2016年1月4日月曜日

庭の防空壕跡

 神谷(かべや)公民館の後期市民講座のひとつを引き受けた。「地域紙で読み解くいわきの大正~昭和」と題して、昨年(2015年)11月から月1回、4回シリーズで話している。3回目の今月は銃後の「太平洋戦争」を予定している。
 日中戦争下の昭和15(1940)年秋、いわき地方の日刊5紙が「磐城毎日新聞」に集約される。同紙はやがて「1県1紙」政策のなかで福島民報の「磐城夕刊」になる。が、それも16年8月で息の根を止められ、9月から太平洋戦争が終わるまでいわきでは地域新聞は発行されなかった。戦争になると、まず地域メディアが整理される、ということだ。
 
 1カ月前にも当欄で書いたが、昭和16年の年初の情景は、すでに戦争一色だった。その前からずっとそうだった。1月22日付磐城毎日新聞には「市防空壕設計成る/物見岡稲荷神社下部貫通/工費二十万円で道路開鑿(さく)」「六号国道改良して/公園下隧道案/平市は労せず防空壕を得る」といった記事が載る。日中戦争下、さらに次の対米戦争に備えたものだったろう。
 
 その半月前、1月7日付(6日夕刊)に「家庭(防?)空群も参加/警防始めの式挙行/優良団員、火防組、防空群表彰」の記事が載る。今でいう「出初め式」だ。昭和12年に「防空法」ができる。「家庭防空群」はそれに基づいたものだろう。具体的には、室内の光の隠蔽、バケツリレーや火たたき(消火)など、隣組レベルでの防空(逃げずに火を消せ)をさすらしい。
 
 75年前の磐城毎日新聞は、今のいわき民報がそうであるように、大みそかに元日号が配達されたのではないか。そして、年明け最初の月曜日、6日に昭和16年の最初の新聞が発行された。今年は、きょう(1月4日)がその「仕事始め」だ。
 
 ま、それはそれとして、2日にカミサンの実家へ年始のあいさつに行ったついでに、敷地内に残る防空壕跡=写真=を撮影し、あらためてカミサンと義妹から話を聞いた。地図を書いてもらったので、庭から家の下へと続く防空壕の全体像がやっとつかめた。私の今年の「仕事始め」がこれだ。
 
 カミサンの実家は米穀店で、昔は屋敷のそばを流れる農業用水(好間江筋)を利用して、水車で精米をしていた。庭に水路が引かれていた。大半が暗渠で、その旧水路を防空壕に転用した。近所の人にも開放された。水路の幅は目測で2メートル弱はある。
 
 戦争が終わってからは、カミサンたちがかくれんぼをして遊んだり、一時、義父が開放部に水を張って鯉を飼ったりした。暗渠の部分はすでに劣化が進んでいる。開放部も石段ができたり、土砂や草で埋まったりしている。
 
 いわきの大正ロマンを調べ始めてから10年近く。いわきの近代史探検は、「昭和の戦争」まで広がってきた。街なかに残る数少ない戦争遺産も、体験者の記憶にまかせているだけでは、いずれただの空洞・溝になってしまう。というわけで、年始を利用して“聞き取り調査”をした次第。酒に酔いつぶれるだけの三が日ではなかったのでよかった。

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