1965(昭和40)年にマツタケはキロ当たり1591円、干しシイタケは2056円。シイタケより安かった。それが、1995(平成7)年には2万3195円まで高騰する。2016(平成28)年時点では、マツタケ2万2467円、シイタケ4042円=写真下2。マツタケは高値安定、シイタケはほぼ横ばいだ。
直接の理由はマツタケの生産量が減ったためだという。1965年1291トンが、2016年69トンと、およそ20分の1に激減する。その理由は、落ち葉や枯れ枝が堆積してマツ山が富栄養化し、ほかのキノコやカビが生えて、マツの根と共生する菌根菌のマツタケがすみかを奪われたためだという。
もともとマツタケは落ち葉や枝が少ない貧栄養の土地に生える。戦後間もないころまでは、この落ち葉や枝を拾い集めて、家庭で煮炊きをしていた=写真下3。私の生まれ育った阿武隈の山里でも、私が小学生のころまでは近所の人たちが近くの里山から焚きつけ用に杉の葉や枝をかき集めてきた。焚き木拾いを手伝ったこともある。それがプロパンガスに替わるのは高度経済成長期だ。
台所の燃料がマキからプロパンガスに替わったことで、「おじいさんは山へ柴刈りに行く」必要がなくなった、すると、山は富栄養化してマツタケが生えなくなった、マツタケの数が減って値段が高騰した――というのが、事の顛末。
実は火曜日(11月5日)、中央公民館で月1回、3回シリーズの市民講座「キノコの文化誌」の2回目に「トリュフとマツタケ」の話をした。
トリュフは最初、野蛮人の食べ物とみなされていた。そのうち媚薬効果があると信じられるようになり、王家や貴族が好んで食べるようになった。やがて、オーク(カシの木)を植林してトリュフを増産し、缶詰化する技術も確立して、「世界三大珍味」と持ち上げられるまでになった。
マツタケも、奈良・京都周辺の山が都の造営などで乱伐された結果、二次林のアカマツ林が増えて、貴族や女官たちが「マツタケ狩り」を楽しむようになった。マツタケの発生には「ザラ掃き」による貧栄養化が必要、落ち葉が積もりっぱなしのところはダメ、古いマツ林もダメ――そんなことを話したばかりだったので、「チコちゃん」がプロパンガスまでいったときには、そこへの言及が足りなかったことを反省した。
初回は、川内村史編纂委員会編『川内村史 第2巻
資料篇』(川内村、1990年)をよりどころに、江戸時代の阿武隈のキノコの話もした。川内村では、シイタケとコウタケ(シシタケ)を江戸へ出荷していた(たぶん乾物)。
安政7(1860)年3月の相場は、シイタケが1両当たり1貫550匁、コウタケが2貫400匁と、シイタケの方が高かった。慶応2(1866)年12月には3~2倍にはね上がる。シイタケは1両当たり中級品500匁、コウタケが1貫400匁。マツタケは大小5本で100文。
現代の貨幣価値に換算すると、銭1文は約12円、1両は約7万5000円だそうだ。マツタケ5本で約1200円は、やはり安い。それだけあちこちの山から採れたのだろう。干しシイタケは江戸時代の“換金作物”で、磐城産は中国へも輸出されていた。
トリュフは一度、匂いを嗅いだことがある。マツタケは食べても採ったことはない。というより、はなからあきらめている。かわりに、キノコ関連の紀行文や小説、専門書をあさって読んできた。菌類学は専門家にまかせて、キノコと文学を軸にした「文化菌類学」といったものを、市民講座の柱にしている。12月の最終回には「チコちゃんに叱られる!」のマツタケの話を<付録>として加えようと思う。
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