このごろ、津波被災者の話すことばが重い。刑務所の塀のように高い海岸堤防と、丘のように土盛りされた防災緑地――。大津波では住むまちが破壊され、防災工事ではまちのかたちと思い出が破壊された、ということだろう。海の見えない不安が影響している。
ハマの隣接地域に住む映像作家戸部健一さん(平下高久)が、震災前からいわき民報に「ファインダーがくもるとき」を連載している。今はタイトルに「続」が付く。
おととい(1月20日)の文章=写真。震災当時、老母はハマ(豊間)の歯科医院に通院していた。送迎は戸部さんが担当した。たまたま津波の犠牲者にならずにすんだ、と書いている。読み終えて思い浮かんだことが二つある。
一つは、「時間指定」の配達で同じ地域で大津波に襲われた知人がいたこと。「その家の屋根になんとかはい上がったが、周りは水、ずぶぬれになって死を覚悟した」。そう問わず語りに明かしたのは去年(2015年)の晩秋だった。これまで自分の体験を他人に話すことができなかったという。死を覚悟するほどの恐怖と絶望を言語化するには4年以上の時間が必要だった。
もう一つは、街の本屋さんが持ってきた「農文協通信」2016年春号の記事。哲学者内山節さんの講演要旨などが載っている。
内山さんへと連想が及んだ戸部さんの文章。「災害による『新しい風景』は私たちには馴染めないものだった。/いま、『ハマの街』は、すっかりその様相を変えてしまっていた。/人住まぬ巨大なコンクリートの壁に取り囲まれて、『街』は、そして『文化』は、どうなってしまうのだろう」。津波被災者の思いを代弁している。
文章を戸部さんはこう締めくくった。「私たちは、目先の施策や政策にまどわされることなく、百年先、いや千年、二千年先を見据えた、壮大なプランを樹(う?)ち立てることが、大切なのではないだろうか」
「農文協通信」の記事によれば、内山さんは「行政は何でも5年計画。目先の利益を追うから理念が生まれない。5年から100年に時間軸を延長すれば、“何をつくるか”から、“何を残すか”という計画にかわる」と、新聞に書いた。戸部さんの文章は、この「何を残すか」と響きあう。
3・11から5年がたとうとしている今、急ピッチで「創造」中のハマにどんな100年後を思い描けるだろう。少なくとも「鳴き砂は残す」といったような配慮、想像力がはたらいているようにはみえない。
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