2023年7月7日金曜日

『名ごりの夢』

                                  
 「幕末」と聞いて思い浮かぶのは、西郷隆盛や坂本龍馬、徳川慶喜、あるいは新選組の面々だ。

激動の時代を駆け抜けた英雄たち――。司馬遼太郎と大河ドラマの影響からか、幕末にはそんな男たちのイメージがつきまとう。

 ところが、今泉みね著『名ごりの夢――蘭医桂川家に生れて』(平凡社ライブラリー、2021年)=写真上1=には、少女の目に映った幕末・江戸の平和な光景が描かれる。

 みねが数え81歳のとき、息子が出していた雑誌の埋め草として母の口述筆記を始めたのが、のちに本になった。

みねの父親は将軍の御典医にして蘭学者の7代目桂川甫周だ。今まで全く考えもしなかった御典医の暮らしや邸(やしき)の様子、出入りする人間などが生きいきと語られる。

御典医という格式の高い家柄ながら、唯一、蘭学研究が許されていたため、邸には福沢諭吉や柳河春三、石井謙道ら、若い洋学者が出入りしていた。

みねは6、7歳のころ、諭吉におぶさって、諭吉の家に行ったことがある。「そのおせなかは幅が広くってらくだったことをいつも思い出します」。こうしたたわいもないエピソードが、なぜか諭吉の人柄に結び付く。

そうした洋学者たちを見て暮らしていたからか、維新後、病理学者になる石井謙道の家に預けられたときには、石井の子をおんぶしてこんなことを口ずさむ。

「世界はひろし 万国は多しといえども/およそ五つにわけし名目は/あじあ あふりか ようろっぱ」

父親の仕事についても、「なるほど」と思わせるものがある。「いったい奥医は、手足をみがいて、香などたきしめたいい着物をぞろっと着て駕籠に乗って歩いていましたから、まるで婦人のようでした」

おもしろいのは食べ物の話だ。「わーふる」に絞って紹介する。軍艦奉行のおじ(木村摂津守)が諭吉を従者にして咸臨丸で太平洋を往復する。お土産に洋傘や更紗、しゃぼんなどを持ち帰った。すっかり西洋にかぶれてしまい、向こうの料理も始める。

なかに「桂川でも木村から習いまして、西洋菓子だといってワーフルというのをよくつくりました」とある。

実はわが家に村田喜代子著『慶応わっふる日記』(潮出版社、1992年)という小説がある=写真上2。それをたまたま手に取ると、若いときの諭吉が出てきた。で、参考文献にある『名ごりの夢――』を図書館から借りて読んだのだった。

平凡社ライブラリー版の解説はこの小説家が担当した。「まさに『名ごりの夢』は、明治維新の激動の政変を潜り抜けた老女が、めくるめく<少女返り>した物語ではないだろうか」という。

『アンネの日記』のアンネ・フランクとの共通点は「時代の激しい暗転期に快活でシニカルな少女特有の感受性をキラキラと発動させ続けたこと、くじけず、明朗で、賢くあり続けたこと」だという。確かに、小説も、聞き書きも読むと朗らかな気分になる。

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