2018年3月30日金曜日

明治37年の「平町謡曲連」

 この半月、仲間と収支予算・決算、事業報告・計画書をつくったり見たりしながら過ごした。年度末には欠かせない作業だ。きのう(3月29日)、ようやく峠を越した。4月になれば年度初めの行事がある。が、3月後半ほどではない。
 きのうの午後は気分転換を兼ねて、知人からあずかってデータ化した、明治~昭和時代の写真をながめて過ごした。前から気になっていた集合写真がある=写真。裏に「平町喜多流謡曲連」「明治三十七年三月写」とあって、写っている人間の名前と年齢が書き込まれている。

 知人の曽祖父が前列左端に写っている。「小島藤平 65歳」。平・三町目に「十一屋」があった。本店の「洋物・十一屋」の向かい、「染物・十一屋」の主人だが、当時、既に長男の寅吉に家業を譲っていたのではないだろうか。

『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)の<能楽>編に、この「謡曲連」に関する記述がある。「平町喜多流謡曲会」は明治28~9年に発足した(「謡曲会」が正式な名称だったか)。それから8~9年後の記念写真だ。

「山崎與三郎 40歳」(中列左から3人目)はいわきの史書や人物誌に名を残す。同市史にも「現在の平二町目谷口楼のわきに大正3、4年ころ、協楽亭とよぶ寄席がつくられた。これはおもに本町通りの商店の主人公たち、しろうと衆の芸事の発表に使用された。浪花節・常磐津・小唄もりたくさんであり、塩屋の山崎与三郎、長橋町の川崎文治の父木沢常松などが中心とされた」とある。

 本町通りの商店主は芸事に熱中した、そのための寄席まであった――とは、尋常ではない。江戸時代、商家のあるじのなかには、一日の仕事を終えたあと、趣味の俳諧に興じたり、調べ物をしたりする人間がいた。これを「余力学問」という。その気風が明治の世になっても引き継がれ、発展した(病膏肓=やまいこうこう=に入るところまでいった?)、ということだろう。
 
 さて、「謡曲」だが――。能楽の「仕舞」に連動した「せりふ(謡い)」のことをいうようだ。素人には、抑揚をつけてうたう「高砂や、この浦舟に帆を上げて……」くらいしか思い浮かないが、本町通りの商店主がこの謡いに熱中した。

 大正4(1915)年には「平喜多流謡曲会」を発展解消して、「平喜多会」ができる。会の趣旨として「謡曲ハ能楽ノ基礎ヲ為スモノニシテ純日本ノ国風ヲ示シ、日本的風景ノ美ヲ謡ヒ日本的人情ノ粋ヲ写シ」た高雅な趣味である、とうたっているそうだ(いわき市史)。集合写真の表と裏を交互に眺めては、この時代の、平のダンナ衆のすごい「ゆとり」を思う。

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