恒丸は俳諧にとりつかれた一生を送った。52歳、人妻だった44歳のもと女(のちの素月尼=1759~1819年)と駆け落ちし、江戸に住んだ。小林一茶と交流を深め、浅草の札差「井筒屋」五代目、俳人夏目成美のサロンにも出入りした。恒丸の俳句を読むと、一茶に影響を与えたのは恒丸ではなかったか、と思ってしまうほど句風が似ている。
文化3(1808)年、江戸が大火事になり、門人の世話で下総佐原に移住する。指導力が抜群だったのか、門人は常陸・房総合わせて4000人ほどにのぼったという。もと女は恒丸没後、京都で髪をそり、素月尼と名を改める。彼女も俳人として名をなした。
芭蕉が去って蕪村があらわれたころだ。地方にも文字を読み、俳句をつくる武士や商人、富農が続出した。掬明や恒丸より少し早く生まれた本宮の塩田冥々もそのひとりだった。
小林一茶研究で知られる矢羽勝幸さんと、当時、福島県内の高校教師だった教え子の二村博さんが平成15(2003)年に『俳人
塩田冥々――人と作品』(象山社)を、次いで同24(2012)年に『鴛鴦(えんおう) 俳人恒丸と素月』(歴史春秋社)を出した。上掲の恒丸の肖像画=写真=は『恒丸と素月』の口絵から拝借した。
俳諧ネットワークは地域を超え、身分を超えて機能する。2冊の本から冥々、掬明、恒丸のつながりをより詳しく知ることができた。正岡子規はこの時代以降の俳諧を「月並調」と一蹴する。が、庶民の自己表現という視点に立てば、月並調こそがローカルな文化の豊かさ、深さを示すバロメーターになる。
阿武隈高地は江戸時代も今も、「文化果つる地」ではなかった。中央からは地理的に遠いかもしれないが、俳諧ネットワークを介して見ると、地域と地域どころか、中央とも直結していた。川内村の俳人佐久間喜鳥が残した幕末~明治期の膨大な史料がそれを証明する。
創立して間もないいわき地域学會が『川内村史』の刊行を受託し、休日になると、たびたび川内村へ出かけて、村役場のIさんの案内で調査を続けた。私も喜鳥を軸にした幕末の俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。
幕末期、江戸で鳴らした俳僧に磐城山崎村の専称寺で修行をした一具庵一具(出羽国出身、1781~1853年)がいる。喜鳥はこの一具に俳句の添削指導を受けた。
Tさんの先祖、三春の掬明に触発されて、常葉から江戸へ、磐城平へ、川内へと、めまぐるしく俳諧ネットワークを旅してみた。庶民の教養・息抜き・遊びとしての「文芸」という視点から俳句を見直すと、どんなへんぴなところにも1人や2人、「むらの知識人」がいたことがわかる。
古郷や木の芽曇りにはるの月 掬明
世の中は思ひ捨ずともさくら哉 恒丸
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