糸魚川大火で被災者が初めてわが家(の跡)を見たというニュースに接して――。
7歳のときの夜の大火事体験がフラッシュバックのように襲ってきた。昔(といっても阪神・淡路大震災がおきた直後)、被災地図=写真=をかいて、ミニミニリレー講演会でしゃべったことがある。そのときの資料が先日、出てきた。地図のなかで田んぼと山にはさまれた通りで黒くなっているところが焼失したエリア。その中に「わが家」と裏山の「避難先」という書き込みもある。
20歳ごろ、大火事体験を踏まえて何編か詩を書いた。そのひとつ、「大火事の後」というものを分解しながら、当時7歳の子どもの「こころ」を振り返ってみる。
「どうだい、見ろよ/すっかり砂漠じゃないか!/鳩も三輪車もみな灰になっちっまったのさ/おれたちの秘密もなにもかも、ね」
一夜明けた空にはヘリコプター。「だけどもういい、ヘリコプターが/空にひしめいてても/白い水はいらない、雨もいらない/くそっ! いまいましい焔(ほのお)の貪欲さだ/おれたちの積木箱もピストルも/青空の臍のむこうに帰っちまったよ」。子どもには自分のおもちゃや乗り物が焼けたことがこたえた。子ども用自転車も買ってもらったばかりだった。それが燃えてなくなったことが残念でならなかった。
翌日から翌々日にかけての光景。「親父もおふくろもそのまたおふくろたちも/だまって立っている。焼けぼっくいみたいに/これがみんなの待ってた夜明けなの?/この立ちんぼが、焼けぼっくいが?」「それでも、それでも、切ないのさとっても/すすけた指でみんな灰かきまわしてる/もえた愛情や貨幣なんかを探してる/どしてもおれたち炊き出しのおむすび食べられない」。わが家の焼け跡から熱でぐんにゃり曲がった10円玉が出てきた。
「坊やのおうちはどこ?」。近所のおばさんら大人何人か、同級生、牛1頭と、東西に延びる家並みから少し北側の山すそに避難し、町が燃え続けるのを一睡もせずに見続けた。夜がしらじら明け、同級生と2人で、学帽をかぶり、ランドセルを背負ったまま(それだけしか持ち出せなかった)、白煙がくすぶる焼け跡に下りていくと、尋ねられた。
あとで小名浜の叔父から「産経新聞に載ってたぞ」と教えられた。声をかけてきたのは記者だった。消防団の分団長をしていた父親が遠くに立っていた。そこが自分の家があったところかもしれないと思いながらも、口をついて出た言葉は「知らない」。「おれたち、<おうちを探す子ら>だって?/畜生、おわらい草さ、冗談さ/新聞記者なんて、しょせん/虚妄の商人、事件のコレクター」。詩を書いた2年後、「虚妄の商人」になった。
こんな散文詩も書いた。「風と火がごっちゃになって、ある町を、一夜のうちに焼野原にしたときのこと。最後の最後まで、みごとによく燃えたのは、道々のデンシンバシラであった。丸くて長いすらりとした木であったから、ほんとによく燃えた。そこで、こんどは、燃えないコンクリのデンシンバシラが、酒屋だの、床屋だののバラックが、なかば完成した、ちょうどそのころに、昔よりはずっと立派にきれいに立てられた」
バラックから本格住宅へ――。「常葉大火」では間もなくそういう流れができた。糸魚川ではどうなるのか。
火事は「思い出」まで灰にする。私は小学1年生までの写真がない。私の赤ん坊のときの顔は、幼児のときは、小学校に入学したときの様子は――まったく思い出せない。人生の最初期の写真が欠落しているものだから、記憶はあいまいなままだ。今はデジタル技術がある。パソコンが無事だったら……などとテレビを見ながら、7歳に戻って自分の家の焼け跡に立っていた。
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