きのう(1月10日)は朝、夏井川渓谷の隠居へ行くとすぐ、写真撮りを始めた。テレビやラジオ、フェイスブックを介して、各地から梅やロウバイ、スミレなどの開花情報が届いた。それを確かめるのが目的だが、ついでにおもしろい被写体があればパチリとやる。ふだんはブラブラ歩きが中心で、目的を持って撮りに行くことはまずない。
道路沿いにあるカエデの枝先に水滴がついていた。ほかの木にはない。なぜかカエデだけだ。「カエデのしずく」「カエデの涙」なんて言葉が浮かんだが、要は「カエデの露」。直径2~3ミリ、線香花火の火の玉くらいの大きさしかない。いつもの「オート」では拡大するとピンボケになる。
ここは「接写」だな――半月前のクリスマスの晩、わが家へやって来た高1の疑似孫が、私のデジカメで自分の家族や私ら夫婦を撮影した。「花(チューリップ)」のマークに合わせれば接写(クローズアップ)ができる、という。昔、別のデジカメを買ったとき、息子にもそういわれた記憶がある。で、一時、接写に熱中した。それを忘れていた。
以来、撮影モードダイヤルをときどき「花」のマークにして接写を楽しんでいる。梅の花、木の芽、木の実……。すると、ほかのマークはなんだろう。疑似孫に指摘されて初めて気になった。「使用説明書」が座右に置いてある。息子からは「ちゃんと読むように」と言われていた。それを読まずに「オート」一本やり、言い方を変えればデジカメの多機能性を使いこなせないでいたのだ。
接写したカエデの露をパソコンに取り込んで拡大したら、露の表面に青空と白雲、おぼろな太陽、裸木が映っていた=写真。2ミリの露にも無限の世界が宿っている。極大と極小が同時に表現されている。それこそ「詩」そのものではないか。
余韻にひたって晩酌を続けながら、Eテレの「日曜美術館」(再放送だが、童謡詩人まど・みちおさんの、「詩」ではなく「絵」を取り上げたもの)を見ていたら……。絵に関連して「ブドウのつゆ」という作品が紹介された。
「私の中に おちてくる/ブドウの つゆの/この一しずくの あまずっぱさが/こんなに はるかな 光の尾をひくのは/そのはじめ/かみさまの 心の中に/生まれていた思いだからなのか/そして私にたどりつくまでの/なんおく年間/そんなにまぶしい銀河の中を/めぐりめぐって いたからなのか(以下略)」
詩人はたった「ひとしずく」のなかに宇宙を見た。自然はしかし、とっくにそれを表現していた。カエデの露に「目でさわる」ことができたからこそ、そんな感慨にひたった。
本当は梅やヤブツバキの花前線のことを書くつもりでいたが、それはあしたに。「ひとしずくの宇宙」を見たからには、まずそれを、という気持ちになってしまった。
0 件のコメント:
コメントを投稿