古巣のいわき民報に月初めの月曜日、「あぶくま、星の降る庭」と題して、阿武隈高地の自然と人間の営みについて書いている。58回目のおととい(3月5日)は、いわき市川前町の縄文晩期・葵平(あおいだいら)遺跡に触れながら、吉野せいが若い日、八代義定に連れられてそこを訪れたのではないか、ということを書いた。
いつもはブログから新聞に“転載”するかたちを取っているのだが、今回は初めて、新聞からブログに“転載”する。写真は2009年11月1日に撮影した夏井川渓谷のものに替えた。
<あぶくま、星の降る庭58・葵平遺跡>
それぞれの年譜を照らし合わせると、大正9(1920)年のことにちがいない。小名浜の若松せい(晩年、『洟をたらした神』を書いた作家吉野せい)が、同年、福島県史跡名勝天然記念物調査委員会委員史跡担当になった八代義定と川前を訪れたのは。
このとき21歳のせいは、義定の自宅(鹿島)の書斎「静観室」に通い、思想書や哲学書、文学書を読みあさっていた。
「八代氏は私をつれて、よく貝塚や土器の発掘に立ちあわせた。ある日は川前まで遠征して、帰途は人影もない夏井の渓流沿いに小川村まで歩いたこともある。水は海しかみていない私は、渓谷の美しさを、水の清らかさをはじめて見た」(『暮鳥と混沌』)
同時期、静観室で、開拓農民で詩人の吉野義也と会う。義定が仲を取り持った。2人は翌10年に結婚する。
先日、『橘月庵遺文 根本忠孝遺稿集』(同遺稿集刊行会、平成17年)を読んでいて、せいが川前のどこを訪ねたのか、わかった(ような気がした)。
忠孝は川前の考古研究家だ。大正7年、自宅のある川前・下桶売字高部地区で縄文晩期の「葵平(あおいだいら)遺跡」を発見する。遺跡の前を葵川(鹿又川)が流れている。
遺稿集には義定来訪の記録はないが、義定がせいを連れて川前へ遠征したのは、葵平遺跡を見るためではなかったか。
せいの文章から、行きは開通して3年ほどたつ磐越東線を利用して川前駅で降り、帰りは徒歩で鹿又川に沿って川前へ戻り、夏井川渓谷を下って小川郷駅から列車に乗った――そんな道行きが想像できる。
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