行きつけの魚屋さんのシャッターが閉まったままになっている。先日、自宅療養中のお母さんが亡くなった。葬式が終わってから半月ほどたつが……。
すると今度は、お父さんが急逝したという風の便りが届いた。きのう(12月7日)、新聞折り込みの「お悔み情報」(チラシ)で確認した。「ふた七日目に亡くなった」というのはほんとうだった。なんということだ。
たまたまお母さんが亡くなった直後の日曜日、いつものように刺し身を買いに行った。葬儀を告げる花輪が立っていた。シャッターが開いていた。若だんなが、さっきまでシャッターを閉めていたのだという。「マグロならありますよ」。タコの刺し身も加えてもらったら、「きょうは、おカネはいいですから」。何度払うといってもいらないというので、お悔みをいって帰った。
ともに85歳。お母さんが亡くなったとき、若だんながいっていた。「おふくろは痛みも感じずに普通に暮らしていられたんですよ。おやじは『当たり所』(文句をいう相手)がなくなっちゃったんじゃないですかね」。がっくりきたのかもしれない。
先代(お父さん)とは、思えば長い付き合いだ。30代半ば、近所のスナックで食べたカツオの刺し身がうまかったので、ママさんにどこから仕入れるのかを聞いた。以来、日曜日には刺し身を買いに行く習慣がついた。いわき水泳連盟の元会長で、水泳講習会を取材したら指導者が先代だった、ということもある。
ふだんの暮らしのなかで不幸が連続するなんてことはめったにあるものではない。私が記憶しているのは二つ。
一つは、昭和8(1933)年のケース。明治40(1907)年にいわき地方で初の民間新聞「いはき」を創刊した吉田礼次郎が63歳で亡くなる。同じ日の夜、病気療養中だった礼次郎の孫娘も息を引き取る。当時の地域新聞に黒ワク(死亡広告)が並んで載った。いわき総合図書館が実施している常設展示「いわきの地域新聞と新聞人」(2011年度後期)で知った。
もう一つは、東北・北海道地方で最も早く肢体不自由児施設「福島整肢療護園」を開設した医師大河内一郎さんの長男と奥さんのケースだ。大河内さんは昭和48(1973)年、脳こうそくで右半身が不随になる。そこへ翌年、大河内病院副院長の長男が、それから10日ほどあとに奥さんが亡くなる。
療護園に勤める友人を介して、大河内さんと会食したのはそれから何年かあとだった。今思えば赤面の至りだが、若造の意見に真剣なまなざしで聞き入っていた。私が今、若い人に学べと自分に言い聞かせているのは、このときの経験が大きい。
夕方、用事を終えて帰宅すると、すごい西空に遭遇することがある=写真。朝寝坊の子どもは朝日よりも夕日に畏敬の念を抱いて育つ。朝の散歩をやめた人間には、なおさら夕空が親しい。その先に西方浄土がある。ただただ祈るしかない。
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