ちょうど去年(2017年)の今ごろ、在来種の豆を調べている長谷川清美さんという女性が、いわきの在来小豆「むすめきたか」を調べに来た。私のところに問い合わせがあって、いわき昔野菜保存会の仲間を紹介した。仲間が生産者の住む三和町へ案内するのに同行した。
長谷川さんから『べにや長谷川商店の豆料理』(パルコ刊)をいただいた。同商店は北海道にある彼女の実家で、本は長谷川さんが2009年に書いた。2015年で「第9刷」とあった。ロングセラーの豆料理本だ。
まず、インゲンマメの種が登場する。北海道に数多く存在する在来種の豆のほとんどがインゲンマメ系だという。ビルマ豆もあった=写真。「むかし小豆が不作だった年、小豆のかわりに餡(あん)の材料に使われたといいます。比較的収量もあり、ご飯といっしょに炊くビルマ豆ご飯は北海道の郷土食です」
生産者の声も載っている。彼女が取材した2008年時点で88歳だった女性。「ビルマ豆は病気や冷害に強い」「小豆は売り物で、もっと安いビルマ豆は自家用の食べ物だった」。ビルマ豆を煮てマッシュ(つぶして裏ごし)し、塩餡にしたものをそば粉で練った生地の中に入れて、丸めて団子にしたそうだ。
大正14(1925)年4月、開拓農民として現いわき市好間町から北海道へ移住した詩人猪狩満直が、故郷の盟友・三野混沌(吉野義也)に手紙を出す。
「ここ二ヶ月というものは粉骨砕身、文字通りの生活だった。殆ど時間空間の意識もないはげしい労働の中に躯(からだ)を投げ込んでいた。予定通り二町歩の開墾終了。稲黍(いなきび)、ビルマ豆(菜豆=さいとう)、ソバまいた。(略)秋の霜害がなかったらこれで飢える心配はない」(吉野せい『洟をたらした神』所収「かなしいやつ」から)
稲黍、ソバはともかく、ビルマ豆ってなんだろう。このところずっと、ビルマ豆が頭の中で残響していた。なにかヒントがあるかもしれない――長谷川さんの本を思い出してパラパラやったら、ヒントどころか答えが載っていた。
今でこそ北海道は新潟県に次ぐ米の生産地だが、大正時代にはまだまだ稲作地域は限られていた。代わりに、稲黍とビルマ豆、ソバを栽培して、家族を養おうとしたわけだ。
満直の未刊詩集『開墾地風景』に「イナキビ御飯」が出てくる。米に稲黍をまぜたご飯だったか、稲黍だけのご飯だったかはわからない。が、郷に入れば郷に従えで、満直一家は次第にビルマ豆ご飯やビルマ豆のそば団子といった北海道の郷土食になじんでいったのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿