2025年3月8日土曜日

「おっ、甘い」

                     
   夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたころは、面白がっていろんな野菜を育てた。

ポット苗を2株ないし4株買って、小さく仕切ったうねに定植する。サトイモ、キュウリ、ナス、サヤエンドウ、ソラマメ、オクラ……。趣味の菜園だからこそできる少量多品種栽培だ。

しかし、真っ先に挑戦して、真っ先にやめたものもある。トマトだ。週末だけの手抜き栽培では無理、二度とやらないと決めた。

トマトは、雨の少ない中南米のペルーやエクアドルの高原地帯が原産地といわれる。茎に雨よけをしないと、長雨で果実の皮が裂けるのだとか。それを怠ったら、案の定皮が裂けた。

そもそもトマトを、となったのは、小さいころに食べたトマトの味が忘れられなかったからだ。

昭和30年代の高度経済成長が始まる前、家の裏に家庭菜園があった。ネギなどのほかに、1株か2株、トマトを栽培していた。

家のものか近所からのもらいものかはわからない。が、完熟したトマトの甘さが味蕾(みらい)に刷り込まれた。

それが、私のトマトの味の基準になった。今売られているトマトは、その基準からは程遠い。品種が違うらしい。

面白いのはミニトマトだ。生ごみを埋めると、中に残っていたミニトマトの種が芽生える。それは育てる、というより、ほっといても育つ。

 それでもやはり、甘いトマトを食べたい、という思いは、意識の底にひそんでいるようだ。

あるとき、晩酌のつまみに細長いミニトマトが出た。ほかのミニトマト、あるいは普通の中玉より甘い。皮はやや厚めだが、それだって「いい歯ごたえ」のうちだ。一発で好きになった。

 ネットで調べたり、生産者に聞いたりして、種名が「フラガール」であることを知った。「フラシテイ」を名乗るいわきらしい名前なので、一発で脳裏に刻まれた。

 それ以来の、いやそれ以上の衝撃だったかもしれない。先日、隠居からの帰り、平窪にあるJAのやさい館で地場産の中玉トマト「ルビオーレ」=写真=を初めて買った。「おっ、甘い」。皮は厚めだが、中身はみずみずしい。

最初は売り切れて手に入らず、次の日曜日、昼前に寄ったら、あった。2袋を手に入れ、のどが渇いていたこともあって、さっそく車の中で食べたのだった。

 平下神谷の休耕田を利用したハウスで、スマート農法でフルーツトマトの代表品種「フルティカ」を栽培していること、この1月から「ルビオーレ」の商品名で販売を始めたことなどは、いわき民報の記事で知った。

 すると、やはりカミサンが「食べてみなくちゃ」となった。女性は男性よりも甘いモノに敏感だ。

  カミサンの茶飲み友達界隈では、フラガールのときと同じように、たちまちルビオーレの甘さが知れわたったようだ。

2025年3月7日金曜日

カタツムリの食事の音

                              
   なにかの本に紹介されていたので、図書館から借りて読んだ。エリザベス・トーヴァ・ベイリー/高見浩訳『カタツムリが食べる音』(飛鳥新社、2014年)=写真。

著者は原因不明の難病で寝たきりになる。病床の慰めにと、友人が野生のスミレを鉢に移して持ってきた。スミレの葉の下には、やはり森で拾ったカタツムリが1匹。

そのカタツムリがある日、鉢からはい出して手紙に丸い穴を開ける。それに気づいた著者は俄然、カタツムリの行動に興味を持つ。

カタツムリは夜になると鉢の側面を伝って下りてくる。ある晩、ベッドのかたわらの花瓶から、しおれた花弁を鉢の下の皿に置いてみた。カタツムリは花弁を見ると、興味深そうに調べ、そして食べ始めた。

「わたしはじっと耳を傾けた。すると、カタツムリが食べている音が聞こえるではないか。何かとても小さな生き物が、せっせとセロリを食べているような音だった」

カタツムリの食事の音を聞いているうちに、著者の胸中にはカタツムリとの仲間意識が芽生える。

著者はやがて介護士に頼んで大きな水槽を置き、野生の植物が茂るテラリウムにして、そこにカタツムリを移した。

カタツムリは既に別のカタツムリと出合って、産卵が可能な状態だったらしい。やがて卵を産み、子どもが孵る――。

こうしてカタツムリの形態と生態の観察が続き、カタツムリへの愛が深まる。

著者の闘病生活はほとんど20年間に及んだ。カタツムリの観察後、初めてカタツムリに関する研究書などを読み漁り、カタツムリとの1年間のやりとりを詳細に記録した。それが本書だ。

同じアメリカで出版され、日本語に翻訳された本に、ディーリア・オーエンズ/友廣純訳『ザリガニの鳴くところ』(早川書房、2020年)がある。この本は知人から届いて読んだ。

「ザリガニの鳴くところ」というタイトルが変わっている。「カタツムリが食べる音」も、タイトルに引かれた。

ふだんは気にも留めない小動物の鳴き声や食べる音に注意すると、何が見えてくるのか。たとえば、「アリが歩く音」とか、「トンボのささやき」とか……。

長くいわき市立草野心平記念文学館長を務めた故粟津則雄さん(文芸評論家)は、心平の特質のひとつはひとりひとりの具体的な生への直視にある、と述べた。それは人間だけでなく、動物・植物・鉱物・風景にも及ぶ。

そう、『カタツムリが食べる音』も、相手への直視=共生観がベースになって、豊かな世界を生んだ。

著者は本の最後にこう述べる。「幸運にもいま、わたしたち人類は地球で軟体動物と共生している――彼らの長い歴史に比べれば、わたしたち人類はつい最近登場した青二才」でしかない。この自覚が腑に落ちた。

2025年3月6日木曜日

まだ「ホケチョ」

                     
 ウグイスの初音は、昔は街からの帰り、夏井川の堤防で聞いた。

 対岸・山崎(平)の丘の中腹に寺がある。梅福山専称寺で、山号に合わせて梅の木が植えられ、「梅の名所」として知られる。

 「梅に鶯(うぐいす)」は花札の図柄だが、ウグイスが好んで梅の木でさえずるわけではない。春を待つ大昔の人々の願望=美意識が花札の図柄を生んだ。

 とはいえ、こちら側、左岸の堤防で耳にするのは、やはり山崎に生息するウグイスのさえずりだ。

 山崎側では震災前、県道甲塚古墳線を田んぼの中に付け替え、古い道路を河川敷にする大がかりな改修工事が行われた。

令和元年東日本台風のあとにも、河川敷の竹やヤナギが伐採され、土砂が撤去された。

 それで、ウグイスが止まってさえずる「ソングポスト」がなくなった。さえずりが聞こえなかったり、聞こえても遠かったりするのはそのためだろう。

 いわき駅周辺なら「お城山」がある。田畑を宅地にしたわが家のようなところでは、ウグイスはそうそうやって来ない。

 近年はそれで、夏井川渓谷の隠居でウグイスの初音を聞くようになった。今年(2025年)は3月2日の朝、畑の隅に生ごみを埋めているときに、そばのやぶでさえずった。

 「ホー、ホケキョ」の前置き「ホー」はまだない。「ホケキョ」も「ホケチョ」に近い。「ホケチョ」がやがて「ホケキョ」になり、頭に「ホー」がついて、「ホー、ホケキョ」が完成するのだろう。

 といっても、「ホー、ホケキョ」は一般的な「聞きなし」で、ウグイスの個体すべてがそうさえずるわけではない。

 渓谷のウグイスには「ホー、ホケベキョ」と、「ホケ」と「キョ」の間に「ベ」が入る個体がいる。

鳥の世界にも方言があることを、川村多実二『鳥の歌の科学』(中央公論社、1974年)で知った。

「ホケベキョ」は渓谷だけでなく、平地のわが家の近くでもたまに聞く。同一個体がいつもそうなのか、あるいはたまに鳴き方を変えるのか、それはわからない。

 で、ウグイスのさえずりを「ホー、ホケキョ」と書き留めるのは月並みな表現にすぎない、いつかそんな認識を持つようになった。

 平地のわが家の周辺は緑が少ない。隣接する東と南、計4軒の家は庭に木が植わってある。4軒まとめるとちょっとしたグリーンスポットになる。

ウグイスはもともと山野の鳥。このグリーンスポットは、大陸(山野)から離れた海上の孤島のようなものだ。そこへほかの島(大きな家の庭)を伝ってウグイスが漂着する――わが家の庭にウグイスが現れると、いつもそんなイメージがわく。

 夏井川流域の梅前線は渓谷の江田に到達した。隠居はと見れば、梅はまだつぼみのままだ。根元にはオオイヌノフグリ=写真。こちらは例年、ウグイスの初音よりはだいぶ早く咲く。

2025年3月5日水曜日

トラとウマ

                      
   先日、変な夢を見た。「トラウマとは何?」と誰かが問い、しばらく考えて出した答えが「トラとウマ」だった。

答えたのは私で、今の私なのか、子どもの私なのかははっきりしない。トンマな夢から覚めて、ちゃんと言葉の意味を探ってみた、

トラウマとは「個人では対処できないほどの圧倒的な体験によって生じる心の傷」だという。日本語に訳せば「心的外傷」だ。

小・中学生のころ、蒸気機関車が地平線の向こうから驀進(ばくしん)してくる夢をよく見た。全く同じ映像で、列車にひかれそうになったところで目が覚める。

怖い夢には違いないのだが、なぜいつも蒸気機関車が煙を吐いてやって来るのか、不思議でならなかった。

若いころ、夢を分析して思ったのは、根っこには小学2年のときの大火事体験があるのではないか、死への恐怖が蒸気機関車となってフラッシュバックのように襲ってくるのではないか、ということだった。

阿武隈高地の常葉町(現田村市常葉町)で生まれ育った。西の郡山市と東の双葉郡を結ぶ国道288号沿いに家がある。

2年生になって間もない昭和31(1956)年4月17日の夜7時10分。東西に長く延びる一筋町にサイレンが鳴った(いわき地域学會の『かぼちゃと防空ずきん』に大火事のときの手記を載せた。以下はそれからの抜粋)。

 ――火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れた――。

大火事体験からざっと40年後、阪神・淡路大震災がおきた。そのとき、なぜか大災害のその後を知ってほしくて、常葉大火の被災地図(黒く塗られた部分)=写真=をかいて、ある集まりでしゃべったことがある。

どこかで大災害が起きると、つい7歳のときの体験を思い出して胸が騒ぐ。国の内外を問わない。北海道南西沖地震(奥尻島)、酒田大火、糸魚川大火、中越地震、近年の水害、ウクライナ戦争、ガザ(パレスチナ)……。どこの災害現場にも「7歳の私」がいる。

 東日本大震災では原発避難を前に、「人生で二度も避難を経験するのか……」と観念した。

アメリカ・ロサンゼルスの山火事にも、岩手・大船渡の山火事にもやはり「7歳の私」がいる(賢治よ、早く「あめゆじゅ」を降らせてくれ)。

7歳では泣かなかった「こころ」が、47歳のとき、阪神・淡路大震災の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。

ロスと同じく大船渡でも民家が炎に包まれた。私の胸の奥ではトラが暴れ、ウマが疾走している。

2025年3月4日火曜日

湿った雪

                     
    南岸低気圧の東進に伴う湿った雪がやはり降った。

3月3日は未明に雨が降り始め、上空に南下してきた寒波も手伝って、朝6時前には氷雨になった。家の前のごみ集積所にネットを出すと、首筋がゾクッとした。

 氷雨はやがて雪に変わり、ときに風に舞いながら降り続けた。家の屋根や車の屋根はすぐ白くなった=写真上1。

しかし、アスファルト道路に雪はない。雪そのものが湿っているので、路面に触れたとたんに消えて水になる。

 いわきの平地の雪は今季2回目だ。前回の2月6日には車の屋根だけでなく、道路も白くなった。このときは朝日が昇ると、間もなく雪が融けた。今回は、道路の雪は心配しなくてもよさそうだ。

 結局、午後2時近くまで雪は降り続いた。庭を見れば、土の部分には雪はほとんどない。枯れ草が受け皿になって白く雪をかぶっていた。

 この日は朝からたびたび天気が気になった。夕方、下の孫(中3)を車に乗せて街へ行く予定だったからだ。

その前に「想定外」のことが起きた。昼過ぎ、上の孫(高2)が突然、やって来た。

ふだんは最寄りの草野駅からいわき駅まで電車で通学している。1日の卒業式の代休で3日は休みになった。街へ行こうとしたら、電車が止まって動かないという。

いわきの北、常磐線の竜田―富岡駅間で竹が倒れる事故が起きた。列車が不通になったという。で、雪の中を草野駅からわが家まで歩いて来た。

これには驚き、そしてカミサンが喜んだ。すぐ孫の昼食を用意する。私は街まで車で送っていくことにした。

道路は、思った通りだった。路面が黒くぬれているだけで、雪はなかった。これで大丈夫、夕方も安心して車を出せる。

それからほどなく雪がやんだ。下の孫を迎えに行ったのは午後4時半過ぎ。すでに雪雲は東の海上へ去り、青空が広がり始めていた。

田んぼ道の北方、二ツ箭山系は夕日を浴びて白く輝いていた=写真上2。春が来るというのに、山はまるで真冬の装いだ。

 そういえば、「いわき」の言葉が入るX(旧ツイッター)には雪の情報が並んでいた。いわきのどこが雪なのか、リアルタイムで想像がついた。

 そのなかに、アメリカの風景写真家アンセル・アダムス(1902~84年)の作品を思わせる落葉樹の雪の写真があった。けっこう積もったところもあるようだ。

 雪はしかし、まだ続く。4~5日には「大雪」の予報が出ている。いわきの春の洗礼は怖い。

2025年3月3日月曜日

ハクチョウが去った?

                     
   月が替わって3月になった。1日午後、街で集まりがあり、帰りは夕方4時半ごろになった。いつものように夏井川の堤防を利用した。

銀橋(下水道橋)のすぐ下流、新川合流部はハクチョウの越冬地だ。堤防のそばの家に住む白鳥おばさんがエサをやっているに違いない。

 そう思いながら進むと、ハクチョウはなんと2羽だけだった。おばさんの姿もなかった。

この日は気温が上昇した。最高が小名浜で16.5度、内陸の山田では18.6度になった。それでダウンジャケットを着たハクチョウは一気に姿を消したか。

 翌日は日曜日で、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。まずはわが生活圏のハクチョウの有無を確かめるために、山側の田んぼ道ではなく川の堤防に出た。

平・中神谷と塩地内の境あたりに数羽いたが=写真、新川の合流部には姿はなかった。

直近では2月27日の夕方、孫を乗せて対岸の県道から夏井川を見た。まだ数十羽が残照を浴びていた。

 3月に入るとハクチョウの北帰行が始まる。すると、決まって思い出すことがある。「3・11とハクチョウ」だ。毎年紹介しているが、今回も「備忘録」の意味で再掲する。

――ハクチョウがいきなり姿を消したときがある。平成23(2011)年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生する。その数十分後、津波が夏井川をさかのぼってきた。

まだ去りかねていたハクチョウたちが波に驚いて一斉に飛び立った。毎日、ハクチョウにえさをやっていた対岸・山崎のMさん(故人)から聞いた「ハクチョウたちの3・11」だった。

以来、ハクチョウの北帰行は、この3・11が目安になった。3・11より早い・遅い。そう比較しながら、ハクチョウの姿が消えた日を記録する――。

 夏井川最下流のハクチョウ飛来地は数羽だけだった。隠居へ行く途中に道路と並行する小川・三島の夏井川ではどうか。

いつもより早く、朝9時前に通過した。ハクチョウがいることはいるが、数はいつもの3分の1ほどだった。

ここはえさをやる人の関係なのかどうか、9~10時ごろに個体数が増える。2日は帰りの三島通過が10時半ごろになった。

いる、いる。小川江筋の多段式斜め堰の方まで100羽、いや200羽近く。ここはまだしばらくは残留が続きそうだ。

2日は1日以上に気温が上昇した。山田ではなんと20度にあとわずかの19.7度だった。

ちょっと前までは必須だったジャンパーとズボン下が邪魔になった。石油ストーブはもちろんつけない。

人間でさえ辟易するような陽気になった。とはいえ、きょう3日、あす4日は急転して「春の雪」が懸念される。

ハクチョウの北帰行と時を同じくしてやって来る南岸低気圧の湿った雪、これがいわきでは一番厄介だ。

2025年3月1日土曜日

脳トレクイズ

                      
 全国紙はもちろん県紙、地域紙にもクイズが載る=写真。クイズは若い世代のものと思っていたが、ここまでそろって新聞に載るとなると、何か理由があるに違いない。

 あれこれ考えて、はたと思い当たった。新聞を購読しているのは高齢者が多い。高齢者の間ではボケ防止のために脳トレがはやっている。その代表例がクイズだ。

前に高齢者を対象にした脳トレの本を読んだことがある。ブログにさわりを紹介した。それを再掲する。

――脳トレ・運動・食事、これが脳によい三本柱だという。脳トレなら脳トレだけでなく、ウォーキングや家事労働、バランスのいい食事などにも心がける。

それらを総合的に組み合わせ、脳を活性化させることで認知機能の低下や認知症の予防につながるのだとか――。

 新聞も「商品」であることに変わりはない。高齢者の興味・関心にこたえることで高齢者をつなぎ留め、できるだけ長く新聞を読んでもらう必要がある。

 「構造不況産業」である活字メディアとしては、むしろ減紙対策に力を入れないといけない。そのための読者=高齢者サービスではないか。地域紙で飯を食ってきた人間はそう考えるのだがどうだろう。

新聞の脳トレクイズとは別に、前に『大人の脳トレ本』を読んだ。「もう使わないから」と、知人が持ってきた。

まずは人間の体で人間の顔を表現した歌川国芳の浮世絵が登場する。「絵の中に描かれている人物は何人か」 同じ国芳の猫の絵を見せて「ことわざを完成させよ」というのもあった。

 新聞に載るのも似たりよったりで、平仮名パズル、漢字パズル、文字の入れ替え、マッチ棒の数字パズル、穴埋め計算、逆さ時計などと、実にバラエティーに富んでいる。

 パズルのレベルも初級・中級・上級とあるらしい。が、文字に関してはなんとかこなせても、「数独」となると全くお手上げだ。

 某紙に載る数独は目にも留めずにパスしていたが、それではどうもおもしろくない。カミサンと仲良くしている近所の90歳のおばさんが数独を楽しんでいるという。その話を聞いてからはなおさらだ。

 90歳でできるなら、一回り以上若い人間にもできるはず。まずは、数独とは何かから始めた。

3×3のブロックに区切られた9×9の正方形の枠内で1~9までの数字を入れるパズルだという。

ネットでやり方(見本)を確かめて挑戦してみたのだが……。途中で数字がダブってしまう。そのうえ、時間があっという間に過ぎる

縦・横いずれも1~9の数字をダブらずに入れないといけない。どこかで数字を間違って書き込んだのだ。

間違ったら消せるように鉛筆で書き込み、再挑戦、再々挑戦をしたら、やっと完成した。近所の数独おばさんは「慣れだよ」といっているそうだ。確かにそのとおりらしい。