2016年12月6日火曜日

文芸雑誌「文祭」

 ネット古書店を営む若い仲間が、戦後間もなくいわきで発行された文芸雑誌を持ってきた=写真。「文祭」「新浪漫文学」「作風」「原型」「去来」「北炎」などで、「文祭」には記憶があった。
『いわき市史 第6巻 文化』で小説・戯曲・評論、詩の項を担当した作家の故草野比佐男さん(三和)が書いている。

「平に来た川内は、そこで富沢有為男に師礼をとり、一方、地元のほぼ同年輩の青年、菅田甫(はじめ)、芳賀他郷等とも結びついて、雑誌をだす。『文祭』がそれである。雑誌の現物にはあたりえないままに菅田甫の記憶にしたがって記せば、創刊が昭和22年(1947)4月1日で4号まで出ており、執筆者には富沢有為男、山岸外史、小高根二郎等を揃えた」

「川内」は川内康範(当時・河内潔士)。後年、テレビドラマ「月光仮面」を書き、「おふくろさん」などの歌謡曲の作詞を手がけた。「富沢有為男」は芥川賞作家で、平市(現いわき市)の北隣・広野町に疎開していた。

 川内が「平に現れたのは、地元出身の夫人の縁によるもの」で、やがて知人である「川内と入れかわりに丹後沢のほとりへ、真尾倍弘と夫人の悦子が移ってくる。真尾のもとへ地元の青少年が日参」し、旺盛な表現・出版活動が展開される。

 草野さんが未見の雑誌なら書いておく意味がある。第2号(昭和22年6月10日発行)、第3号(同8月10日発行)、第4号(同9月10日発行)が残っていた。第2号の表紙裏と目次から、当時27歳の「文祭」編集者・河内潔士の硬骨ぶりと思想的側面がうかがえる。

 表紙裏、下半分の広告。「腐敗せる文学界へ、便乗商人作家へ、抗議の結集! 純文学季刊叢書(単行本形式) 『日本抒情主義』発刊近し」。執筆者に河内潔士のほか、当時22歳の三島由紀夫の名が見える。目次には広告にもある渋沢均(詩)、小池吉昌(詩)、保永貞夫(詩)らの名が。額賀誠志(詩=児童歌劇)と菅田甫(創作)は地元の人間。額賀は童謡詩「とんぼのめがね」で知られる。

 随想「言論の注射」の筆者・プロテスタントは川内自身と思われる。「【和歌滅亡論】このごろしきりに左翼陣営の連中が、さかんに和歌を三流芸術だとか、滅亡をするなどといって元気のいゝところを示してゐるが、一体彼等の言論の何処に真実性なり批判精神があるのか、吾輩にはさっぱりわからん(以下略)」。草野さんが目を通していたら、批判的に論評したに違いない。
 
 ま、それはさておき、裏表紙の広告には戦後2年に満たない当時の庶民の心情が透けて見えるようだ。今はいわきを代表する建設会社が、当時は「演芸社」を営んでいた。「いつも、よい演劇を、美しい音楽を、そして舞踊を、みなさまに贈ることが、わたくしの念願であります」

 第3号、湯本の温泉旅館古瀧の広告には「石城よいよい 湯本の町は 愛の泉の お湯がわく 今度やすみにや 二人でおいで 浮世苦労が わすられる ソウラほんとに ほんに 湯本はよいところ」と、実際あったかどうかはわからないが、「歌」で来訪・入湯を呼びかけている。川内はコピーライターを兼ねていたのかもしれない。

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