2025年3月31日月曜日

令和6年度ガン・カモ調査

                      
 日本野鳥の会いわき支部から、支部報「かもめ」第166号(2025年4月1日発行)の恵贈にあずかった=写真。

1月12日を一斉調査日として行われた環境省主催の全国ガン・カモ類調査結果が載っている。

同支部は南部・北部・中部に分かれて、いわき市内15カ所でガン・カモ類を調べた。この15カ所は同支部の担当分で、ほかにも他団体が市内37カ所で調査をしているという。

私はこれまで、野鳥の会の調査をそのままいわき全体のデータと思い込んでいたが、そうではなかった。他団体分を合算して初めていわき市全体の数字がみえてくる。

というわけで、ここでは野鳥の会が担当した市内15カ所についてだけ紹介する。拙ブログの過去記事も、すべて野鳥の会のデータに依拠しているので、比較検討はあくまでも市内15カ所、ということになる。

まずはコハクチョウから。沼部(鮫川)72羽、三島(小川・夏井川)232羽、塩(夏井川=新川合流部)16羽、夏井川河口94羽の合計414羽だった

去年(2024年)は沼部24羽、三島111羽、塩123羽、平窪~愛谷(夏井川水系では最も古い越冬地)85羽の計343羽だったから、少しは数を増やした。

今年はどういうわけか平窪~愛谷には姿がなく、夏井川河口に大群が羽を休めていた。

ただし、たびたび塩を、日曜日ごとに三島を車で通りながらウォッチングしてきた人間の感覚では、ピーク時には塩も200羽前後はいたように思う。

今年「少ないなぁ」と感じたのは冬鳥のオナガガモだった。三島ではコハクチョウに寄り添うようにしてよく目立つのだが、今年の調査日にはゼロだった。

15カ所全体では、オナガガモは4年度483羽から5年度176羽に激減し、6年度(今年)はやや増加して240羽を数えた。

同じ冬鳥のマガモは減少が著しい。4年度は945羽だったのが、5年度には751羽、6年度は469羽に減っている。

オナガガモやマガモと違って、留鳥のカルガモはどうか。もともとカモ類では数が多い。

4年度の1051羽には遠く及ばなかったが、6年度は632羽と調査した水鳥の中では断トツだった。

大挙してやって来るハクチョウやカモ類は、年によって変動がある。総計で1000羽前後の増減は、私はそんなに気にしない。

暖冬であれば北海道の湖などにとどまっているケースが多いだろう。湖沼が凍結しなければ、あえて南下する必要もない。ハクチョウ類は北の方にとどまっている。

今年の調査日は、その意味ではまだ冬本番ではなかったのではないか。ハクチョウたちがピークに達したのはそのあとだったから。

2025年3月29日土曜日

ペットボトルのキャップ

               
   お茶、ジュース、スポーツ飲料……。たまに自販機からペットボトルを買って飲む。会議にペットボトルが用意されていることもある。

自分で選ぶお茶は決まっている。が、テーブルに置いてあるお茶もなかなか捨てがたい――。年度末の集まりが多いこの時期、いろんな味のお茶を楽しんでは、そんなことを思う。

今やメジャーリーグを代表する大谷翔平選手も、日本のメーカーのお茶を宣伝している。日本茶の商戦は国内外でにぎやかになってきた、ということか。

お茶に限らない。ペットボトルは自分の指でキャップをひねって開ける。このキャップを手ごわいと感じるときがある。

ペットボトルのキャップはボトル本体のリングとブリッジでつながっている。キャップのへりを握ってひねると、つなぎ目のブリッジが切れてキャップがはずれる。

このキャップはずしが高齢者には難しい。加齢や病気で筋肉量が低下する。と、足の筋肉量が低下して歩行速度が落ちたり、疲れやすくなったりする。で、さらに全体の活動量が減少する。「フレイルの悪循環」である。

ざっと1年前、この悪循環に絡めてペットボトルのキャップのことをブログに書いた。

――ペットボトルのキャップもフレイルの目安になるらしい。まだ開けられる。とはいえ、きつくて開栓に手間取るものが出てきた。

この開栓と老衰の関係をネットで検索すると、伊藤園と鹿児島大学医学部による共同研究の結果が載っていた。

キャップの開け方には4つある。「側腹つまみ」「筒握り」「3指つまみ」、そして「逆筒握り」だ。

 逆筒握りは、ボトルを片手で持ち、片手(利き手)でこぶしを下にするようにして、キャップを回すやり方だ。 

研究結果では、前記3つはフレイルについて有意な関係は見られなかった。が、逆筒握りは筋力低下と関係があることがわかった。

東日本大震災ではペットボトルの水の差し入れがありがたかった。今はその開栓ができるかどうかが問題だ――。 

ペットボトルのキャップはなんとか開けられる。しかし、手ごわくなったという意識は変わらない。

そうしたなかで、役所で会議があり、テーブルに用意されていたペットボトル(水)を開栓すると、意外や意外、わりと簡単に開いた=写真。白く細いブリッジを数えたら、12あった。

あとで、別の会議で出てきたペットボトル(水)のつなぎ目を数えたら倍あった。開けるのに手間取ったわけだ。

高齢者に対応したペットボトル? まさか。いや、そうかもしれない、なんて思ったが、楽に開けられるのであればそれにこしたことはない。

 家ではもちろん水道水ですませているが、車で遠出するときにはこれもいいか、そんな気になった。

2025年3月28日金曜日

ミクロの森

                             
   たとえば、いわきの中心市街地からほど近い石森山。そこに張り巡らされた遊歩道のへりに、フラフープ(プラスチック製の輪)を置いたつもりになって読んだ。

D・G・ハスケル/三木直子訳『ミクロの森――1㎡の原生林が語る生命・進化・地球』(築地書館、2013年)=写真。

ハスケルはアメリカの生物学者で、テネシー州にある原生林の地面に直径1メートル余の「定点」を設け、ひんぱんに通って円内の様子を観察した。本書は1年間に及ぶその詳細な記録だ。

帯に本の中身が凝縮されている。「草花、樹木、菌類、カタツムリ、鳥、コヨーテ、風、雪、嵐、地震……。さまざまな生き物たちが織りなす小さな自然から見えてくる遺伝、進化、生態系、地球、そして森の真実」

 森の生態系がもつ物語は、チベットの曼荼羅と同じくらいの面積の中にすべて存在している、と著者はいう。この視点を踏まえながら、紡がれた物語(要旨)をピックアップすると――。

【2月2日】地球の大気に酸素が含まれるようになったのは、約25億年前に光合成が発明されてから。酸素は危険な、化学反応性の高い物質で、酸素に毒された地球からは多くの生物が姿を消し、あるいは身を隠さざるを得なかった。

 ――糠床には嫌気性の酪酸菌がすむ。糠床をかき回さないとこれが増殖して悪臭のもとになる。地球に酸素が生まれたとき、それを嫌って身を隠した生物の一つがこの酪酸菌だったか。

 【5月25日】子育て中のメス鳥はカタツムリが背中にしょっている炭酸カルシウムが欲しくてたまらず、カタツムリを探して森を飛び回る。

 ――カタツムリの本を読んだばかりだったので、理由が気になった。鳥は卵を産む。卵の原材料を調達しないといけない。そのひとつがカタツムリの殻だったのか。

 【12月3日】初めの陸生植物は、根も、茎も、本当の意味での葉ももたない、無秩序に拡がった糸状のものだった。だがその細胞には菌根菌が入りこんでいて、植物が新しい世界にゆっくりと慣れるのを手助けした。

 ――拙ブログでたびたび紹介している植物と菌類の「菌根共生」の始まりがこれだろう。

「もちつもたれつの関係」は地球を覆う緑の8~9割に及ぶ。つまり、菌根が地球の緑を支えている、という認識はもはや一般的らしい。

 【12月26日】この1年、著者は科学的手法を脇に置いて、森に耳を傾けようと試みた。機械や道具を持たずに自然と対峙しようとした。著者は科学がどれほど豊かで、同時にその対象範囲も考え方もいかに狭いものであるかを垣間見た。

 ――私は30~40代前半、休日と平日の昼休みを利用して、多いときには年に100回近く、石森山の遊歩道を巡り歩いた。しかし、ハスケルのような「定点観測」を意識したことはなかった。いわば、定線観測。

あらためて定点、そして定線の両方を組み合わせることでより深く自然の本質に迫れるのではないか、と思った次第。

2025年3月27日木曜日

プラムが一気に開花

                     
   師走も大みそかに近づいたころ、おおよそ次のような文章をブログに載せた。

 ――若いときと違って、老体には寒さがこたえる。子どものころからの冷え性で、外に出るとすぐ指先がかじかむ。ふとんにもぐりこんでもつま先は冷えたままだ。

この冬初めて、家にある湯たんぽを引っ張り出した。それだけではない。ズボン下のほかに、上は毛糸のチョッキ、おちょんこ、薄いジャンパーも部屋着にしている。

暖房は石油ストーブに、時折、ヒーターを加える。ストーブだけだと室温が20度を割ることがあり、ヒーターを付けると逆にすぐ30度近くになる。

早朝は寒さがこたえる。布団を離れると、パジャマの上に外出用の厚手のジャンパーをはおり、ストーブに火をつける。こたつの下の電気マットをオンにする。

毛糸の帽子をかぶって、玄関の戸を開け、新聞と牛乳を取り込む。帽子がないと、たちまち頭部を寒気が襲う。

 うがいも、のどを潤すのも、水ではなく、温水器を通したぬるめのお湯を使う。水だと冷たすぎて歯茎が反応する。食器を洗うのも、秋の終わりのころからお湯に切り替えた――。

 秋が過ぎて冬を迎えたころの私の「防寒対策」だ。ひと冬が過ぎた今は、春に向かって逆のことをしている。

まずはおちょんこを脱ぎ、別の日はズボン下と別れる。それからほどなく湯たんぽをはずす。

ここ数日は日中、石油ストーブを消している時間が長くなった。ヒーターはむろん使わない。

食器を洗うのは、まだ水よりはお湯が多い。うがいは逆だ。だんだん水道水が多くなった。

 これら一連の切り替えは、頭ではなく体が求めてのことだ。彼岸の中日あたりからそんな感じになってきた。

 靴下も冬靴ではむれることがある。通気性のいい夏靴を思い浮かべることも増えた。

 とはいえ、後期高齢者になってからは寒暖の変化がこたえる。体に熱がこもって毛糸のチョッキを脱いだら、翌日は急に寒くなって背中がスース―する、といったことがある。

 衣服の選択は難しい。いや、慎重になったというべきか。若い人と違って一気に衣替えをすると、あとで風邪を引いたりする。

 季節の移り行きを感じるのは天気ばかりではない。3月25日は、晩酌をしていると、ハエがどこからともなく現れて、食べ物にとりつこうとした。

 さすがにそれは困るので、手で払うと当たって食卓に落ちた。まだ動きが機敏ではない。

 この日、役所で集まりがあった。昼近くに終わって帰宅する途中、ツバメを思い出して夏井川の堤防に出た。案の定だった。今季初ツバメが車の前を横切った。

 26日は朝、茶の間のカーテンを開けて庭を見ると、プラムが白い花をつけていた=写真。

 春分の日のあと、山田町では22、23、25日と最高気温が20度を超えた。それで一気に開花したのだろう。

部屋のストーブは朝9時を過ぎると消された。が、夕方5時過ぎには首筋がひんやりしたので、火をつけた。朝晩はまだ寒い。

2025年3月26日水曜日

古い絵はがき

                      
 隠居のある夏井川渓谷の小集落で年度末の寄り合いがあった。私も「半住民」なので、毎年参加する。

 地元の情報に触れるいい機会だ。といって、いつも何かを期待しているわけではない。

 今回は、住民の一人が、私に――と古い絵はがき(カラー写真)を持ってきた。片付けものをしていたら出てきたのだという。

 絵はがきは8枚セットで、旧「いわき市小川・川前地区観光協会」が発行した=写真。「福島県立自然公園 夏井川渓谷」というタイトルが付いている。

 小川分は、渓谷を代表する籠場の滝をはじめ、大滝、水力発電所、背戸峨廊(せどがろ)、二ツ箭山の5枚。

 川前分は、鹿ノ又川渓谷、沢尻の大ヒノキ(実はサワラ=国指定天然記念物)、和田山牧場の3枚だ。

 いつ発行されたのか。絵はがきに付されたコメント(字が小さすぎる)を参考に、あれこれ考える。

 まずは交通手段がヒントになる。下車する鉄道の駅のほかに、「バスの便あり」と記されている。その鉄道も、磐越東線の江田駅は「江田信号所」(正確には「江田信号場」)になっている。

マイカーがまだ一般的ではなかったころ、しかも江田信号場が駅に昇格する前の時代に発行された絵はがき、ということになる。

私が渓谷の隠居へ通うようになって、今年(2025年)で30年になる。30年前にはまだ路線バスが隠居の前の県道を行き来していた。

いわき市が合併するのは昭和41(1966)年10月1日、江田信号場が駅に昇格するのは同62(1987)年3月31日だから、絵はがきができたのはざっと40~50年前か。

渓谷に春を告げるアカヤシオは俗名「岩つつじ」のままだ。和名「アカヤシオ」が認知されるのは、高校の先生がいわき民報にエッセーを書いたあとだから、やはり30年以上前になる。

なかに1枚、致命的な誤記があった。誤記というよりは写真の誤用というべきか。アカヤシオが群生する森に水力の「夏井川第二発電所」がある。その発電所の写真が違っていた。

絵はがきを持ってきた住民に言われて一同、間違いに気づいた。同じ渓谷でもおよそ5キロ下流にある「夏井川第一発電所」の写真だった。

レトロモダンな雰囲気は、第一発電所も第二発電所も同じだが、壁面の窓の有無などで違いがわかる。

この建物は昔も今も変わらない。が、滝はどうか。撮影時の水量にもよるのだろうが、岩のかたちが現在とは違って見える。

水は絶えず流動している。それでいつの間にか岩はうがたれ、形を変える? 古い絵はがきから人間の営みの歴史を、自然の時間の変遷を感じるのだった。

2025年3月25日火曜日

メヒカリ市

                 
   日曜日の晩はいつもの魚屋へマイ皿を持って刺し身を買いに行く。このところ、カミサンの希望で盛り合わせが続いている。

今年(2025年)の「初ガツオ」は2月の前半に食べた。それから1カ月余り。マイ皿をカツオで埋めてもいいのだが、今はまだ冬の延長だ。カミサン同様、ほかの魚を楽しみたい思いもある。

3月23日も盛り合わせにした。カツオは半分、それ以外の魚種は店主にまかせる。皿に盛ったあと、いつものように魚種を教えてくれる。「ブリ、タイ、メヒカリです」。「メヒカリ! 刺し身は初めてだよ」

晩酌を再開したので、刺し身と日本酒を交互にやる。まずはメヒカリから。見た目はイワシの刺し身に似る。脂はのっている。味はわりと淡白だ。

魚屋でメヒカリと聞いたとき、実は全く別の「メヒカリ」が思い浮かんだ。たちまち二つのメヒカリが胸中を行き来し、刺し身を口にしたあとは別のメヒカリのことでいっぱいになった。

別のメヒカリとは、メキシコのマチの名前のことである。環境問題をテーマにした本を読んでいて、アメリカのカリフォルニア州と国境をはさんだメキシコ側に「メヒカリ市」があることを知った。それで、ネットで少しメヒカリ市について調べたことがある=写真。

カル・フリン/木高恵子訳『人間がいなくなった後の自然』(草思社、2023年)に、カリフォルニア州のソルトン湖を取り上げた章がある。その中の一節。

「ソルトン湖は、数千年の間にコロラド川から沈泥でふさがり、海へ向かうルートから一時的に分流することで、洪水と蒸発を繰り返してきた。その昔、この湖はメキシコ国境を越える現在のメヒカリ市を含むほど巨大だった」

ネットで知ったことも踏まえていうと、ソルトン湖の標高はマイナス68メートルと海面より低い。

コロラド川が氾濫すると洪水が流入して湖となるが、やがてまた蒸発して砂漠に戻る。つまり、今あるのは巨大な「水たまり」だ。

現在の湖は洪水と人為的なミスが重なって1905年にできた。「砂漠にできた湖」は、一時、観光名所となるものの、次第に塩分が増加し、周囲から汚染物質が流入して「死の湖」と化した。

メヒカリ市はソルトン湖の南方、アメリカとメキシコの国境沿いにある。人口はおよそ100万人。メキシコのバハ・カリフォルニア州の州都だというから驚く。

メヒカリの名前も、メキシコとカリフォルニアの一部を合成したものだそうだ。「メヒ」はメヒコ、「カリ」はカリフォルニアからきている。

メヒカリ市のすぐ北、アメリカ側のカレクシコも、カリフォルニアとメキシコの合成地名だとか。

トランプ氏が再びアメリカの大統領に就いて以来、メキシコやカナダその他の国との貿易問題がよくニュースになる。

メヒカリ市にも日本企業の工場がある。またメヒカリの刺し身を食べたい――などとのんきに考えるだけではすまなくなった。

2025年3月24日月曜日

春めく陽気

                     
   3月9日の日曜日はカミサンのアッシー君、次の日曜日は雨。で、夏井川渓谷の隠居へ行くのを断念した。23日は春めく陽気になった。3週間ぶりに渓谷の庭で土いじりをした。

実は前日の22日にも隠居へ出かけている。この日午前中、同じ小川町にある草野心平記念文学館で事業懇談会が開かれ、午後はそのまま隠居へ移動して、集落の総会に参加した。

2日続けて渓谷へ通ったことになる。が、前日は目的が寄り合いだった。「時間に遅れないように」。それだけを念じて車を運転した。同じルートなのに、いつものように景色の変化を楽しむゆとりはなかった。

前日に隠居へ着いたとき、入り口にあるアセビの花が満開なのに気づいた=写真上1。3週間前、つぼみはほんの小さな粒々でしかなかった。

春は植物が目覚め、生長する時期。3週間もたつと、形状ががらりと変わっている。下の庭に群生するフキノトウもそうだった。つぼみが頭を出して、びっしり花をつけていた=写真上2。

土いじりだけが目的の日曜日は、やはり時間の感覚が違う。「何時までに」、あるいは「何時何分までに」といった制約がない。

自分の裁量で時間をコントロールできる。隠居へ早く着こうと、遅く着こうと、あまり関係がない。そのゆとりがあればこそ、風景の変化も目に入る。

どこにどんな木が生えていて、いつ花を咲かせるかは、30年も通っていればわかる。

たとえば、夏井川にそそぐ加路川のそばの道沿いにハクモクレンの木がある。ゆっくり通過しながら、咲いたばかりの花を確かめる。

道端の畑に黄色い点々があれば、やはり減速して菜の花であることを確かめる。後続車両がないからこそできるウオッチングだ。

22日には気づかなかったが、平地も渓谷もいちだんと春めいてきた。「花前線」がそれを物語る。

白梅は渓谷でも満開を過ぎた。夏井川流域では渓谷あたりまで分布するヤブツバキが花をつけた。

籠場の滝の上流、山側から県道にかぶさるようにして咲くマンサクは? 車を減速して見上げると、花が満開だった。

ハクチョウはどうか。3月も下旬となれば、いわきからは北へ旅立って姿を消す。夏井川に新川が合流するわが生活圏の塩(平)地内では、3月に入るとあらかた姿を消した。

その上流、三島(小川町)のハクチョウは、22日には10羽前後が休んでいるだけだった。23日も10羽を切っていた。いよいよここからも最終便が飛び立つ。

 次はアカヤシオだ。平地のソメイヨシノと同時に、渓谷ではアカヤシオの花が咲き出す。これこそがわが春の花の本命といっていい。

2025年3月22日土曜日

厚さ・重さが一番

                      
 暑さ・寒さも彼岸まで――。このことわざにならえば、厚さ・重さは春の彼岸の回覧が一番。3月20日に「保健のしおり」その他を配った。

 毎年度末に市から新年度用の「保健のしおり」が届く。1冊60ページ余。これを単純に積み重ねると、「広報いわき」の3倍前後の高さになる。

 わが行政区は、隣組がざっと30班、1班平均10世帯としておよそ300世帯で構成されている。

 回覧資料は班ごとに、郵便物として届いた大型封筒を再利用して振り分け、担当役員さんを通じて各班に届ける。

 この「保健のしおり」のときだけは、厚さがハンパではない。薄い紙袋(大型封筒)では2枚必要になる。それだけで作業量が倍になる。

3年前、ある班長さんから声がかかった。印刷所で働いていて、在庫処分が必要になった大型封筒がある。

「いくらでも欲しい」というと、けっこうな数の未使用封筒が届いた。中に、開くと側面が3センチほどに広がる折り畳み式・閉じひも付きの封筒があった。

ネットで調べたら、「マチ付き封筒」というらしい。マチとは側面部、遊び・奥行きなどのことで、これだと最大16世帯の班でも「保健のしおり」が入る。「保健のしおり」のためだけに、去年(2024年)からこの封筒を使っている。

まずは振り分け方法を頭の中で練り上げる。「保健のしおり」はマチ付き封筒に入れる。ほかの回覧資料(全戸配布3種類、各班回覧3種類)はいつもの封筒に入れる。配るときに2袋をテープでくくる。

「保健のしおり」が届いたときから、あれこれ考えて出した結論がそれだった。作業が長引くと疲れるので、2日に分けて袋に入れた=写真。

配布の朝、各班2袋をテープでくくろうとしたら、マチ付き封筒にはまだ余裕がある。資料をマチ付き封筒一つに集約できるのではないか。試すとほとんどの班がそうなった。テープが必要なのは2班だけですんだ。

次は、届け先だ。300世帯のおよそ半分は中層住宅の団地に住む。ふだんは1階の郵便受けに差し込むだけにしているが、「保健のしおり」はその空きスペースには入らない。班長さんの部屋の戸口まで持って行かないといけない。

団地は担当役員が欠員状態のため、周りの戸建て住宅を担当している役員さんが役員を代行している。私も自分の持ち分のほかに、中層住宅の9班分を引き受けている。

2階はともかく、3階、4階に住んでいる班長さんとなると、階段の上り下りが続く。ドクターから息が切れるようなことはしないでと言われている身には、これがこたえる。今回は3、4階への配布はカミサンにお願いした。

 というわけで、少し時間はかかったが、無事、配布作業が終了した。1年で一番厚くて重い回覧資料を片付けたという解放感、これは「保健のしおり」でしか味わえない。

2025年3月21日金曜日

店がまたひとつ消えた

                      
 頭髪が薄いので、こまめに床屋へ行く習慣はない。後頭部の髪の毛が首筋を覆うようになったところで、そろそろカットしてもらうか、となる。

 先日、近所の床屋へ行くと、入り口のドアに閉店を知らせる紙が張ってあった。店内は暗い。系列の店が少し離れたところにある。そちらへスタッフは移ったという。

 行きつけの店ではあるが、前に散髪をしてもらったのは秋だった。もう4カ月以上前だ。あとで聞いたら、2月で店じまいをした。

張り紙には、系列店は「完全予約システム」とあった。歯科医院と同じように、床屋も予約制になった? にわかには信じられないシステムだ。

床屋へはいつも思い立って出かける。私自身、阿武隈の山里の床屋のせがれなので、客がいれば終わるのを待つ、いなければすぐやってもらう、というのがマチの床屋の流儀だと思っていた。

 家に戻って、ネットで近在の床屋を探す=写真。わが家は国道と旧道の間にある。旧道沿いに数店、平の街にはけっこうな数の店がある。

 さらに絞り込んで検索すると、予約制の床屋が増えているようだ。ある店に電話をしたら、「今日は予約が入っているので」という。やっぱり。

 しかたない。張り紙にあった店に連絡する。「午後3時15分なら」というので、予約して出かけた。

たまたま同じ日、私も親しくしているカミサンの若い友人が来た。床屋から空振りで戻った直後だったので、そのことをぐちると――。

今は予約制が当たり前、予約がない日は別の店でアルバイトをしている、という話になった。

予約とバイトがどこまで進んでいるかはわからない。が、理容業界もすっかり様変わりしたものだ。

私は就職したあと、散髪は主に盆と正月、里帰りをして兄にやってもらった。会社をやめて区内会の役員になってからは、近所の床屋を利用するようになった。区の仕事を通じて女性店主と知り合ったからだ。

女性店主が亡くなると、今度は近くに開店した店へ通うようになった。店主とは旧知の間柄だったので、すんなり溶け込むことができた。

旧道沿いには昔ながらの個人商店が点在している。今はそれが、数えるほどしかない。

もう何十年も前のこと。近所に大きなスーパーができると、ほどなく地元のスーパーが姿を消した。

やがて医院や魚屋が廃業し、銀行・農協・信用組合などの支店も統廃合でなくなり、今度また床屋がひとつ姿を消した。

個人商店の廃業は、店主が高齢になり、後継者がいないのが大きい。わが家も、店としては開いているが、カミサンの実家(米屋)に連動して米の販売・配達をやめた。近所の歯科医院も、同じ理由で閉院した。超高齢社会の、これが寂しい現実ではある。

2025年3月19日水曜日

まずはカブから

                     
 冬は白菜を漬ける。その間は糠床を休ませる。一昨年までは糠床の表面に食塩のふとんをかけて眠らせ、台所の隅に寄せて置いた。

 食塩のふとんで空気を遮断し、カビの発生を抑えて糠床を冬眠させる。これを2年前にやめ、目覚めた状態のままにしている。

何も漬けない。朝起きると、いつものように糠床をかき回す。そうしないと、すぐ表面にカビが生える。

おもしろいことに、糠床に手を入れたときの冷たさで、冬の寒さが実感できる。

真冬はさすがに糠床も冷え切っていた。含まれている水分で凍るようなことはなかったが、手を入れた瞬間に引っ込めたくなる朝がたびたびあった。

その感触が少しやわらいできたのは、3月も10日過ぎごろだろうか。12、13日と、なにか冷たさが違っていた。「冬の冷たさ」から「春の冷たさ」へ――。文字にすると、そんな感じだろうか。

4回目の白菜漬けが間もなく切れる。時期的にはもう1回白菜を漬けるのだが、糠床はすでに春の準備ができている。

となれば、今が切り替えるタイミングだ。白菜漬けの甕(かめ)の方にも、そうすべき事情があった。

1月より2月、2月より3月と、甕の水の表面にできる産膜酵母が増えてきた。毒ではないが、塩分濃度が低かったり、気温が高めに推移したりすると発生しやすいという。

甕から白菜を取り出すたびに、いったん水で産膜酵母を洗い流してから食べるようにした。今季の白菜漬けはこの4回目で終わり――。

では、糠床には何を漬けるか。すぐ思い浮かぶのはキュウリだが、次の瞬間には「いやいや、カブを」となる。

これも毎年書いていることだ。キュウリの前にカブを漬けるのは、いわきの歴史や民俗、生業などに詳しかった故佐藤孝徳さんの言葉が頭にあるからだ。

「キュウリは、八坂神社の祭りが終わるまで食べない」。つまり、7月。露地栽培では確かに、そのころからキュウリが実って食べられるようになる。

しかし、ハウス栽培が主流で、1年中キュウリが出回っている今は、冬でもキュウリが食べられる。

糠漬けを再開するときには一種の戒めとして、孝徳さんの言葉を思い出し、店頭に並んだカブを、まずは漬ける。

金曜日(3月14日)に夫婦で街へ行ったついでにスーパーで野菜を買った。そのとき、カブが目に入ったので、ためらうことなく3株をかごに入れ、帰宅するとすぐ下準備をした=写真。

糠床の乳酸菌は夏場より少ないし、塩分も足りないかもしれない。ふだんは半日だがその倍、24時間を漬けてから1個だけ試しに取り出した。カブの内側にはまだ塩分が浸透していないところがあった。味も薄い。

残りは36時間と48時間、それぞれ時間差をつけて糠床から取り出した。丸2日漬けたのが糠漬けらしい味になっていた。

うま味・風味はこれからだ、唐辛子や山椒の若芽、昆布などを加えて調整していく。それもまた糠漬けの楽しみ、といえばいえる。

2025年3月18日火曜日

にらみあい

                
 朝起きて茶の間のカーテンを開けたら……、また異変が起きていた。3月13日は霧、翌14日は猫だ。

 縁側に猫のベッドがある。いつもは朝、キジトラの「ゴン」が丸くなっているのだが、14日は茶トラが眠っていた。初めて見る猫だ。なぜ、茶トラが?

縁側の端に小さなテーブルがあり、その上に「えじこ」(人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)が載っている。

 3年ほど前、不妊・去勢手術を受けて耳にV字の切れ込みのある「さくらねこ」が庭に現れた。

 カミサンがえさをやると次第に慣れて、縁側で休むようになった。ではと、カミサンが段ボール箱をベッドにすると、そこで一夜を明かすようになった。やがて「ゴン」という名がついた。

 そのあと、よそから譲り受けたテーブルを縁側に据え、段ボールはその下に移して、えじこを新しい猫のベッドにした。えじこはもともと、家で猫を飼っていたときのベッドだった。

 去年(2024年)春、ゴンのほかに黒白の「ハナクロ」が現れた。ゴンはすっかり私に慣れたが、ハナクロはいまだに私の姿を見ると、動きを止めて逃げる姿勢をとる。

 それから1年、今度はどこの猫かは知らないが、茶トラがえじこで寝ていた。一瞬、震災時に飼っていた「チャー」(雄)を思い出した。

あの時、わが家にはチャーのほかに、同じ茶トラの若い雄「レン」と、太った雌の「サクラ」がいた。

チャーは老衰が進行していた。後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかった。私たち人間が避難している間に息絶えているのではないか。案じながら戻ると、ちゃんと自分で歩き、排便もできるようになっていた。奇跡的な回復力だった。

それから1年後、チャーの命は尽きた。レンとサクラは仲が良かったが、2015年の春にレンが、その5カ月後にサクラが死んだ。

さて、えじこはゴンのものであって、茶トラのベッドではない。ガラス戸を揺すると慌てて飛び降りた。

 下にはちょうどハナクロがいた。ハナクロは茶トラにむかって低くうなり続ける。茶トラは振り返り気味にハナクロを見続ける=写真。

 と、次の瞬間2匹が走り出し、壊れて放置された犬小屋と隣家のフェンスの間でだんごになった。

ひとしきりわめき声が響き、足をばたつかせたと思ったら、奥の方へと茶トラが逃げ去り、ハナクロもそれを追って庭から消えた。

 茶トラのしっぽはやや長めで先端が折れ曲がっている。チャーの写真を見たら、やはりしっぽが長く、先端が折れ曲がっていた。

 もしかしてチャーの子ども、いやその子ども、つまり孫? 亡霊のように突然現れた理由はむろんわからない。

 ゴンはこの日、午後にはえじこで丸くなっていた。ベッドをのっとられたわけではない。「茶トラが来たら追い出して」。ゴンをかわいがっているカミサンは、珍しく語気を強めた。

2025年3月17日月曜日

雨の日曜日は街へ

             
 日曜日は夏井川渓谷の隠居へ行く。この時期、畑の隅に生ごみを埋めると、やることはない。

 道中の景色と隠居の庭のウオッチングも、わざわざ時間をとってやるようなものではない。雨や雪になるとつい、行くのをためらう。

3月9日の日曜日は曇りだったが、真夜中、湿った雪が降ったらしい。遠くの山がほんのり白くなっていた。

カミサンはある公共施設で会議がある。隠居へ行くのをよしてアッシー君を務めた。平地を動き回るだけだったので、運転に不安はなかった。

それから1週間後の16日、日曜日。起きたときには曇りだったが、ほどなく雨が降り出した。カミサンに相談すると、隠居へは行かない、街に用がある、という。

 用とは、朝の新聞に折り込まれていたチラシに触発されたものだった。貴金属やダイヤ、切手などの「高価買取」を呼びかけるチラシが入っていた。

 隣家に住んでいた義弟は、若いころから切手収集が趣味だった。カミサンが折に触れて遺品を整理している。未使用の切手がいっぱい出てきた。

一部を、知り合いの古物商が買い取ってくれたが、個人では限度がある。で、新聞にチラシを入れた店へ行って、相談をすることにしたのだという。

 この日、それぞれ別の大型店に入居している競合2店のチラシが入っていた。中身はほとんど変わらなかったそうだ。

 いつものパターンというか、早とちりというか、目当ての店に別の店のチラシを持って出かけた。私はアッシー君なので、ついたてをはさんだ待合コーナーで用が済むのを待った。

 やりとりを聞くともなく聞いていると、きれいな切手シートは半額ということらしく、持ち込んだ切手は無事、買い取りが成立した。

用が済むと、次は図書館だ。が、久しぶりの大型店ということもあって、カミサンは「食品コーナーで買い物をしよう」という。

昼食その他を買う。ここもセルフレジである。別のスーパーとは微妙にやり方がちがう。

終わって、ようやく図書館へ。総合図書館はいわき駅前のラトブにある。雨が降っているので、立体駐車場のある大型店から大型店への移動はぬれなくていい。

雨の日曜日は街へ出かけて用を足す――。2週続けで隠居へ行くのをよしたためか、こんなフレーズが脳内をかけめぐる。

帰りに信号待ちをしているとき、急に思い立ってカメラに手が伸び、フロントガラスの雨粒をパチリとやった=写真。

「ソール・ライターだね」。カミサンが反応する。ソール・ライターはアメリカの写真家だ。

雨の日、濡れた窓越しに人影の映った作品がある。「雨粒に包まれた窓の方が私にとっては有名人の写真より面白い」という。面白い写真は撮れなかったが、雨の日曜日の記録にはなった。

2025年3月15日土曜日

数独を練習

                      
   前に「脳トレクイズ」について書いた。その際、「数独」はお手上げ、しかし90歳になる近所のおばさんがそれを楽しんでいる、ということを紹介した。

 90歳のおばさんができるなら、一回り以上若い人間だってできるはず。とにかく慣れること――。おばさんの「アドバイス」に従って、毎日練習を続けている。

 数独は新聞に印刷されて届く。そのページを抜き取って直接数字を書き込んでいると、カミサンはパズルに連結している部分(4ページ)を読めない。

 やり始めたころは決まって失敗した。どこで間違ったかはわからない。その都度、ゼロから始める。

ボールペンで書き込むと、マス目が埋まってやり直せない。鉛筆だと消しゴムできれいに消せる。

 以来、新聞はそのままにしておく。失敗しても書き込みが繰り返しできるように、問題を紙に書き写して、鉛筆でパズルを解いていく=写真。紙は毎日、新聞に折り込まれる「お悔み情報」の裏面を利用すればいい。

 数独の解き方をあらためて確認する。3×3のブロックに区切られた9×9の正方形の枠内で1~9までの数字を入れる。縦・横いずれも1~9の数字をダブらずに入れないといけない。

 最初は順調に、あるいはゆっくり、それが途中で行き詰まったり、最後の最後になって数字がダブったりする。

なかなか簡単にはいかない。初級・中級・上級とあって、今はもっぱら初級に挑んでいる。

再挑戦、再々挑戦をしてやっと完成、といったレベルだが、90歳のおばさんがいう「慣れだよ」が、少しずつわかってきたような気がする。

とにかく同じ問題をやる。最初に割り振られてある数字を手がかりに、その数字が入るマス目を探す。

縦の列をながめ、横の列をうかがいながら、いっぱいある牛舎の柵(マス目)の中に牛(数字)を追い込んでいく。ここがお前の居場所だよ、まちがっていたらごめん――そんなイメージがわく。

さらに数字が埋まっていって、空いているマス目(ブロックだけでなく、縦・横どちらでも)が二つか三つになったら、まだ使っていない数字を中心に、小さなブロック内をながめ、さらに縦横の配列から逆算して、収まる場所を求める。

残り四つか五つという詰めの段階になって、数字がダブるときがある。これが一番がっくりくる。

だからこそ、同じ問題を何回も繰り返して、体が数独になじむようにする。でないと、上級編に挑戦したのはいいが、やり始めてすぐ鉛筆の動きが止まった、なんてことになりかねない。

「案ずるより産むが易し」だが、初級レベルでも時間はあっという間に過ぎる。慣れるしかない。しかし、数独だけに時間を費やすわけにもいかない。

 これは数独の効果の一つかもしれない、と思うことがある。夜の睡眠が深くなった。時間は変わらない。前より脳を使うようなったからだろう。

2025年3月14日金曜日

一瞬の朝霧

                              
   3月13日は朝6時前に起きた。茶の間のカーテンを開けると、おやっ、庭の景色がいつもと違う。淡い点描画のようになっている。

霧? 2階の物干し場へ出たら、そうだった。あたりがうっすら白くかすんでいる。道路の信号はぼやけ、車はライトをつけて走っていた=写真。

そういえば、このごろよく濃霧注意報が発表される。市の防災メールをチェックすると、3月だけでも3、6、11,12日と4回あった。12日は深夜の11時20分、福島地方気象台から発表されたことを伝えている。

12日は小名浜で15.3度、内陸の山田で16.3度まで気温が上昇し、わが家でも午後には石油ストーブを止めた。晩には雨が降り出し、日付が替わってほどなく、ブログをアップするころにはやんだ。

それから迎えた13日の早朝である。前の日に暖められ、さらに雨で湿り気を帯びた地面から水蒸気が立ち昇り、それが冷たい空気に触れて霧になったのだろうか。

霧のできるメカニズムがよくわからない。いわきでよく知られているのは夏場の海霧だ。

前に調べてブログに載せたことがある。それによると、暖かく湿った空気が冷たい海面に流れ込み、空気が冷やされて霧が発生する。暖流と寒流がぶつかり合うところで発生しやすいということだった。

ついでながら、霞とは「ごく小さな水滴が大気中に浮かび、漂っている現象」で、「水平視程1キロメートル未満」のものを指すそうだ。

同じ水滴浮遊現象でも「もや」は「水平視程が1キロメートル以上10キロメートル未満」と、霧よりはちょっと見通しがよい。

あらためて気象台の用語に当たったら、濃霧とは「視程が陸上でおよそ100メートル、海上で500メートル以下」のものをいうのだとか。

朝霧は、7時前には消えた。同時に、西高東低の気圧配置になったのか、西から冷たい風が吹き始めた。

朝の情報番組を見ていたら、気象コーナーで「春の4K」を紹介していた。花粉・寒暖差・黄砂・乾燥のことだという。

朝霧ならぬ春霞、これは太古から人間の心を引き付ける自然現象だった。「煙霞(えんか)の癖(へき)」である。

「自然の風景を愛し、旅を楽しむ習性」と辞書にある。西行が、芭蕉がそうだった。牧水も、山頭火もそう。

歩行神(あるきがみ)にそそのかされるような、なにかふわふわとした、人をまどわせるような気分を、「煙霞」はもたらす。

しかし、現代はそんな悠長な気分からは程遠い。スギ花粉が舞い、黄砂が大陸から飛んで来る。車のフロントガラスは花粉に汚れ、黄砂にまみれる。そんな「怨霞」の時代に変わった。

2025年3月13日木曜日

たむけの花

              
 夏井川渓谷の隠居の庭に咲いている花を、カミサンが摘んできた。「ヒメオドリコソウかな」と答えたものの、自信がない。自分のブログに載る写真で確かめたら、ホトケノザだった。

 「ホトケノザ? では仏様に供えなくては」。床の間に小さな仏壇がある。そこへホトケノザを小瓶に入れてたむけた=写真。

 仏壇のそばにはカミサンの両親と伯父、弟の写真が飾ってある。両親と伯父は震災前に、弟は去年(2024年)の11月に亡くなった。

 義伯父は晩年、埼玉県からわが家の近くに土地を求め、家を建てて移り住んだ。義弟は震災後、実家からわが家の裏にある家に引っ越して来た。

 義伯父が生きているうちは、カミサンが食事の世話をした。義弟は朝昼晩とわが家で食べた。

 義弟はこの何年か、病院とデイケア施設へ通っていた。病院へは私が車を運転し、カミサンが付き添った。

 「同じ屋根の下」ならぬ「同じ敷地の中」で暮らしていたようなものだ。その義弟の急逝から4カ月がたつ。

 義弟がいないという事実は変わらないのだが、ちょっとした暮らしの場面に、ふと義弟の顔が思い浮かぶ。

 食事のあと、台所で自分の茶わんを洗う。秋を過ぎたころから水ではなく、お湯を使うようになった。

 義弟は、早くからお湯で自分の茶わんを洗っていた。水で洗えばいいのにと、思ったこともある。

 ああ、そうか。義弟も同じように指先が冷えていたのかもしれない。やっと義弟の内面に触れたような気がした

義弟の病気と私の病気は重なるところがある。不整脈、高血圧。義弟はほかに糖尿病をわずらっていた。

毎日飲む薬は私より多い。処方された薬は、カミサンがチェックする意味もあって、わが家に置いてあった。

朝食に来ると、まずはその日に飲む薬をそろえる。食後、台所で服用する。ときに畳の隅や台所に錠剤が落ちていることがある。

私も同じように、処方された薬をそろえて服用する。たまたま手からこぼれ落ちて、どこへ行ったかわからなくなるときがある。

こたつのカバーを上げ、座いすをずらして、小さな錠剤を探す。意外と遠くまで転がっているので、なかなか見つからない。数が多いから落としても気づかなかったのだろう。

施設へ通うときに手袋をすることがあった。抗凝固剤の副作用で皮下出血がおきる。それを隠すためだったろうが、指先の冷えも理由ではなかったか。

義弟のために味噌汁の味が薄くなった。それが今も続いている。これはもう義弟のおかげというほかない。

白菜漬けの食べ方も変わった。醤油を注いだ小皿に七味を振って、それにチョンとつけて食べていたのが、醤油皿が消え、七味も振らなくなった。

義弟の病気は私の病気。生前の義弟の動作がときどき、私のなかで合わせ鏡のように映し出される。

2025年3月12日水曜日

島の本2冊

                     
 いわき市の図書館が情報システムの機器更新を終えて再開された。再開最初の本として、新着図書コーナーから島の本を借りた。

 東京地図研究社『大人のための離島探訪』(技術評論社、2025年)で、次に行くと今度は加藤庸二『島の図鑑――歴史と文化でたどる日本の有人島』(社光邦、2025年)があった。それも借りた=写真。

 御典医桂川家に生まれた今泉よねが、幕末の江戸の様子や自分の家族、家に出入りをしていた洋学者らを回想した本がある。

『名ごりの夢――蘭医桂川家に生れて』(平凡社ライブラリー、2021年)で、中に伊豆諸島の一つ、御蔵島のシイタケの話が出てくる。

御蔵島をよく知りたい。まずは『離島探訪』をパラパラやったのだが……。載っていない。で、『島の図鑑』を手に取ったらあった。

島がそのまま村になっている。人口は323人。ツゲやシイノキの大木がある原生林の島だという。シイタケが自生するわけだ。

それはともかく、島についてはよくわからないところがある。本によっては有人の御蔵島でさえ載らないのに、無人のいわきの照島は載るはずがない?

前に疑問に思ってブログを書いたことがある(2023年4月9日付)。それを抜粋・再掲する。

――国土地理院が35年ぶりに日本の島の数を見直した結果、これまでの6852から1万4125に倍増した、と発表した。

測量技術が進歩したこと、地図の電子化で正確に把握できるようになったこと、などが理由で、周囲長0.1キロ以上の陸地を判断の対象にしたという。

 そもそも「島」とは何だろう。ネットで調べると、「水域に囲まれた陸地」とある。それだけではない。海洋法に関する国際連合条約では、「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるもの」をいうそうだ。

 島の数を見直した結果、福島県の島は13から18になった。「島」より「小さな島」というイメージで「岩」や「磯」などの名が付けられた「島」もあるそうだ。

それらを含めても、県内にはどんな島があって、どんなところが新たに島とみなされたのか、わが検索レベルではさっぱりつかめない。

いわき市の島といえば、照島である。東日本大震災で崩落し、台形から三角形に近い形になった。

久之浜の波立海岸には「弁天島」がある。電子地図にはしかし、名前は出てこない。島とみなされていないのだろうか。福島の18の島はいったいどこにあるのか――。

 福島の「島」に関する疑問は今回も解けなかった。「島」の定義の範囲外ということなのだろう。

2025年3月11日火曜日

チェルノブイリの自然誌

           
   きょうは3月11日。ゆうべのうちに東の海の方を向いて合掌をした。まずはそれからだ――。

チェルノブイリ原発が爆発事故を起こしたのは1986年4月26日。もう39年前のことになる。

事故後の現実を追った本が図書館にあった。メアリー・マイシオ/中尾ゆかり訳『チェルノブイリの森――事故後20年の自然誌』(NHK出版、2007年)=写真。

本書が刊行された時点で20年、それからでもほぼ同年数が経過した。チェルノブイリの森はさらに自然の気配を濃くしていることだろう。

著者はウクライナ系アメリカ人のジャーナリストだ。1989年、キーウを拠点に原発事故の現地取材を始めた。

事故が環境や健康に及ぼした影響に関する資料を集め、立ち入り制限区域をたびたび訪れて、詳細な報告をおこなった。

20年の経過を端的にいうと、人体に危険な原発周辺地域は、動物が生息する森に変わったが、その土地は今なお汚染されている――これに尽きる。

隣国ロシアがウクライナを侵略して以来、両国は戦争状態にある。原発事故と戦争と、ウクライナを思うとき、絶えずこの二つの視点がつきまとう。

一方の日本、なかでも福島県では双葉郡を中心に、東日本大震災に伴う原発事故で多くの住民が避難を余儀なくされた。いまだに帰還困難区域が多数を占めている自治体もある。そういったことを頭におきながら本書を読んだ。

原発から2キロのプリピャチ市は廃墟になった。著者に同行した植物学者がいう。

「人間が出ていったとたんに自然に帰りはじめたの。刈り込んだり、枝ぶりを整えたり、雑草を抜いたりする人がいなくなってしまったからね。都市の景観を維持するには人間の多大な努力が必要なの」

 原発から30キロの地点は「160キロの有刺鉄線と監視所、監視塔に取り囲まれ、『ゾーン』という名でよばれる」ようになった。

 「ゾーンを有刺鉄線でぐるりと囲んでも地元の住民はもとの家にこっそり帰ってきた。(略)汚染された動物が一頭残らず移動されるか処分されたあとでさえも、もどってくる」

 キノコはどうか。「キノコを塩水で五分間ゆでるだけでもセシウムのレベルは七〇パーセント減少し、ニ十分なら九〇パーセント以上減少する。(略)たぶん栄養素や味もほとんど残っていない」。いわきの愛菌家も同じことを試した。味はもはやないに等しかったはずだ。

 ゾーンの100年後は「緑のオアシス」になっていると、ゾーン管理局の局長。そして人口増加のために必要なことは?

 「基幹施設を新しくしなければならないでしょうね。十八年たっているので、何もかも壊れています。店も学校も郵便局も下水施設も」

これらはしかし、カネをかければなんとかなるという。なんとかならないのは……、それは私にもわからない。

 ただ、これだけはいえる。スリーマイル、チェルノブイリに続いて三度目を経験した人間は、不安には半減期がないことを知っている。

2025年3月10日月曜日

黄色いスイセン

        
 起きるとすぐ石油ストーブに火を点け、茶の間のカーテンを開けて、ガラス戸越しに空を見上げる。冬場の朝の習慣だ。

3月9日の日曜日は曇りだった。向かいの家の屋根がうっすら白くなっていた。真夜中に湿った雪が降って、すぐやんだらしい。

庭の車の屋根も白い。が、庭そのものに雪はなかった。家の前の道路も黒くぬれているだけだった。

庭のジンチョウゲは? 赤いつぼみがはじけて白い花びらを数輪つけている。雪はかぶっていない。

その根元で咲き出した黄色いスイセン=写真=も、ぬれてはいるがふだんと変わりはない。

私は、春から秋には、朝、庭に出て歯を磨く。寒気がしみる冬はそれができない。代わりに、ガラス戸越しに庭を眺める。

春、庭に出て歯を磨くのは、地面のあちこちから芽を出すヤブガラシを摘むためだ。

このつる性植物は手ごわい。地下茎で増える。芽を摘んだだけでは終わらない。地下茎そのものを除去しないとすぐまた芽を出す。

前にスコップとフォークで一部、地下茎を掘り取ったことがある。新芽が5~10センチ間隔で出ていた。

そのつど芽むしりをしても、取り残しがある。夏、生け垣に絡まったヤブガラシが花を咲かせていると、「ああ、手抜きをしてしまった」と後悔する。

今は3月の中旬。一陽来復の冬至から2カ月半がたった。朝6時前には窓の外が明るくなっている。

玄関口から新聞を取り込むとすぐ引っ込み、食事を終えてから、ときどきガラス戸越しに庭の芽生えをチェックする。ヤブガラシのことはまだ考えなくていい。

ジンチョウゲが咲き出してからは、日を追って地面の緑が増えてきた。白っぽい花弁のスイセンは、ジンチョウゲよりも、そして黄色いスイセンよりも早く咲き出した。

街からの帰り、夏井川の堤防を利用する。土手にスイセンが群生し、白っぽい花を咲かせている。それとほぼ同時だった。

黄色いスイセンは花茎が短い。カミサンがどこからか手に入れて植えたら、数が増した。

最初はつぼみにも気づかなかったが、咲き出すと次々に黄色い花弁が目に付くようになった。

朝は2、3輪だった花が、午後には5輪になり、ほかの花茎も黄色い花弁を開きつつある――。そんなことが茶の間からわかる。春ならではの息吹だ。

遠くの山を見れば、先日ほどではないが、ほんのり雪化粧をしていた。山間地では道路まで白いかもしれない。

この日は夏井川渓谷の隠居へ行くのをやめた。家で骨休みをと思ったら、カミサンのアッシー君をおおせつかった。平地を動き回るだけだったので、運転に不安はなかった。

2025年3月8日土曜日

「おっ、甘い」

                     
   夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めたころは、面白がっていろんな野菜を育てた。

ポット苗を2株ないし4株買って、小さく仕切ったうねに定植する。サトイモ、キュウリ、ナス、サヤエンドウ、ソラマメ、オクラ……。趣味の菜園だからこそできる少量多品種栽培だ。

しかし、真っ先に挑戦して、真っ先にやめたものもある。トマトだ。週末だけの手抜き栽培では無理、二度とやらないと決めた。

トマトは、雨の少ない中南米のペルーやエクアドルの高原地帯が原産地といわれる。茎に雨よけをしないと、長雨で果実の皮が裂けるのだとか。それを怠ったら、案の定皮が裂けた。

そもそもトマトを、となったのは、小さいころに食べたトマトの味が忘れられなかったからだ。

昭和30年代の高度経済成長が始まる前、家の裏に家庭菜園があった。ネギなどのほかに、1株か2株、トマトを栽培していた。

家のものか近所からのもらいものかはわからない。が、完熟したトマトの甘さが味蕾(みらい)に刷り込まれた。

それが、私のトマトの味の基準になった。今売られているトマトは、その基準からは程遠い。品種が違うらしい。

面白いのはミニトマトだ。生ごみを埋めると、中に残っていたミニトマトの種が芽生える。それは育てる、というより、ほっといても育つ。

 それでもやはり、甘いトマトを食べたい、という思いは、意識の底にひそんでいるようだ。

あるとき、晩酌のつまみに細長いミニトマトが出た。ほかのミニトマト、あるいは普通の中玉より甘い。皮はやや厚めだが、それだって「いい歯ごたえ」のうちだ。一発で好きになった。

 ネットで調べたり、生産者に聞いたりして、種名が「フラガール」であることを知った。「フラシテイ」を名乗るいわきらしい名前なので、一発で脳裏に刻まれた。

 それ以来の、いやそれ以上の衝撃だったかもしれない。先日、隠居からの帰り、平窪にあるJAのやさい館で地場産の中玉トマト「ルビオーレ」=写真=を初めて買った。「おっ、甘い」。皮は厚めだが、中身はみずみずしい。

最初は売り切れて手に入らず、次の日曜日、昼前に寄ったら、あった。2袋を手に入れ、のどが渇いていたこともあって、さっそく車の中で食べたのだった。

 平下神谷の休耕田を利用したハウスで、スマート農法でフルーツトマトの代表品種「フルティカ」を栽培していること、この1月から「ルビオーレ」の商品名で販売を始めたことなどは、いわき民報の記事で知った。

 すると、やはりカミサンが「食べてみなくちゃ」となった。女性は男性よりも甘いモノに敏感だ。

  カミサンの茶飲み友達界隈では、フラガールのときと同じように、たちまちルビオーレの甘さが知れわたったようだ。