宮大工のS君から電話がかかってきた。「あした(12月8日)、●○寺の『木鼻』を組み立てるので、見に来たら」。●○寺へ行くと、それらしい雰囲気はどこにもない。急いで電話をかける。「『豊間の仕事場で具合を見るために組み立てる』って言ったっぺよ」。晩酌の終わり近くのやりとりだったので、肝心の場所の確認がおろそかになった。豊間海岸沿いの工務所へ急行した。
「木鼻」は木のはしっこで、水平材から突き出た部分に施された彫刻などの装飾のことを言うそうだ。木鼻彫刻の傑作のひとつは日光東照宮の極彩色の象や獏(ばく)、獅子などだろう。
豊間の宮大工の木鼻は、それに比べたらシンプルだ。外観は丸みを帯び、側面には“一つ巴”のような、おたまじゃくしのような曲線が彫り込まれている=写真。「波か」と聞けば「稲の種」だという。木鼻は三つ、ひとつひとつの大きさは目見当で高さ50センチ、長さ150センチほどか。
28年前の平成元年、松材で本堂軒下壁面の木鼻をつくった。出組(でぐみ)という技法だそうだ。北向きの木鼻が風雨にさらされ、湿って腐り始めた。それで、今度はヒノキ材の木鼻に替えることにした。
組み立ててみて不具合があれば微調整をする――その最後の仕上げを私に見せたくなったのはどうしてだろう。ふだんは普通の大工の仕事をしている。しかし、自分の本領はこれだよ、ということにちがいない。確かに、宮大工の棟梁としての仕事を見るのは、今度が初めてだ。
修業中の20歳前後から画家や書家、詩人らと交わり、いわき市立美術館ができてからは学芸員とも付き合いを深めた。なぜ美術に傾倒してきたのか、木鼻を見てわかった。宮大工は木彫家でもあった。その修業のために早くから画家たちと交流してきたのだ。宮大工としての矜持(きょうじ)が私に電話をかけてよこしたのだ。「オレの木彫作品を見てくれ」と。
東日本大震災では自宅が全壊判定を受け、そばにある仕事場が大津波で浸水した。本人は押し寄せる津波からかろうじて逃げのびた。木鼻をつくるのに丸カンナなどが必要だが、それは津波に浸かってさびていた。磨いて再生させた。11月22日の震度5弱の地震では、津波警報が発令された。道具を車に積んで、急いで高台に避難したという。
寺の注文品だから、美術展に出品されるわけではない。軒下壁面にはめられれば、見上げる人もいない。近くで、じっくり見ることができるのは、この最後の仕上げのときだけ――そう、その日しかなかったのだ。
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