新潟県糸魚川市の市街が大火事に見舞われた=写真(NHKテレビ)。宵の6時、午前10時半に出火し夕方も延焼中、というニュースに接して、記憶がよみがえった。
糸魚川は南から北へ、最大瞬間風速24.2メートルの強風が吹き荒れた。あのときは、最大25メートルの西風だった。東西に延びる一筋町が火の海と化した。火災旋風もおきた。そのときの経験から10時間は燃え続ける、と思った。2年前(2014年4月17日)に書いたブログを再掲する。年数は今に変えている。
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1年のなかで最も厳粛な気持ちになる日がある。むろん、個人的にだが。4月17日。60年前のこの日、夜。東西にのびる一筋町があらかた燃えて灰となった。昭和31(1956)年の「常葉大火」(『常葉町史』から)だ。
自分の誕生日や結婚記念日は忘れても、この日だけは大火事の記憶がよみがえる。たぶん、生死にかかわることだったからだ。半世紀余りあとの還暦同級会で、共に避難した幼なじみがしみじみと言っていた。「あのとき、焼け死んでいたかも」。それぞれが荒れ狂う炎に追われ、着の身着のまま、家族バラバラになって避難したのだった。
乾燥注意報が出ているなか、一筋町の西の方で火災が発生した。火の粉は折からの強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまち火の海と化した。
一夜明けると、見慣れた通りは焼け野原になっていた。住家・非住家約500棟が焼失した。少し心身が不自由だった隣家(親類)のおばさんが、近所の家に入り込んで焼死した。それがたぶん、一番ショックだった。
いつからか自分を振り返るとき、あの大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった――そう思うようになった。私がこうしていわきで暮らしているのも、大火事がもたらした結果だと。
7歳では泣かなかった「こころ」が、46歳のとき、阪神・淡路大震災の被災者を思って泣いた。東日本大震災では、泣くだけでなく震えた。
大火事のあと、全国から救援物資や義援金が届いた。いわきからも、双葉郡
からも。そのときの恩を町民は(いわきに移り住んだ人間も)忘れない。3・11後、近所に住むようになった被災者・避難者に、そのときの恩をかえさなくては――そんな思いで接している。
「やっと家のローンを払い終わった」。大火事から30年余が過ぎていたように思う。ぽつりともらした亡母のことばが今も耳に残る。大災害からの再生にはそのくらいの時間がかかる。ところが、放射能はどうだ。1世代、いや次の世代、その次の世代になっても帰れない、というところがあるかもしれない。
きょうは、わが4・17から、阪神・淡路の1・17を思い、東日本の3・11を振り返る日にする。
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糸魚川の被災者の今とこれからを思う。津波被災者や原発避難者を、シリア難民を思う。避難者、難民、被災者。言葉はどうあれ、私のなかではすべてがひとつになる。
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