2018年3月26日月曜日

正座と鬼瓦とシイタケ

 きのう(3月25日)は昼前、義母と義伯父の十七回忌の法事を行った。寺の本堂で住職の読経中、正座をしていたが……。うながされて焼香に立とうとした前列の男ども4人が、私を含めてこけたり前のめりになったりした。いやはや、年をとったものだ。
 法事の前、少し時間があったので、墓地をぶらついた。そのうち孫もやって来た。4月から5年生になる上の孫に、本堂の屋根に鬼瓦=写真=があることを教える。あとでその子が「富岡に行って来た」という。孫の母親の母親は双葉郡富岡町出身だ。
 
 富岡町は2013年春、避難指示区域が解除され、日中の出入りができる避難指示解除準備区域と居住制限区域、立ち入りができない帰還困難区域に三分された。それから4年後の去年4月、帰還困難区域を除いて避難指示が解除され、帰還が可能になった。
 
 孫の母親の親戚が帰還した。帰還困難区域のそばなので、帰るのをためらっていわきに住んでいる親戚もいる。帰還した親戚の家をみんなで訪ねたのだろう。
 
 上の孫はそこでなにかを感じたからこそ、「富岡に行って来た」と私に告げたにちがいない。私は「そうか」と答えただけだが、少し大人の会話ができたように思った。
 
 法要のあとはカミサンの実家で一休みした。茶の間の窓越しに庭を眺めていたら、来月から小3になる下の孫と目が合った。庭の木の下に置かれた榾木(ほだぎ)からシイタケが出ている。指をさしたら気がついた。「シイタケだ」。孫は母親を呼んで一緒に見た。
 
 榾木は最近、そこに置かれたようだ。まだ3月。厳冬が過ぎて、急に暑い日があったりする。それで、かえって目覚めが早まったか。それとも、いわきの平地のシイタケは、3月の下旬になると生えるのか――。(これは食べられるだろう)
 
 昼食会に移り、富岡町の家の話になった。周囲は除染された。が、家の中の線量が高い。結局、屋内の除染・改造が行われた。畳から冷たいフローリングの床に替わった。
 
 原発事故は人災、しかも自然災害の範疇をはるかに超える。一世代、二世代はおろか、その先になっても廃炉作業は終わらない。
 
 先日、事故を起こした1F(いちえふ)に最も近い福島地裁いわき支部で、東電を相手取った集団訴訟の判決が出た。避難住民は怒りと落胆を募らせたことだろう。
 
 福島民報は論説でこう書いた。「先の前橋地裁の判決より責任の評価を後退させたようにも見える。ふるさとの全てを、将来にわたって奪い続ける責任は、そんなに軽いのだろうか」「原発事故による避難は地域の破壊そのものであり、強奪であり、終期の見えない強制的な移住であり、突き詰めれば命を奪うという数々の人権侵害だった」

富岡町の建物の話を聴き、知り合った原発避難者の一人ひとりの顔を思い浮かべながら、しばらく論説の核心部分を反芻した。

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