もう1カ月も前のことになる。いわき地域学會の市民講座で馬目聖子会員が「勿来関と源義家の受容について」と題して話した=写真。
先行研究を踏まえて、勿来の関と源義家がどう結びつき、どう世間にイメージが定着したかを、四つの視点から紹介した。すなわち、①本人・子孫のヨイショ②説話集によるヨイショ③神話・伝説的なヨイショ④近世以降のヨイショ――が積み重なって、「山桜・勿来の関・源義家」のイメージが流布し、根づいた。8世紀に及ぶヨイショの歴史に踊らされていたのか、われわれは……。
今の勿来の関は、江戸時代、磐城平藩を治めた内藤の殿様が藩の儒臣葛山為篤に命じて編纂(へんさん)させた「磐城風土記」に初めて登場する。その流れのなかでヤマザクラの植林などが行われ、「勿来の関は磐城の地にある」ことが定着した。歌枕としての「勿来の関」と史実としての「菊田関(実際には、左に戈ふたつ、右に刀の別字)」は違う。勿来の関は宮城県利府町にあったのではないか、ということは地域学會の先輩の論考で知った。
ここは「勿来の関」「源義家」両方の「虚」と「実」を押さえておかないと――。この1カ月、いちいち参考資料名は上げないが、図書館から本を借りて読みあさった。
基礎の基礎として、①「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな」は、辺境に向かう心細さをうたった「作者不明」の伝承歌だったらしい②月詣和歌集(1182年)、その6年後にできた千載和歌集に義家作として収載されたのは、義家に対する編者のヨイショ(今はやりの言葉でいうとソンタク)らしい――ことがわかった。
これに、江戸時代の磐城平藩の文化政策が加わり、さらには住民による歌碑の建立、文人墨客の来訪などのほか、現JR常磐線が開通するときに地元の熱意が実って「勿来駅」が開設される、村から「勿来町」へ、さらに「勿来市」へと自治体名が改称される、といったことが共振・伝播して、勿来の関と源義家と山桜のイメージが定着した。
これらのヨイショには、こうあったらいいなという単純な願望、そうあることによる観光・経済効果への期待だけではない。義家を「軍神」とあがめる一部の人々の意思のようなものも感じ取れる。
いわき地域学會が図書を刊行する際の“戒め”がある。その一節。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」。この戒めを思い出した。
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