2016年12月2日金曜日

いわきの除染終了へ

 先日、いわき市から除染の受付と終了の期限が迫っていることを告げる回覧資料が届いた。受付はこの12月で、除染作業は来年(2017年)3月までに終了する、という。
 拙ブログに掲載した写真は、その資料に載る「いわき市内の空間線量率の推移」。左側が事故直後(平成23年7月時点)、右側が最新のデータ(同27年11月時点)だ。

 色からみると、原発震災がおきた23年には川前地区に毎時3.85シーベルト以上の赤のゾーンがあった。27年には0.99~1.93の緑、0.23~0.98の水色のゾーンが残るが、あとはほとんどが0.22以下の青色になった。

 あのとき、NHKETV特集取材班が初めて阿武隈高地の放射能汚染の実態を明らかにした。事故直後の4月3日、「原発災害の地にて」で玄侑宗久さんと吉岡忍さんが対談した。さらには5月15日、シリーズ最初の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送され、総合テレビで再放送されるほど大反響を呼んだ。

 私が川前のホットゾーンを知ったのは、原発震災から2カ月弱、ETV特集の二つの番組の間の5月5日だった。そのときのブログの抄録を再掲する。
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 きのう(5月5日)、夏井川渓谷の無量庵(隠居)へ出かけて畑仕事をした。合間に、必要があって川前の知人に連絡した。すぐ来てくれた。用事がすんだあと、「3・11」以後の話になった。原発事故が今も心に重くのしかかっているという(それは私も同じ)。川前は山間地。平野部の平よりは福島第一原発に近い。市街地の市民とは違った危機感を抱いている。

 いわき市は原発事故では「無印」になった。しかし、「緊急時避難準備区域」(福島第一原発から20~30キロ圏内)に入っているところがある。北部の末続、大久。いわきの山間部では小川の戸渡、そして川内村に接する川前の荻、志田名など。いずれもいわき市の行政・経済の中心地である平からはずいぶん遠い。

 川前は安全か――知人の不安、いらだち、怒り、孤立感は、30キロ圏内の同じ川前の住民の気持ちだろう。「どうしたものか」と聞かれても、「そうですねえ」としか言いようがない。

 住民が自主的に放射性物質の線量計測を始めた。ところによっては、2.88マイクロシーベルトアワーという高い値を計測した。単純計算では、積算線量が年間25ミリシーベルト余になる。飯館村と同じような「計画的避難区域」ではないか、これは。

 いわき市は昭和41(1966)年10月1日、14市町村が合併して誕生した。合併のメリットは財政の効率化、デメリットは地域の問題の潜在化。合併前ならば「村の最大課題」だったのが「市の一部の課題」でしかなくなった。

「2.88マイクロシーベルト」は、「川前村」なら全村避難を検討しなくてはならないような危機感に襲われているはずだ。同じ川前でも川と山がある。夏井川のほとりの市川前支所で「0.15マイクロシーベルト」とあっても、双葉郡により近く標高の高い山地の荻、志田名では線量が高い。
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 そのときからでも5年半がたつ。回覧資料によると、市内の保育園・幼稚園、小・中学校は26年3月までに、公園は28年6月には除染が終わった。住宅・道路・事務所の除染も線量率の高い地域から始まった。これが29年3月までに終了する。
 
 わが家の関係でも、渓谷の隠居では庭が全面除染された。平地のわが家は、自分で線量を測っていたこともあって、除染はしなかった。
 
 区としては、23年11月27日、区の役員と子供を守る会の役員、住民など40人近くが参加して除染作業を行った。通学路を高圧洗浄機で除染し、県営住宅集会所・公園周辺の清掃をした。高圧洗浄には大量の水を使う。放射性物質を下流へ“移染”しただけだった。じくじたる思いが今もある。

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