前にも書いたことだが、福島大学の学生が一定期間、応急仮設住宅に住んで被災者と交流する「いるだけ支援」が話題になったことがある。コミュニティの役員をしていて、一番避けたいと思っていること、それは「孤独死」。「いるだけ支援」の目的もそこらしい。
大学へ行ったら「いるだけ支援」をしたいと、高2女子の“孫”がいうので、「『来るだけ支援』もあるぞ」と伝える。ピンときたらしい。年に何度か、一家がわが家へ来てカレーライスを食べる。「そのことか」というので「そうだ」と伝える。
カミサンが先日、誕生日を迎えた。その日の夜、小1男子の孫から電話がかかってきた。「ありがとう、クリスマスプレゼントを買ってあげなくちゃね!」(それを聞きながら思う、「オレの誕生日のときには、電話はなかったなぁ」)
それから2日後のおととい(12月20日)、高2と中3の“孫”と親がカレーライスを食べに来た。焼酎の「田苑」と手製のバースデーケーキ=写真=を持って。
ふだんは夫婦2人だけ。「日だまり」のような暮らしだったらいいが、「雨」も降れば「風」も吹く(夫婦げんかのことを言っているのではない、念のため)。そういう日常に“孫”たちがやって来るのは、いい刺激になる。今の子は何を考えているのか。小1から高2までと話していて、学ぶことがいっぱいある。来るたびに成長している。それを知るのは喜びだ。だから、それも「来るだけ支援」のひとつ。
小学生のときに宮沢賢治を読むように言った。中学生のときには、生徒会長になった話を聞いた。高校生になると活動の範囲が広がった。おとといは大学へ行ったら社会学の勉強をしたいというので、ひとつのたとえとして本質と現象、詩人と新聞記者の違いの話をした。というより、文学を根っこに置いて社会を考えてきた、という体験談になった。
小学生の男子孫はこのごろ、わざと「じじい」と言い間違えるようになったが、女子孫はちゃんと「じいじ」と敬ってくれる。中3孫が(これはすごいと思っているのだが)、ささっと私らの顔をスケッチした。来るたびに描いてくれる。漫画のレベルを超えている。それを残していく。これもまた「来るだけ支援」だ。
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