『ラジオと戦争――放送人たちと「報国」』(NHK出版、2023年)=写真=が、本のタイトルだ。著者は大森淳郎。名前に記憶があった。
東日本大震災と東電福島第一原発事故が起きた直後、放射線量による汚染状況が全くわからなかった。
事故が起きるとすぐ、NHKのETV特集取材班が学者とともに調査・取材に入る。そして、事故から2カ月後、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」が放送される。人々はこのとき初めて具体的な汚染状況を知った。
のちに取材班の仕事は『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年刊)にまとめられた。
取材班の一人だった大森さんはその後、仙台放送局に移り、そこでもドキュメンタリー番組を作り続けた。
あのとき――。飯舘村の南隣にある浪江町赤宇木(あこうぎ)の住民は、高濃度に汚染されながらも、ほったらかしにされたままだった。
たまたま通りかかったNHKのETV特集取材班によって、高濃度汚染が集会所に避難している人々に伝えられた。
その縁もあって、大森さんは、突然、「帰還困難区域」になった赤宇木の取材を続ける。平成27(2015)年には、<東北Z>で「100年後の誰かへ――浪江町赤宇木(あこうぎ)・村の記憶」戦前編、同戦後編が放送された。最後に流れる製作スタッフの字幕に大森さんの名があった。
さて、本題。大森さんが『ラジオと戦争』で取り上げた放送人の一人に多田不二(1893~1968年)がいる。
多田は詩人でもあった。茨城県生まれで、学生時代、磐城平の山村暮鳥と文通した。暮鳥の仲間の萩原朔太郎、室生犀星らとも交流があった。免疫学者で能作者の故多田富雄の大叔父でもある。終戦をはさんでNHK松山放送局長を務めた。
ラジオは大正14(1925)年に放送が開始された。日本放送協会の前身、東京放送局がそれで、翌15年3月、新聞記者経験のある多田が入局し、講演・講座番組を担当する部署に配属された。
NHK博物館などに残る資料から、戦時下、組織人として「国策放送に同化してしまった」多田の仕事が明らかにされる。
「多田不二は戦争協力詩を書かなかった稀有な詩人である。だがそれは、多田が戦争に協力しなかったことを意味しない。ラジオ講演によって『一億国民の精神的団結を計り、長期の総力戦を遂行させ』ようとしたのであり、それは一編の『戦争に協力する詩』以上に国民を戦争に動員する力となったことだろう」
詩人としての多田と日本放送協会職員としての多田の葛藤はあったとしても、結局は時流に沿う道を選んだ。人間はかくも弱い。いや、国策は人間の良心をも飲み込むのだと知る。
1 件のコメント:
多田不二と山村暮鳥は、室生犀星と萩原朔太郎が創刊した雑誌『感情』のメンバーでもありました。
私事で恐縮ですが、大学時代に卒論で室生犀星を扱ったので、多田の名前は見覚えがあります。今度多田の作品をじっくり読んでみたいと思います。
コメントを投稿