ちょうど1カ月前、拙ブログで明治39(1906)年2月におきた「平大火」を取り上げ、平(現いわき)駅前にあった「平座」が焼失した話を書いた。昭和6年の略図には、今の世界館ビルあたりにひときわ大きい字で「平劇場跡」とある=写真上。コピーをくれた若い人が「平座のことですかね」という。「いや、平劇場とあるから、平座ではないね」。今度は平劇場について知りたくなった。
このところ必要があって、『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)をパラパラやったり、図書館のホームページで昔の地域新聞をスクロールしたりしている。偶然、ほんとに偶然、別件で昭和4(1929)年1月1日付常磐毎日新聞を開いたら、2面に平劇場火災の記事が載っていた=写真下。労せずして知りたい情報が飛び込んできた。
昭和3年12月30日午前1時50分ごろ、平町白銀町の「平劇場から発火し/全焼5戸半焼4戸/大建築物が密接し/負傷5名を出す/原因は未だ不明」。2段5行見出しと目立つ扱いだ。5面には出火おわび広告、近火見舞いお礼広告が載っている。
昔、地域新聞は欄外日付の前日に夕刊として配達された。元日付は12月31日に届いた(これは今もそうだが)。ただの新聞ではない、めでたい元日号である。年賀広告で増ページされている(常磐毎日新聞は通常の3倍、6ページ)。
それぞれのバックナンバーでチェックする。27日付ないし28日付社告で各紙は、これで年内発行は終わり、元日号の準備・印刷に入る、31日(実際には30日)まで休む、といったことを読者に知らせている。
つまり、1月1日付の新聞は、どこも29日までに印刷を終え、31日に配達するばかりになっていた。ところが、30日未明に劇場火災が起きた。類焼もあった。大ニュースだ。他紙は元日号をいじらずにそのまま配達したが、常磐毎日新聞だけは一部記事と広告を差し替え、印刷し直した――そんなことが読み取れる。経営兼編集トップ・川崎文治のプロ意識には脱帽だ。
念のために『いわき市史 第6巻 文化』を開く。<演劇>の項にこうあった。明治44年、平駅前に有声座が開業し、やがて今の「世界館ビルのあるところに移転再建され、平劇場と称した」「ビザンチン様式のトタン瓦葺のモダンな建物」だったが、「正月興行の準備なった暮(れ)の30日に不運にも焼失した」。
<映画>の項には「関東大震災の時、たくさんの避難民が東北にもおよび平で途中下車するものが多く、避難民の立ち寄る宿泊所として、有声座をはじめ聚楽館・平劇場・平館は一斉に休業し、施設を提供した」とある。
同じ筆者が<演劇>では、有声座が平劇場になったとし、<映画>では「昭和10年(略)、有声座が世界館へと変ってゆく」と書いている。ところが、今度手に入った昭和6年の地図には、平駅前・住吉屋支店の西隣に有声座が書き込まれている。平劇場が焼けたあとも営業しているということは、両者が共存していた時期があったわけだ。この矛盾をどう解釈したらいいのか。新たなギモン、宿題が生まれた。
そうそう、平劇場火災では歴史家諸根樟一(1893~1951年)の家が類焼している。諸根はこの火災で貴重な資料を焼失し、破産して、上京せざるを得なくなったという。関東大震災で各劇場が一時避難所になったことを誇らしく思う一方で、著述に命をかけた歴史家の無念さが波紋となって広がる。
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