社会福祉施設で働くことになった若い仲間が、正月に遊びに来た。いわき市錦町に双葉の特別養護老人ホームができるという。わが家から車で5分ほどの川向かい、平荒田目(あっため)には浪江の同ホーム「オンフール双葉」が引っ越してくるともいう。
「JAの施設か何かだと思ってたが、『オンフール双葉』なんだ!」。沿岸部の豊間や小名浜へ行くのに、ときどきその前の県道を利用する。夏井川に架かる六十枚橋を渡った先の交差点にJAの施設がある。その隣でなにかを建設していた。「オンフール双葉」と聞いて、なぜかホッとした。
というのは――。2011年3月12日、「1F(いちえふ)」の1号機の建屋が、次いで14日に3号機の建屋が水素爆発をした。15日午後、孫や姪を含めて3家族で西へ避難した。真夜中に着いたところは白河市の奥、標高1000メートルほどの西郷村「国立那須甲子青少年自然の家」だった。そこに、「オンフール双葉」の入所者と職員の一部も避難してきた。
「オンフール双葉」の苦難は、あとで新聞で知った。あのとき、200人の入所者と職員が取り残された。福島県警の特別機動パトロール隊がバスで20キロ圏外に搬送したという。うち30人余が西郷村の「自然の家」にたどり着いたのだった。
「自然の家」には、ピーク時には700人の避難者がいたのではないか。食堂でいわきの知人に会い、後輩に会った。ふるさとの田村市常葉町の知人にも会った。
そこで見たことのある人と、今も自宅の近くですれ違う。近所に住んでいながら知らなかったか、あるいはその後、近所に住むようになったか、そこはよくわからない。会えば、あいさつをする。向こうはなぜあいさつされるのか、たぶんわかっていない。それでもかまわない。私にとっては短い期間でも同じ屋根の下で過ごした“避難仲間”だったのだから。
「オンフール双葉」の入所者は、広いスペースの床に何人も寝かされていた。ベッドがあるわけではないから、そうするしかなかったのだろう。暖房は行き届いていた。「自然の家」スタッフの献身には感謝している。
5年近くたつ今も、思い出すとゾッとすることがある。15日夜は山に入ると霧になった。翌朝は雪だった=写真。「ノーマルタイヤで来るのはアブノーマルですかね」。何日か後、施設のスタッフに軽口をたたいたら、真顔でうなずかれた。
「オンフール双葉」の避難行は、広島の市民団体「ボランデポひろしま」が展開する<東北まち物語紙芝居化100本プロジェクト>の中で紙芝居になった。師走にテレビでその活動が紹介されたときに知った。このプロジェクトにはいわき地域学會も関係している。仲間が何編かシナリオを書いた。
川向かいにやって来る「オンフール双葉」は、私の中では同じ“避難仲間”だ。浪江町の広報「なみえ」2015年2月号によると、同施設は応急仮設で、今年(2016年)3月末には完成し、4月以降に開所する。ひとまず
落ち着く先が決まってよかった。
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