2016年6月12日日曜日

『江戸おんな歳時記』

 カミサンが移動図書館から借りて読んでいた本を開きながら言った。「ここに載ってる人……」は三春藩領常葉村(現田村市常葉町)から、俳人と駆け落ちした主婦ではないか。別所真紀子『江戸おんな歳時記』=写真=の冒頭、<新年・初春・元旦>の項に作品が紹介されている。
 人の来て元日にする庵かな 下総 素月尼
 
 下総の素月尼(そげつに)は夫の恒丸と死別して独り住居の庵が、年始の客の訪れによって始めて元日らしくなったと、短い詩型に自身の境涯を暗示して諧謔味ある詠みぶりである――と解説にある。
 
 俳諧研究者や郷土史研究家くらいしか知らない、マイナーな素月尼を取り上げる著者は何者? 略歴に詩人・作家・連句誌主宰とあった。俳諧評論も手がける専門家だ。一昔前、江戸時代の女俳諧師五十嵐浜藻を主人公にした小説『残る蛍――浜藻歌仙帖』(新人物往来社、2004年)を買って読んだ。忘れていたが、その作者だった。

 江戸時代中期の終わりごろ、阿武隈の山里に、俳諧に取りつかれた男女がいて、老いらくの恋に落ちた。今泉恒丸(1751~1810年)、52歳。もと女(素月尼=1759~1819年)、44歳。ある晩、2人は三春駒にまたがって出奔する。

 前に2人のことを書いたことがある(いわき地域学會図書16『あぶくま紀行』1994年所収「石巌山人のこと)。それからの要約・引用――。

 駆け落ち後、夫婦は江戸に住んだ。文化3(1808)年、大火事で焼け出されると、門人の世話で下総佐原に移住する。指導力が抜群だったのか、門人は常陸・房総合わせて4000人ほどいたという。もと女は恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と名を改めた。函館の斧の柄(おののえ)社に滞在中の俳人松窓乙二(1756~1823年)のもとを訪れ、病を得てそこで亡くなった。

 当時としては、駆け落ちは一大スキャンダルだ。ムラの知識人と子どものいない主婦とが俳諧を介して結びつき、風狂の大海へと泳ぎ出した。2人の生涯に触れるたびに、2人にとりついた文学の魔を思う。

 2人については、矢羽勝幸・二村博『鴛鴦(えんおう)俳人 恒丸と素月』(歴史春秋社、2012年)が詳しい。

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