根共生の先行研究者の一人が、オールソンが紹介するシマードなのだろう。

シマードの本とは別に、ここ4年の間に読んだ菌根菌関係の本(訳書を含む)を列挙してみる。

▷斎藤雅典編著『菌根の世界――菌と植物のきってもきれない関係』(築地書館、2020年)

▷その続編=『もっと菌根の世界――知られざる根圏のパートナーシップ』(同、2023年)

▷高田宏臣『土中環境――忘れられた共生のまなざし、蘇る古の技』(建築資料研究社、2020年)

▷マーリン・シェルドレイク/鍛原(かじはら)多恵子訳『菌類が世界を救う』(河出書房新社、2022年)

原発事故以来、森に入ってじかにキノコと会う機会が減った。代わりに、本の森を巡ってキノコに思いを巡らせる。その過程で菌根ネットワークを知った。

オールソンが『互恵で栄える生物界』で紹介したシマードの本も図書館にあった。『マザーツリー』

研究者として突き止めた菌根ネットワークと、女性としての個人史をからめた大作だ。いずれ紹介したい。

2024年12月25日水曜日

タマネギはヒガンバナ科

                      
   12月21日のブログ「雑草学の本」の続き――。稲垣栄洋静岡大学教授の『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』を読んで、アップデート(更新)した知識の一つが、タマネギは今ヒガンバナ科に分類されている、ということだった。

植物図鑑の分類は時代によって、国によって変わる。植物の分類は自然界の摂理ではない。自然界の摂理を理解しようとして、人間が勝手に決めたものだという。

まず、見た目が似ているもので分けるリンネの分類法があった。次に、単純な花から複雑な花へ進化したという考えに基づく分類法=新エングラー体系ができた。

ところが、その後は逆に複雑な花から単純な花へ進化したという考えに基づいて、クロンキスト体系がつくられる。

そして現在。見た目ではなく、遺伝子に基づくAPG分類体系があらわれ、見るみるうちに普及した。

たとえば、タマネギ。古くはユリ科に入っていた。その後ネギ科が設けられてそこに入れられ、今ではネギ科が廃止されてヒガンバナ科に分類されている。

タマネギも、ネギも同じ仲間だ。ずっとユリ科に属すると思っていたのだが、いつからヒガンバナ科に変わったのだろう。しかも短命とはいえ、一時ネギ科に分類されていたとは。

ネットでおさらいする。リンネの分類から新エングラー体系へ、さらにクロンキスト体系へと切り替わるのは1980年代。

やがてDNA配列の解析が進み、コンピューターも発達したことなどから、20世紀末にAPG分類体系が発表された。

とすれば、タマネギに限らない。その仲間もヒガンバナ科に変わっているはず。まずはウィキペディアのネギをチェックする。ユリ科ネギ属からヒガンバナ科ネギ属に変わっていた。

ヒガンバナ科への変更を知って初めての日曜日(12月15日)、夏井川渓谷にある隠居の庭から三春ネギを引っこ抜いた=写真。

ヒガンバナ科では有毒のヒガンバナを思い出してしまう。古い知識に染まった頭は、どうしてもユリ根に通じるユリ科へと傾く。ネギを見ながらあらためてそう思った。

ニンニクも、ラッキョウもヒガンバナ科、ノビルも同じだ。ネギは科と属の間にネギ亜科が入る。ニンニクなども、そうらしい。

亜科というのは科の下位に位置するといわれても、よくわからない。科に限りなく近い、つまりネギ科と呼んでもいい近さ、ということなのか。

それはともかく、植物学的分類は20世紀と21世紀とでは全く違う。その証拠に牧野植物図鑑も、ネットで検索すると最新版はAPG分類、とあった。

古さびた脳でも最新版、つまりは21世紀型知識についていくくらいの軟らかさは持ち続けていたい。

2024年12月24日火曜日

湯たんぽ

                     
 師走に入ってからは、さすがにいわきの平地でも寒さがこたえるようになった。山田町では23日までの間、最低気温が氷点を割ったのは13日。これが1月に入ると、さらに冷え込むことになる。

 若いときと違って、老体には寒さがこたえる。子どものころからの冷え性で、外に出るとすぐ指先がかじかむ。ふとんにもぐりこんでもつま先は冷えたままだ。

 この冬初めて、家にある湯たんぽを引っ張り出した=写真。子ども用なので形は小さい。石油ストーブにかけてあるヤカンのお湯を利用して、毎晩、寝る前に湯たんぽをふとんに入れる。

 「防寒対策」はそれだけではない。下ズボンのほかに、上は毛糸のチョッキ、おちょんこ、薄いジャンパーも部屋着にしている。

 暖房は石油ストーブに、時折、ヒーターを加える。ストーブだけだと室温が20度を割ることがあり、ヒーターを付けると逆にすぐ30度近くになる。

振り返れば、今年(2024年)は元日の夕方、能登半島を巨大地震が襲った。当たり前にあった日常が一気に奪われた。

東日本大震災では、沿岸部が大津波に飲まれた。内陸部は津波被害こそ免れたものの、建物損壊が相次いだ。水もしばらく出なかった。

それからの連想で、水を飲むたびに、トイレへ行くたびに、歯を磨くたびに、能登の被災者の不便を思った。

ふとんにもぐって寝るときには、被災者は避難所で冷えて震えているのではないか、そんなことも想像した。

 1月の厳寒期、日常が戻った東北の一老人は初めて、夜中に湯たんぽが欲しくなった。それから11カ月。実際に湯たんぽを使い始めた。

 最初は足元に入れておいた。が、どうも体が温まらない。使い方を間違えている? ネットで調べると、まずは腰あたりに置いて、余熱で胸や腰を温めるようにするといい、とあった。

 ふとんに入ると、睡眠薬代わりに本を読む。横向きなので、いつの間にか足を重ねて折り曲げている。それで足先も湯たんぽの余熱に触れられる。以来、湯たんぽはふとんの真ん中やや下にある。

 早朝はやはり寒さがこたえる。布団を離れると、パジャマの上に外出用の厚手のジャンパーを羽織り、ストーブに火をつける。こたつの下の電気マットをオンにする。

毛糸の帽子をかぶって、玄関の戸を開け、新聞と牛乳を取り込む。帽子がないと、たちまち頭部を寒気が襲う。

 うがいも、のどを潤すのも、水ではなく、温水器を通したぬるめのお湯を使う。水だと冷たすぎて歯茎が反応する。

 食器を洗うのも、秋の終わりのころからお湯に切り替えた。でないと、手の指先が引っ込んで使えない。

 あとは一つ。こたつのカバー掛けだ。こたつといっても本体は故障している。代わりに、電気マットをオンにして、毛布を足にかけている。

こたつの中に熱がこもるよう、カバーを掛けないといけない。「ずるずるしているうちに年を越してしまうよ」。わきから声がかかるのだが、だるまのように動かない。。

2024年12月23日月曜日

山を越える雪雲

                     
 冬至の翌日、12月22日は日曜日。いつものように、朝8時半過ぎには平地のわが家を出て、夏井川渓谷の隠居へ向かう。

 刈り田には稲株から二番穂が出て、ちょっと前までは秋に再び田植えをしたような緑の風景が広がっていた。

それが、霜が降りたせいか、あっという間に枯れて黄土色に変わった。神谷耕土の色の変化に驚いた。

 晴れてはいるが、風が冷たい。隠居へ行って菜園に生ごみを埋めたら、すぐマチへ戻る――そう決めて車を走らせる。

 いつもの風景を眺め、いつもの田んぼ道を過ぎて、国道399号に出た。平・上平窪から小川町・下小川に入ると、乾いて灰色だった道路が突然、濡れて黒い路面に変わった。

 ん? 小川の平地と平は地続きで同じ天気と思っていたが、上平窪の丘陵を境に、手前は晴れ、向こうは雨(あるいはみぞれ)になったか。

 路面はそれからずっと渓谷まで濡れたままだった。へこみには小さな水たまりができていた。

それだけではない。対向車の1台は屋根にうっすらと白いものを載せていた。中通りを含む山間部では雪が降ったか。

 あとで22日の天気をチェックする。渓谷の上流、川前ではこの日朝までに降水量が2.5ミリあった。

 天気予報は中通りも、浜通りも「くもり時々晴れ所により雪」のほかに、「西の風やや強く」とあった。「所により雪」がいわきの山間部では雨になったのだろう。

 隠居には9時10分ごろ着いた。すぐ菜園に生ごみを埋める。雨で地面が緩んだためか、スコップがすんなり入っていく。

 と、ふっかけてくるものがあった。白い。青空がいつの間にか雪雲に覆われていた=写真上1。

 雪雲はしかし15分もたつと消え、また青空に戻った。風は相変わらず冷たい。そのうち、また雪雲が現れ、朝日を隠す。再び雪がふっかけてくる。

スコップその他を片付けて隠居を離れ、小川の平地に下りると。西方の山並みが雪雲に包まれていた。

マチで用をすませたあと、薄磯海岸までのして、カフェで昼食をとる。帰宅途中、夏井川の堤防に出ると、西方の山並みが雪雲に覆われていた=写真上2。雪がふっかけてくる。が、路面が白くなることはなかった。

あしたはクリスマスイブ。「ホワイトクリスマス」は歌だけにしてほしい。雪に弱いいわきの平地の人間の「本音」ではある。

2024年12月21日土曜日

雑草学の本

                  
 古い知識はアップデート(更新)しないといけない。稲垣栄洋静岡大学教授の『雑草学研究室の踏まれたら立ち上がらない面々』(小学館、2023年)=写真=を読んで、そう思った。

 植物学的な記述は事実だが、登場する教授や研究室の学生はフィクション化されている。その点ではエッセーというより小説に近い。

 タイトルにある「踏まれたら立ち上がらない」は、「雑草の生き方」に関係する。著者は「四つ葉のクローバー」の章でそのことを強調する。

 まずは「幸せのシンボルである四つ葉のクローバー」に、「シロツメクサの葉っぱ」とカッコ書きが入っている。四つ葉はアカツメクサを含まず、シロツメクサに限る現象らしい。知らなかった。

四つ葉ができる原因のひとつは、葉の基になる葉原基(ようげんき)と呼ばれる部分が傷つくことにある。

踏まれると葉原基が傷ついて、三つ葉になるはずが四つ葉になってしまうのだという。なるほど。

そこから人間の生き方に話が及ぶ。踏まれている雑草は立ち上がらない。踏まれても大丈夫なように、立ち上がらずに寝そべっている。

 雑草は踏まれながらもタネを残す方にエネルギーを使う。「大切なことを見失わない。それが本当の雑草魂」なのだそうだ。

台湾が原産のタカサゴユリは、帰化雑草として日本国内に広まりつつある。このユリは日本の南西諸島に自生するテッポウユリから進化したと考えられているそうだ。

台湾から日本へ、ではなく、南西諸島から台湾へ渡ってタカサゴユリになり、それが日本へ逆輸入されたというわけだ。

いわき地方で横向きに咲く白い花=タカサゴユリ(あるいはシンテッポウユリ)が目につくようになったのは、私が40代のころだ。

8月も後半に入ると、新しいバイパスや高速道路ののり面がこの白い花で埋め尽くされた。

 テッポウユリか、タカサゴユリか。文献に当たると、テッポウユリは春~初夏に、タカサゴユリは夏に咲くことがわかった。

それで、タカサゴユリとテッポウユリの交雑種、シンテッポウユリだろうという専門家の意見を受け入れていたが、タカサゴユリだという人ももちろんいる。

 タカサゴユリの花には赤褐色の筋がある。ところが、赤い筋のないものもある。要するに、タカサゴユリとシンテッポウユリの両方が生えているのだと考えればいい?

 「富士山には月見草がよく似合う」。太宰治が「富嶽百景」で紹介した月見草は、明治時代に帰化したオオマツヨイグサのことだという。

 オオマツヨイグサは時代が経るとコマツヨイグサ、さらにはメマツヨイグサにとって代わられ、現在はコマツヨイグサが広まっている、のだとか。

 という次第で、目からうろこの話が続く。タマネギは新分類法によって、今はユリ科からヒガンバナ科に変わった。それについては後日紹介したい。

2024年12月20日金曜日

刺し身は盛り合わせに

                
 師走に入ったので、そろそろ終わりかな――いつもの魚屋さんへ行くと、黙ってマイ皿を受け取る。カツオがあるというサインだ。師走最初の日曜日1日は、そうしてカツ刺しを楽しんだ。

 次の日曜日8日は、さすがに一皿すべてカツ刺しとはいかなかった。「では、おまかせ」。カツオ数切れとタコ、タイ、天然ブリの盛り合わせになった=写真。

 それからまた1週間。15日に行くと、カツオがあるという。「まだ入荷するの?」「たまたまです」。そんなやりとりをしたあと、名残のカツ刺しを口にした。

 ブリは暖水性の魚だという。海水温の上昇に伴い、ブリが漁獲される海域は北上している、とネットにあった。日本海側では北海道でも獲れるらしい。

 天然ブリといわれても、太平洋側の東北に住む人間にはその価値がいまひとつわからない(ついでながら、きょう12月20日は「ブリの日」なのだとか)。

 タチウオも東日本では水揚げが少なくて、縁のない魚だった。が、このごろは切り身が魚屋の前に干されていることがある。北上中ということらしい。先日、主人から一切れをもらって試食した。白身で、淡白な味だった。

 3~4年前、いやそれよりもっと前からかもしれない。早いと10月下旬、遅くても11月に入ると、主人がすまなさそうにいったものだ。「カツオはありません」

 それが、11月になってもカツ刺しが手に入る。師走はさすがにあきらめ、1月後半か2月前半に「カツオが入りました」と告げられるまでは、ほかの刺し身にする。

 ところが、今年(2024年)の師走は8日こそ盛り合わせに切り替えたものの、中旬になってもまだカツオがあるという。

おろしにんにくとわさび醤油でカツ刺しを楽しみながらも、地球温暖化に伴う海の異変を考えずにはいられなかった。

 秋になるとサンマの刺し身、さらに寒さが厳しくなるとタコやマグロ、時にはイワシの盛り合わせで我慢する。いや、我慢するというのは語弊がある。カツ刺しとはまた違った冬の味を楽しむ。

しかし、サンマの刺し身はここ何年か、まったく口にしたことがない。5年前、師走にサンマの刺し身を食べたことをブログに書いている。師走のサンマ刺しは同じ魚屋に30年余通い続けて初めてだった、とある。

 先日、全国紙のローカル版にこんな記事が載った。青森・陸奥湾のホタテ稚貝が海水温の上昇で、昨年(2023年)は3割が死んだ。今年も2割が死んだのではないかと、ホタテ漁師が語っていた。

 同じ記事のなかで、宮城県は今年度、真珠養殖に向けたアコヤガイの飼育試験に乗り出すことを紹介していた。特産のホヤやカキの水揚げが減り、漁業者の間に危機感が高まっているそうだ。

地球温暖化に伴う海水温上昇が魚の分布と捕獲魚種、栽培漁業、魚の食文化を揺るがしている。

2024年12月19日木曜日

歯科健診

                     
 夏の終わりから歯科医院に通っている。秋がきて庭のホトトギスが咲き、それに代わってツワブキ=写真=が咲いても、治療は終わらない。

虫歯が2本。福島県後期高齢者医療広域連合から歯科口腔健診の案内が届いたこともあって、何年かぶりで若いときから世話になっている歯科医院に足を運んだ。

 健診の内容はチラシに書かれていた。虫歯や歯周病の有無だけでなく、口腔の機能も含めたさまざまな検査を実施するという。

 検査の内容は歯・歯ぐき入れ歯(義歯)舌や唇かむ力飲み込む力かみ合わせ――の6項目だった。

歯周病と誤えん性肺炎や糖尿病などとの関連が図解されていて、思わずうなってしまった。

健診は、簡単といえば簡単だ。口腔機能や歯・歯ぐきの状態をチェックして、一言アドバイスを受ける。

40歳になるまでざっと20年間、たばこを吸い続けた。禁煙はわりと違和感なくできた。

禁煙10日目の文章が残っている。「たばこはマイルドセブン。一日におよそ40本。天気のいい日に発作的に吸うのをやめてみた。そのまま禁煙」したが、「やめた害は、今のところまったくない」とある。

それから35年以上たつが、喫煙の後遺症らしい。肺機能の低下がある、というアドバイスだった。

病院の検査でも同じことを言われた。モノを持ってちょっと動くだけでも息が切れやすいのはそのせいだろう。

それはともかく、メーンは虫歯の治療だ。右上の犬歯と右下の親知らずに穴があいていた。

右上の犬歯は穴に詰め物をして終わった。親知らずは歯茎から浮いているうえに、ボロボロになっていた。抜くしかなかった。

それが終わると、今度は左上の臼歯が欠けた。その治療が終わり、歯の掃除をしてもらった。

 するとまた、奥歯が歯周病にかかっていることがわかった。というわけで、4本目の治療に移る。

 この師走で「いったん終わり」を期待していたが、あっさり越年した。口腔健診の案内チラシにあったように、歯と歯ぐきの老化が進んでいるようだ。

あらためて健診の案内チラシを読む。①誤えん性肺炎=歯周病菌が肺の中に入り込み、炎症を起こす②糖尿病=歯肉の炎症で生じた物質や毒素が血液中に入り込みインスリンの働きを妨げる。

それだけではない。③動脈硬化=歯周病菌が血管に入ってしまうと、血栓を作ってしまう④認知症=アルツハイマー病の誘発と病状悪化に関係する。

 むし歯は今回も含めて治療をしているのでわかるが、歯周病は初めての診断だ。しかも、放置できないことがよくわかった。

2024年12月18日水曜日

「暴力」を書き留める

                             
 先日、全国紙の別刷りに「『暴力』に抗う文学」の記事が載った。今年(2024年)のノーベル文学賞受賞者は韓国の作家ハン・ガン(1970年~)。彼女の作品などを翻訳した斎藤真理子さんに、「いま読むべき本」について記者が聞いた。

 ハン・ガンの「別れを告げない」「少年が来る」をまず取り上げる。ほかに、ウクライナの作家アンドレイ・クルコフ(1961年~)の「灰色のミツバチ」と「侵略日記」、台湾の作家呉明益(1971年~)の「自転車泥棒」なども紹介した。

 クルコフなら前に図書館から借りて読んだことがある。「ウクライナ日記――国民的作家が綴った祖国激動の155日」(吉岡ゆき訳、集英社)。

 ロシアのウクライナ侵略の淵源ともいわれる、2013年のマイダン革命からロシアのクリミア半島編入、それに続く内乱を書き留めた記録と考察の書だ。

同じころ、呉明益の小説『複眼人』(小栗山智訳、KADOKAWA)も図書館から借りて読んだ。

 「2006年ごろ、太平洋にゆっくりと漂流する巨大なゴミの渦が現れ、科学者にも解決の手立てがないという英文記事をネットで目にした」。日本語版の序文に小説を構想するに至ったきっかけが書かれている。

 まずはこの2人から。記事で紹介されている本が図書館にあるかどうかをチェックする。

クルコフの2冊と呉明益の1冊があったので、「侵略日記」(福間恵訳、集英社)=写真=を借りて読んだ。

新型コロナウイルスによるパンデミックがウクライナにも及んでいた。いわば「内憂」にロシア侵攻という「外患」が加わる。

「2022年2月24日、ロシアの最初のミサイルがキーウに着弾した。午前5時、妻と私は爆発音で目が覚めた」

翌日にはキーウから西へと避難を始める。車の流れは止まり、高速道路を軍用車両が行き交っていた。

「この戦争は既に『世界戦争』である」。それから1カ月後、「2日前私は、戦争が始まって以来初めてまともな夕食を作った」。

あのときと同じだ――。巨大地震に見舞われ、大津波が押し寄せ、原発が事故を起こした、あのとき。

とにかく西へ。幼い孫たちとともに、車2台でいわきを離れた。国道49号から同4号へ、車列は時間がたつごとに増え、大渋滞が起きた。4号に沿う高速道路(東北道)をポンプ車が何台も北上していった。

 戦争も、原発事故も市民のいのちを危険にさらすという点では同じだ。「侵略日記」を読みながら、何度もあのときのことを思い出していた。

「別れを告げない」「灰色のミツバチ」などは、12月17日現在、貸出中か予約中だ。「少年が来る」は蔵書にない。となると、次に借りるのは「自転車泥棒」あたりか。

2024年12月17日火曜日

喪中欠礼のはがき

                      
   「喪中につき新年のご挨拶を失礼させていただきます」だけではない。「年賀状仕舞いのご挨拶」も=写真。11月のなかばあたりから、改まった文面のはがきが届くようになった。

「妻」や「妻の父」「叔父」が永眠した――。新聞のお悔み情報では故人と喪主を確かめる。が、どちらの記憶もない場合は初めて不幸を知る、ということになる。あらためて差出人の胸中に思いをいたすことが増えた。

時期的には年賀状の投函に合わせた発信だろう。年賀状は、今回は自粛するという知らせでもある。

それとは別に、年賀状をやめるあいさつも近年、目に付くようになった。一番の理由は高齢になったから、だった。知人の「年賀状仕舞い」のはがきにも、「老いの深化」が理由に挙げられていた。

年賀状はやめるが、「おつきあいを断ったわけではありませんので、どうぞこれまで同様のご交誼・ご厚情を」ともあった。

来年(2025年)は満で77歳。私も老いの深化を感じることが多くなって、年賀状仕舞いの思いがちらつくようになった。

 8年前のブログにはもう少し元気があった。まだ60代だった。年賀状に関してこんなことを書いていた。

――年賀状は友人・知人から届く1年に一度の“近況報告”でもある。悪い癖で、新年を迎えないと「明けまして……」となれないため、こちらから先に出したのは一度だけだ。元日から、届いた年賀状を見ながら一筆添えて返礼のはがきを出している。

大震災・原発事故後は、西暦の前に「原発震災紀元○年」を入れている。自分のなかにある怒りのようなものが収まらない。今年(2016年)は「原発震災紀元6年」だ。生きているかぎりは「原発震災紀元」を使う――。

帝国データバンクの調べによると、企業の年賀状仕舞いも進んでいる。その主な理由としては、料金値上げ(はがきが63円から85円になった)のほかに、ホームページ・電子メール・SNSでの発信が進んだことが挙げられる。

 企業に限らない。海外に住むカミサンの同級生からは、電子メールで新年のあいさつが届く。そんな時代だ。

 これまでは、年賀はがきが売り出されるとそれを買い、年末に文案を考えてわが家で印刷する。それが師走の習慣だったが、今年(2024年)は違った。

 11月に隣家に住むカミサンの弟が75歳で亡くなった。それで先日、喪中欠礼のはがきを出した。

喪中欠礼のはがきにはひな形がある。印刷所に頼んで印刷した。「原発震災〇年』は省略した。

が、廃炉作業はこれからだ。年賀状仕舞いはいずれ考えるとしても、「原発震災」を忘れるわけにはいかない。

2024年12月16日月曜日

霜と氷の朝

                     
 12月15日の日曜日は朝、抜けるような青空だった。風もない。放射冷却現象が起きたにちがいない。

 まずは平地のわが家の庭の様子をチェックする。水を張った鉢は落ち葉に覆われていて、凍っているかどうかはわからない。

が、外の流しに置いてある小鍋の水の表面がかすかに凍っていた。色は透明。この冬の初氷である。車のフロントガラスも白く曇っていた。

夏井川渓谷の隠居はどうか。朝9時半に着くと、朝日はもう尾根を離れて庭を照らしていた。

下の庭は手前の3本の2が霜をかぶって白く、残り3分の1がカエデの赤に染まっていた=写真上1。尾根のてっぺんの少し下から朝日が顔を出したことがわかる。

朝日はまず3分の1の方に当たり、やがて尾根の上に出て、庭全体に光が当たるようになったばかりだった。

霜が降りたとなれば、大根の葉である。上の庭に「ふっつぇ」(自生)の辛み大根がある。葉にいっぱい霜が降りていた=写真上2。

普通の大根を栽培していたときのことだ。霜が降りると、ふだんは宙に浮いている大根の葉が地面にひれ伏す。

その大根の葉が朝日に照らされ、霜が解けたあと、ピクン、ピクンと立ち上がる。うねのあちこちでピクン、ピクンが繰り返される。この葉っぱのダンスを見るのが冬の楽しみだった。

辛み大根の葉も、普通の大根のようには立たないが、霜をかぶってペタッとなっていた。地味に、静かにダンスを踊るのだろう。

庭を歩き出してすぐ、足元の感覚が違うことにも気づいた。「凍っているな」。そう思わせる硬さだ。

クッションが効いているというわけではない。が、ふだんは体の重さが地面に吸収されるような感覚になる。ところが、15日は違っていた。靴がはね返されるような感じだった。

生ごみを埋められるかな。スコップを地面に差し込もうとすると、はね返された。ではと、スコップに足をかけて踏み込む。それでやっと土を掘り起こすことができた。

土の表面から内部まで凍りつく、というほどではまだない。が、1月の厳寒期へ向かって、徐々に凍土の深さが増していく。生ごみを埋めるのも春までは中止――霜と氷がそう告げている。

2024年12月14日土曜日

冬はやっぱり白菜漬け

                      
   師走に入ると同時に、三和町のふれあい市場へ出かけて白菜を2玉買った。最初の白菜漬けは三和産で――。そう決めているのは、三和町がいわき市のなかでも山地に位置しているからだ。

火曜日(12月3日)の朝、白菜をそれぞれ八つに割って天日に干した。漬け込んだのは夕方。

台所を片付けて甕を出し、ユズの皮をむいて細かく刻む。唐辛子も同じように刻む。食塩を用意する。

あとは昆布だけ。ところが、あるべき場所にそれがない。切れていた。急きょ、最寄りのスーパーへ車を走らせて買って来る。そのあと、軒下から白菜を取り込み、漬け込み作業を始めた。

甕のなかで白菜を持ち、葉の1枚ずつに塩を振り、底が見えなくなったところで、ユズやミカンの皮、トウガラシ、昆布を加える。

そのあと甕を90度回転させて同じことを繰り返す。十字に積み上げること3回、白菜が4段になったところでこの冬最初の漬け込みが終わった。

その間わずか40分。白菜の上に押しぶたと重しを載せてひとまず、冬の最初の準備を終えたことに安堵する。

重しは1個6キロ。これを二つ重ねる。翌朝には早くも水が上がってきたので、夕方には重しを1個はずす。

それから2日後の夕方、試食を兼ねて一切れを取り出す。この冬最初の白菜漬けを食卓に出すと――。

株元が甘くてやわらかい。塩味もまあまあだ。押しぶたからはみ出していた葉先は、ややしんなり感が足りない。が、やがてこれもやわらかくなるだろう。最初の白菜は三和産で――は、やはり正解だった。

糠床はまだ冬眠させてはいない。毎朝、かき回している。お福分けのハヤトウリがある。これを四つに割って漬け続けている。

ハヤトウリの糠漬けと白菜漬けを交互に、あるいは同時に食べる。甕の白菜は日を追って少なくなるのだが、昔のような減り方ではない。

昔は一日一切れとして半月、つまり月に2回は白菜を漬けなければならなかったが、このごろはそれが3週間サイクルになってきた。

それと、産膜酵母の問題がある。時間がたつと、甕にしみ出た水分の表面に白い膜が張る。

塩分が足りなかったり、室温が高かったりするとそうなるらしい。私の白菜漬けはたぶんその両方だ。

白菜自身も乳酸発酵が進んで酸味が強くなる。日がたったら、残りをタッパーに移して冷蔵庫にしまい、酸味を抑えながら食べる、ということも頭に入れておかないといけない。

 というわけで、初回はなんとか乗り切れそうだ。が、頭は次の準備に入っている。かなり冷え込んだから、もう平地の白菜でもいいのでは。そんなことをカミサンがいう。そうかもしれない。

今度は平地の直売所で買うとするか。そう決めていたところへ、三和の白菜を買ってくるよ、と知人から声がかかった。

2024年12月13日金曜日

石炭が途絶えた理由

                      
   菌類(主にキノコ)の本を読んでいて、「あれ、そういえば、なぜ石炭ができたんだろう」と、遅まきながら疑問に思ったことがある。

というのは、キノコにはシイタケやナメコ、エノキタケのように、樹木を分解して土に返す木材腐朽菌がある。

それなのに、なぜ巨大化したシダ類などが分解されずに堆積し、地中で石炭になったのか。

東日本大震災と原発事故以来、キノコは腰にかごを縛り付けて「採る」のではなく、首からぶら下げたカメラで「撮る」だけのものになった。

石森山や夏井川渓谷の森を巡ることも激減した。代わって増えたのが、本の森を巡ることだった。

石炭が生まれ、やがて途絶えたのはなぜか。菌類をテーマにした本を読んでいるうちに疑問が解けた。

師走に入るとすぐ、シルバーサークルの例会で話をする予定になっていた。これまではいわきの文学の話などをしてきたが、今回は石炭を例に挙げながらキノコの話をすることにした。

いわきは常磐炭田の中心地だった。至る所で石炭が取れた。受講者は私と同年代かちょっと先輩だろう。蒸気機関車だけでなく、家庭の燃料としても石炭を見慣れていたはずだ。

というわけで、今回は「キノコの雑学」をテーマにした。ブログで取り上げ、古巣のいわき民報に転載された菌類関係の文章をコピーしてレジュメもつくった=写真。

実は今年(2024年)の春にも、石炭が生まれ、途絶えた理由をブログに書いている。

それとは別に、地球の誕生から菌類や植物の出現などを、今回もおさらいした。春のブログを土台に整理すると――。

地球が誕生したのはざっと46億年前。海に生命が現れるのはそれからざっと8億年後。シアノバクテリアが生まれ、やがて真核生物が誕生する。さらに海中で動物から菌類が分かれるのがおよそ10億年前。

それからしばらくたって、といっても4億5千万年前ごろだが、水中から陸上へと植物が進出する。

その先祖の藻類は根を持たなかった。藻類はすでに存在していた菌類と新しい関係を結ぶ。すなわち、菌類は植物の根の役目を果たす。この関係が進化を重ねて、現在の菌根菌、いわゆる菌根共生になった。

石炭についてはこうもいえる。3億6千万年前に石炭紀が始まる。やがてシダ類が巨大化し、大森林が出現する。植物の体はリグニンなどによって堅固につくられたが、それを分解する微生物はまだ現れていなかった。

その大森林を構成していた巨木が倒れ、湿地に埋まり、土中深く積み重なって、石炭になった。

一方で、石炭紀の終盤ともいえる3億年前ごろになると、リグニンを分解できる担子菌(白色腐朽菌と呼ばれるグループ)が登場する。

この菌の出現によって、リグニンを含む樹木はほかの有機物と同様、分解されるようになった。

つまり、石炭はこれ以後、地中に残らなくなった――といったことを踏まえて、キノコについてのあれこれを話した。

2024年12月12日木曜日

渓谷の朝日

                     
 師走に入って2回目の日曜日、12月8日。太平洋戦争が始まって83年の節目の日だ。そのことをチラッと頭に浮かべながら、夏井川渓谷の隠居に着く。いつもよりは30分ほど早い。

隠居の対岸の尾根から朝日が顔を出したばかりだった=写真。あとで撮影データをチェックすると、9時9分だった。

今年(2024年)の冬至は12月21日。それまでは、尾根から現れる朝日は日に日に遅く、尾根に沈む夕日は日に日に早くなる。

この時期、尾根から顔を出した朝日はそのまま右に、上流方向に移動し、午後3時前後には別の尾根に隠れる。

朝日はともかく、午後3時ごろに尾根に隠れる太陽を「夕日」というのははばかられる。太陽の姿が消えても、空は明るい。暗くなるまでにはまだ時間がある。

8日は偶然、隠居への到着と同時に朝日が差し込んできた。時間がたつにつれて光の範囲は広がり、それに合わせて辛み大根に降りた霜も消えた。

 このごろは、昼にはもう退散する。昼食を持参することも減った。「西高東低」の冬型の気圧配置になると、晴れるだけでなく、風が冷たい。

それもあって、冬場は土いじりがきつくなる。生ごみを埋めて、辛み大根を2~3本抜いて、それで終わりにする。早いとわずか小一時間で上がり、となる。

あとはこたつに足を突っ込んで、部屋で休んでいる。ストーブもつける。そうしないと部屋はいつまでも寒いままだ。

この日、隠居の柱にかかっている寒暖計は氷点下4度だった。こうなると、台所の温水器は、何も手当てをしなければ凍結・破損する。

温水器を換えたとき、水道管からの連結管に電熱コイルを巻いた。これが効いて凍結・破損から開放された。

水道関係は大丈夫。畑は? 凍っているのでは、と思ったが、まだそこまではいかなかった。スコップがすんなり入っていく。凍土ができるのは年明けだろう。

朝日の当たり方が遅い下の庭の南端だけが、うっすらと霜をかぶっていた。これが1月後半の厳寒期になると、あたり一面、白くなる。

それでも、冬至は希望の折り返し点でもある。寒さはきつくなるが、光は日に日に明るくなる。

何年か前、昔は元日の朝ではなく冬至の朝が初日の出だったことを、レイラインの講演会で知った。

ちいさな家庭菜園で土いじりをしている私には、カレンダーの元日よりも二十四節気の冬至の方がなぜかうれしくなる。まさに一陽来復の新年だ。

2024年12月11日水曜日

シリア政権崩壊

                      
   シリアの内戦はこのところニュースになることがなかった。それが師走になって急に動き出した。

反政府勢力がシリア第2の都市・アレッポを制圧した。「え、またアレッポが戦火に見舞われたの?」。それが始まりだった。

反政府勢力はその後、あっという間に首都のダマスカスを掌握し、アサド政権は崩壊した。大統領一家はロシアに亡命したという=写真(12月10日付の新聞)。

オリーブオイルとローレルオイルでつくられた「アレッポのせっけん」を愛用している。それが一つ。

そして、もう一つ。2011年1月、シリアで内戦へと至る騒乱が始まった。その1カ月半後、日本では大地震と大津波、原発事故が起きた。

庶民レベルでいえば、ほぼ同時期に生活の破壊と生存の危機に見舞われた。私のなかではこの二つが重なって、シリア内戦は他人事ではなくなった。

翌2012年、反政府勢力がアレッポを掌握した。フランス通信社によると、2016年にロシア軍の支援を受けた政府軍が奪回するまで、4年にわたり戦闘が繰り広げられた。

せっけん工房が多数あるアルナイラブ地区もこの戦闘で大打撃を受けた。製造業者は内陸部のアレッポを脱出し、トルコやシリア国内の別の都市でせっけん製造を続けた。

しかし、アレッポほどのせっけんはできない。そう判断した業者が、政府軍が奪回したアレッポに帰還して工房を再開した。

そうした経緯を経ながらも、輸入業者の踏ん張りでなんとか「アレッポのせっけん」を使い続けている。

内戦の犠牲者はシリアで暮らす庶民である。国内のほかの土地へ、あるいは国外へと、庶民は避難を余儀なくされた。

私たちも原発事故では避難を強いられた。それもあって、内戦勃発の当初から「避難民」と「難民」の違いについて考えさせられた。

避難生活をどこで送っているか。国内か国外かで呼び方が違うことを知った。ニュースもこの点を踏まえているようだ。

12月10日付の県紙(共同電)には、シリアの国内避難民は670万人、国外への難民は660万人以上とあった。

全国紙の社説には「人口のほぼ半分の約1200万人が家を追われた。うち500万人は国外で難民となっている」とあった。国外避難は「難民」、国内避難は「避難民」というわけだ。

同じ年の3月に発生した原発事故では、十数万人が原発避難をした。いわきに住む人間も、市のアンケートによれば、半数が避難した。

避難した日は3月15日がピークで、津波被災者が避難したあと、一気に市外へと原発避難が行われた。

アサド大統領が去って、難民・避難民が帰還する動きがあるとテレビは伝える。が、これからどうなるのか。

庶民の生活の破壊と生存の危機が再びニュースになるような事態にならなければいいが――心からそう思う。

2024年12月10日火曜日

常磐夏井川橋

                     
 夏井川渓谷の隠居へ行くのに、ふだんは同川左岸に沿って伸びる国道399号(県道小野四倉線)を利用する。

 右岸にも道路がある。県道小川赤井平腺で、こちらは夏井川だけでなく、JR磐越東線とも並走する。

磐越東線は始発・終着がいわき駅だ。市内の駅は夏井川に沿って赤井、小川郷、江田、川前と続く。

列車であれ、車であれ、左岸・平窪、右岸・赤井から小川町に入ると、夏井川の岸辺には竹林が連続しているのが見える。竹林にさえぎられて夏井川はとぎれとぎれにしか見えない。

小川郷駅のある小川は詩人草野心平のふるさとでもある。昭和17(1942)年10月、中国から一時帰国した心平は列車(ガソリンカー)に乗って故郷の小川へ帰る。

そのときの詩「故郷の入口」に、「もう切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」とある。

心平の詩を読んで以来、西小川の県道を通るたびに、「長い竹藪」も手入れ次第では立派な記念物になるのではないか、などと考えたものだが……

令和元年東日本台風では、平の平窪地区を中心に、夏井川流域で大きな被害が出た。

その後、伐木、土砂除去などを経て河川の強じん化工事が進められている。心平の詩に出てくる「長い竹藪」も、それでかなり伐採された。

 12月8日の日曜日、平に用があったついでに右岸の県道を利用して渓谷の隠居へ出かけた。県道からは右手に川が見える。

 渓谷からの帰りにこの道路を走ることはある。が、隠居へ行くために利用するのは3年ぶりだ。「長い竹藪」はこの間にあらかた伐採された。

 赤井にある磐東線の「切り割」と地続きのヘアピンカーブを過ぎて水田地帯に出ると、常磐道の長い高架橋が見えてきた=写真。

 赤井と小川の境あたりで対岸の平窪へと夏井川をまたいでいる。竹藪が消えたために、初めて全景を視野に収めた。

 すると、橋の名前が気になりだした。橋名は「常磐夏井川橋」、全長444メートルと、ネットにあった。橋桁は、橋脚と橋脚の間がやや曲線を呈していて、見た目も美しい。「いい橋だなぁ」。思わずうなった。

しかし……。高架橋はともかく、竹林には水害防備林としての役割があったはず。遊水池としての水田への流木・土砂の流入を抑える役割もあったはず。

そんなことも思い出したのだが、今では国の「河川哲学」が変わったのだろう。いわゆる「流域治水」。

とにかく洪水をすみやかに流す。そんな河川改修と強じん化工事に切り替わったようだ。

2024年12月9日月曜日

サクラ並木が消えた

                     
   街からの帰りに夏井川の堤防を利用する。途中、春になるとみごとな花を付けるサクラ並木がある。

並木のたもとに標識がある。それによると、昭和48(1973)年度以降の小学校卒業生による記念植樹ということのようだ。最初の植樹からだけでも半世紀以上はたっている

ソメイヨシノである。その並木が端から伐採され、後日、街へ行くのに堤防を利用すると、すっかり姿を消していた=写真。

理由ははっきりしている。天狗巣(てんぐす)病だ。それで何年か前の冬、総出で枝の伐採作業が行われた。今度は全伐だ。根元から切られたサクラは30本余りだろうか。

自分のブログをチェックすると、震災前の平成22(2010)年春に、初めて天狗巣病に言及している。

その後も天狗巣病が気になっていたらしい。二度ほど触れた(文章は現時点に合わせて変えている)。

☆2010年4月16日付=街への行き帰りに眺めるのは、やはり夏井川の堤防沿いにあるサクラ並木だ。

こちらはしかし、だいぶ天狗巣病にやられている。花を咲かせずに葉を広げるので、花一色のはなやぎはない。

☆2015年4月11日付=サクラ並木は天狗巣病にやられている。もっと下流、河川敷のサイクリングロードにも、サクラの幼樹が植えられた。

こちらは、何度か大水に見舞われては水没した。そのつど、草本類のごみがかたまりになって引っかかる。ほとんどの木が斜めに傾き、やがて枯れた。

☆2017年12月24日付=街へ行くときに堤防を利用した。人が大勢出て、サクラの剪定作業が行われていた。街からの帰りも堤防を通った。やはり作業が続いていた。

 ここを通り過ぎながら思い出したことがある。ある会合で地元の区長さんが言っていた。天狗巣病にやられて、枯れた枝がかなりあるらしい。症状はかなり重いようだ。

 ソメイヨシノは、葉より先に花が咲く。天狗巣病にかかった枝は花の前に葉を広げる。やがて枝が枯れる。

いつかは大がかりな剪定ないし伐採・樹種転換を余儀なくされるにちがいない――。

 最初の記述から14年。ついに全部伐採をするしかないほど、症状が悪化したということなのだろう。

 別の例を一つ。夏井川渓谷にある小集落の県道沿いにも5本ほどソメイヨシノがある。老木で、ほとんどが空洞になっていたり、キヅタがからまったり、先端が枯れたりしている。

 大正6(1917)年、磐越東線が全通する。その記念に植えられたのではなかったか、と聞いたことがある。当時、80歳を超えた古老が「私が生まれる前からあった」と言っていた。ソメイヨシノはこれから衰退する一方なのかもしれない。

2024年12月7日土曜日

生八つ橋

                     
   孫がみやげを持ってきた。奈良漬け、もみじ饅頭のほかに、もう一品。栗(くり)が描かれた小さな箱の表に、「こたべ」と平仮名で書かれた紙が張ってある=写真。生八つ橋だった。

 それぞれの名字に合わせて売っているのかと思ったが、そうではなかった。商品名らしい。

 さっそく賞味する。もちもちした米粉と、さっぱりした甘みが口の中に広がった。さすがは京都、上品な味だ。

 にしても、なんで「こたべ」なのか。箱に入っていた宣伝文を読む。「ちいさいから『こたべ』。おたべの子供だから『こたべ』。ふた口サイズのいつものおたべを、ひとくちサイズにちいさくかわいく仕上げました」

 由来はともかく、「おたべ」そのものが何なのかよくわからない。キーワードを変えながらネットで調べた。

 製造元は美十(旧社名おたべ)で、京都弁の「おたべやす」を略して、生八つ橋の「おたべ」を製造・販売している。

「おたべ」を小さくしたものが「こたべ」。これも商品名なのだろう。3時の「おやつ」が小さいから「こやつ」と呼ばせるようなものか。

 生八つ橋の味に触発されて、11年前、京都を旅したときのことを思い出した。修学旅行から数えると、46年ぶりの再訪だ。

15歳で出会った同級生たちと還暦を機に「海外修学旅行」を始めた。震災後はこれに国内旅行が加わった。

外国は北欧、台湾、ベトナム・カンボジア、ロシア(サハリン=樺太、ウラジオストク)など。国内は会津、そして京都・奈良。

京都と奈良へは平成25(2013)年7月に旅した。京都では祇園のお茶屋で舞妓さんとじかに話し、奈良では東大寺の大仏様に手を合わせた。

ちょうど祇園祭が行われていた。街の中に「山鉾」が立っていた。行き交う人もふだんより多いとバスガイドさんが教えてくれた。

そのときのブログを再掲する。――無料で配られている京都新聞発行の「祇園祭特集2013」(タブロイド判8ページ)に目を通す。

私たちのような観光客向けのフリーペーパーだろう。祭りの歴史、「山」と「鉾」の違い、主な行事日程などをざっと学習した。

「京の都で疫病が度々流行した平安時代、当時これは怨霊の仕業と考えられ、頻繁に厄よけ祈願の祭礼が行われていた。869(貞観11)年には、当時の国の数にあたる66本の矛が神泉苑に立てられ、悪霊退散が祈願された」

これが祇園祭の始まりだとか。貞観11年といえば、東日本大震災と同規模の「貞観地震」が発生した年だ。みちのくの天変地異も念頭においての悪霊退散祈願だったか――。

そんなこともあったと、文章を読みながら思い出していた。これもまた、生八つ橋「こたべ」の後味のよさというものだろう。